第11話 彼女が辞表を出す前に
誰かの夢を応援することと、自分の人生を犠牲にすることは違う。
それでも、人は時として、思いがけない場所に自分の未来を見つける。
政治活動が広がり始めた頃、黒崎たちの関係にも変化が訪れます。
東京都千代田区、喫茶店。
「……大阪への異動を打診されました」
桐生美月は、コーヒーカップを置いてそう言った。
向かいに座る黒崎玲司は、言葉を失った。
「大阪、ですか?」
「はい。関西支社の管理部門です。正式な辞令はまだですが、来月中には返事が必要になると思います」
美月は二十八歳。
以前は役員秘書を務め、現在は社内の調整業務を担当している。
仕事の能力は高く、周囲からの信頼も厚い。
黒崎にも、それは分かっていた。
「……昇進に近い話なんですか?」
「そうですね。責任も増えますし、将来的には管理職への道も開けると思います」
「それなら、いい話じゃないですか」
美月は、少しだけ笑った。
「普通なら、そう思いますよね」
黒崎は、その言葉に引っかかった。
「……普通なら?」
美月は、窓の外を見た。
「実は、迷っているんです」
「異動するかどうかを?」
「はい」
黒崎は、黙って続きを待った。
「今の会社には、もう六年勤めています。仕事にも慣れていますし、待遇にも不満はありません」
「はい」
「でも、最近、少し考えるようになったんです」
美月は、黒崎を見た。
「自分が、本当にやりたい仕事って何だろうって」
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「……そうなんですね」
「黒崎さんの活動を手伝うようになってから、いろいろな人と話しました」
美月は続けた。
「税金の負担に悩んでいる人。行政の説明が分からず困っている人。政治に期待することを諦めている人」
黒崎は、静かに聞いていた。
「その人たちの話を聞いていると、今まで自分が知らなかったことが、たくさん見えてきました」
美月は、少し笑った。
「……正直、面白いんです」
黒崎は、驚いた。
「面白い?」
「はい。大変ですけど」
美月は、コーヒーカップを持ち上げた。
「何かが少しずつ形になっていく感じがして」
黒崎は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと言った。
「……でも、美月さん」
「はい」
「俺の活動のために、仕事を辞める必要はありませんよ」
美月は、少し驚いた顔をした。
黒崎は続けた。
「今の俺たちは、まだ政治団体の設立準備中です。選挙に出られるかどうかも分かりません」
「そうですね」
「給料を払えるわけでもないですし、将来の保証もありません」
美月は、静かにうなずいた。
「分かっています」
「だから、無理はしてほしくないんです」
黒崎は、まっすぐに彼女を見た。
「美月さんには、美月さんの人生がありますから」
美月は、しばらく何も言わなかった。
そして、小さく笑った。
「……そういうところですよね」
黒崎は首をかしげた。
「何がですか?」
「いえ、何でもありません」
美月は、少しだけ視線を落とした。
「ただ、黒崎さん」
「はい」
「私がどうするかは、私自身で決めます」
その声は、静かだった。
だが、はっきりしていた。
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「……分かりました」
美月は、少し安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
* * *
2035年5月30日、午後8時04分。
東京都千代田区、貸会議室。
「えっ、美月さん、大阪行っちゃうかもしれないの?」
高瀬直樹が、驚いた声を上げた。
美月は、少し困ったように笑った。
「まだ決まったわけではありません」
「でも、大阪って結構遠いですよね」
「そうですね」
高瀬は、黒崎を見た。
「おい、玲司。何とかしろよ」
黒崎は首を振った。
「俺が決めることじゃない」
「いや、そうだけどさ」
小野寺航が、静かに口を開いた。
「桐生さんがどのような選択をされても、活動が続けられる体制を作るべきですね」
美月はうなずいた。
「私も、そう思います」
黒崎は、少し考えた。
「……確かに」
美月がいなければ、今の活動は回らない。
会場の手配。
参加者への連絡。
資料の整理。
問い合わせ対応。
その多くを、彼女が担当していた。
しかし、それは同時に、彼女一人に負担が集中しているということでもあった。
黒崎は、ホワイトボードを見た。
『国民会計の会』
その下に、現在の役割を書き出した。
黒崎――政策・対外説明。
高瀬――ウェブサイト・配信。
小野寺――政策資料・調査。
美月――運営・連絡調整。
黒崎は、ペンを止めた。
「……これ、まずいですね」
高瀬が首をかしげた。
「何が?」
「美月さんの仕事が多すぎる」
美月は、少し驚いた。
「そんなことは……」
「あります」
黒崎は、はっきりと言った。
「今まで、任せすぎていました」
高瀬が、ホワイトボードを見た。
「……確かに」
小野寺もうなずいた。
「運営の負担が集中していますね」
黒崎は、美月を見た。
「すみませんでした」
美月は、少し困ったように笑った。
「謝らなくても大丈夫ですよ」
「でも、改善します」
黒崎は、ホワイトボードに新しい項目を書いた。
『運営担当を増やす』
「先日、活動への協力を申し出てくれた方がいましたよね」
美月がうなずいた。
「はい。資料作成やイベント準備を手伝いたいという方です」
「その方と、正式にお話ししましょう」
高瀬が笑った。
「ようやく仲間が増えるな」
黒崎もうなずいた。
「一人ずつ、増やしていこう」
その時、小野寺が資料を取り出した。
「それと、もう一つ進めたいことがあります」
「何でしょう?」
「政治団体の設立です」
黒崎の表情が引き締まった。
小野寺は続けた。
「必要事項の確認は進んでいます。会計責任者の選任と、事務所の所在地などを確定すれば、提出に向けた準備が整います」
美月がうなずいた。
「ただし、書類の内容は、提出前にもう一度確認しましょう」
「分かりました」
黒崎は、ホワイトボードを見つめた。
『国民会計の会』
数週間前には、存在しなかった名前。
それが今、少しずつ形になろうとしていた。
* * *
2035年6月1日、午後1時22分。
東京都千代田区、貸会議室。
「初めまして。藤原真琴と申します」
黒崎は、目の前の女性に頭を下げた。
「黒崎玲司です。本日はありがとうございます」
藤原真琴。
三十一歳。
都内の企業で広報・企画業務に携わっている。
先日、ウェブサイトから活動への協力を申し出てきた女性だった。
落ち着いた雰囲気だが、目つきは鋭い。
真琴は、机の上に資料を置いた。
「今日は、皆さんの活動について、いくつか質問させてください」
黒崎はうなずいた。
「もちろんです」
真琴は、さっそく一枚の紙を取り出した。
そこには、国民会計の会のウェブサイトが印刷されていた。
「まず、率直に言います」
「はい」
「今のウェブサイトでは、何をしたい団体なのか、十分に伝わっていません」
高瀬が、少し身を乗り出した。
「えっ、そうですか?」
真琴はうなずいた。
「はい。情報は整理されています。でも、最初に見た人が、三秒で理解できる内容になっていません」
高瀬は、少し考え込んだ。
「……三秒」
「例えば、この文章です」
真琴は、画面を指さした。
『国民が払ったお金の使い道を、分かりやすくする』
「悪くありません。ただ、読んだ人は次にこう思います」
真琴は、黒崎を見た。
「それで、私の生活はどう変わるの?」
黒崎は、言葉に詰まった。
真琴は続けた。
「政治に興味がない人にとって、予算の透明化は目的ではありません」
「……はい」
「知りたいのは、自分の生活が良くなるのかどうかです」
黒崎は、静かにうなずいた。
「その通りだと思います」
真琴は、別の資料を差し出した。
そこには、大きな文字でこう書かれていた。
『働いても、お金が残らない。』
黒崎は、思わず顔を上げた。
それは、自分が政治家を目指した理由そのものだった。
真琴は続けた。
「これを、最初に見せるべきだと思います」
高瀬が、思わず声を上げた。
「……確かに!」
真琴は、さらに説明した。
「その下に、こう続けます」
『税金と社会保険料。国のお金の使い道を見直し、国民の負担を減らす方法を考えます。』
黒崎は、資料を見つめた。
「……分かりやすいですね」
「ただし、具体的な政策が必要です」
真琴は、はっきりと言った。
「言葉だけでは、支持は広がりません」
黒崎はうなずいた。
「分かっています」
真琴は、少しだけ微笑んだ。
「では、私もお手伝いします」
黒崎は、驚いた。
「……いいんですか?」
「はい」
真琴は、資料を閉じた。
「ただし、条件があります」
高瀬が笑った。
「また条件か」
真琴は、真剣な表情で続けた。
「私が提案した内容でも、間違っていると思ったら、遠慮なく指摘してください」
黒崎は、少し笑った。
「もちろんです」
「それと、私も皆さんに遠慮しません」
美月が、静かに微笑んだ。
「それは、心強いですね」
真琴は、うなずいた。
「よろしくお願いします」
黒崎は、手を差し出した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人は、握手を交わした。
こうして、国民会計の会に、新しい仲間が加わった。
* * *
2035年6月3日、午後7時46分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……これ、かなり変わりましたね」
黒崎は、パソコンの画面を見つめた。
真琴が提案した新しいウェブサイトの案が表示されていた。
大きな見出し。
『働いても、お金が残らない。』
その下には、黒崎の活動方針が簡潔にまとめられている。
高瀬が、得意げに笑った。
「俺が作り直した」
真琴がうなずいた。
「前より、ずっと分かりやすくなりました」
「だろ?」
高瀬は嬉しそうだった。
美月が、問い合わせ件数を確認した。
「サイトを更新してから、活動への参加希望が増えています」
黒崎は顔を上げた。
「どれくらいですか?」
「今日までに、累計三十四件です」
高瀬が声を上げた。
「おお!」
美月は続けた。
「ただし、実際に活動へ参加する意思を確認できた方は、まだ七人です」
黒崎は、ホワイトボードを見た。
『継続的な支持者 1人』
その数字を、美月が書き換えた。
『継続的な支持者 7人』
黒崎は、静かに息を吐いた。
七人。
百人まで、あと九十三人。
まだ、遠い。
それでも、確実に前へ進んでいた。
その時、真琴が口を開いた。
「黒崎さん」
「はい」
「次は、街頭活動を増やしましょう」
黒崎はうなずいた。
「そうですね」
「ただし、ただ演説するだけでは、支持は増えません」
「どうすればいいですか?」
真琴は、ホワイトボードに大きな文字を書いた。
『一人の生活を、具体的に変える政策』
黒崎は、その言葉を見つめた。
真琴は続けた。
「国全体の話ではなく、まず一人の生活から考えるんです」
「一人の生活……」
「例えば、年収四百万円の会社員。どんな負担があり、どこを見直せば生活が楽になるのか」
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど」
「もちろん、税率だけを見ても答えは出ません。社会保険料や家族構成など、条件によって違います」
小野寺がうなずいた。
「モデルケースを複数作ると、分かりやすいでしょうね」
真琴は続けた。
「それを、街頭で説明するんです」
黒崎は、少し笑った。
「……やってみましょう」
真琴は、満足そうにうなずいた。
「では、次の週末に準備します」
* * *
2035年6月5日、午後8時21分。
東京都内、黒崎の自宅。
黒崎は、スマートフォンを見つめていた。
美月からのメッセージが届いていた。
『黒崎さん。会社への返事を、来週までにすることになりました。』
黒崎は、しばらく画面を見つめた。
大阪への異動。
美月にとって、大きな転機になる。
黒崎は、返信を書いた。
『美月さんが納得できる選択をしてください。どちらを選んでも、応援しています。』
送信。
数分後、返信が届いた。
『ありがとうございます。』
それだけだった。
黒崎は、スマートフォンを置いた。
美月がいなくなれば、活動は大きく変わる。
だが、彼女の人生を、自分の都合で決めるわけにはいかない。
黒崎は、窓の外を見た。
その時、もう一通のメッセージが届いた。
『ただ、もう少しだけ、黒崎さんたちの活動を近くで見ていたいと思っています。』
黒崎は、思わず画面を見つめた。
そして、小さく笑った。
『ありがとうございます。でも、無理はしないでください。』
送信した直後。
美月から、短い返信が届いた。
『黒崎さんこそ。』
黒崎は、声を出して笑った。
「……確かに」
机の上には、次の街頭活動の資料が置かれていた。
国民会計の会。
まだ、正式な政治団体としての活動を始める準備段階。
それでも、仲間は増え始めている。
黒崎は、資料を手に取った。
『働いても、お金が残らない。』
それは、数週間前の自分自身だった。
だが今は、その言葉を、誰かの生活を変えるための政策につなげようとしている。
黒崎は、静かにペンを取った。
「……次は、もっと具体的に」
その頃。
東京都内の別の事務所で、一人の男性が黒崎のウェブサイトを見つめていた。
榊田修平。
「……国民会計の会、か」
榊田は、小さく笑った。
そして、机の上の資料を閉じた。
「思ったより、早く動き始めたな」
その声には、わずかな警戒が混じっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
活動が大きくなるにつれて、仲間たちの役割や関係も変わっていきます。
それぞれが自分の意思で関わりながら、一つの目標に向かって進んでいく姿を描いていきたいと思います。
次回もお楽しみいただければ嬉しいです。




