第10話 百万円を断った男
目の前にある大きなチャンス。
それを手にすることが、必ずしも正解とは限りません。
何を得るかではなく、何を守るか。黒崎は一つの決断を迫られます。
東京都内、黒崎の自宅。
「……また増えてる」
黒崎玲司は、スマートフォンを見つめた。
昨夜公開した資金援助に関する説明は、予想以上に広がっていた。
『百万円を受け取っていないことは分かった。でも、今後は?』
『結局、政治家に取り込まれるんじゃないか』
『資金がなければ選挙に出られない。理想だけじゃ無理だろ』
批判だけではなかった。
『隠さず説明したのは評価できる』
『まだ判断するのは早い』
『活動の収支を公開してほしい』
黒崎は最後のコメントで指を止めた。
活動の収支。
今まで、自分たちは必要な費用をそれぞれ負担してきた。
会場費。
印刷費。
通信費。
金額は小さい。
しかし、国のお金の透明性を訴える以上、自分たちのお金についても説明できなければならない。
黒崎はノートを開いた。
『活動費の記録を公開する』
そう書いたところで、電話が鳴った。
差出人は、桐生美月。
「おはようございます」
『黒崎さん。今、お時間ありますか?』
「はい」
『鷹宮さんの事務所から、連絡がありました』
黒崎は姿勢を正した。
「何と?」
『今日の午後、もう一度お会いしたいそうです』
「……今日ですか」
『はい。資金援助の件で、直接お話ししたいと』
黒崎は、少し考えた。
「分かりました。行きます」
美月は、すぐには答えなかった。
『黒崎さん』
「はい」
『今日は、何を言われても、その場で決めないでくださいね』
黒崎は苦笑した。
「信用されてないですね」
『信用しています』
美月は、静かに続けた。
『ただ、あなたは自分のことより、活動を前に進めることを優先しすぎます』
黒崎は黙った。
『必要なら、私が止めます』
その言葉に、黒崎は少し笑った。
「……頼りにしています」
電話の向こうで、美月が小さく息を吐いた。
『では、午後二時に』
* * *
2035年5月25日、午後2時06分。
東京都新宿区、鷹宮修一事務所。
「まず、先日の件についてお詫びします」
鷹宮修一は、黒崎と美月を迎えると、そう切り出した。
黒崎は、少し驚いた。
「お詫び、ですか?」
「ええ。情報が外部に出たことで、ご迷惑をおかけしました」
「いえ」
「ただ、誰が情報を出したのかは、まだ確認できていません」
黒崎はうなずいた。
「承知しました」
鷹宮は、机の上に一枚の書類を置いた。
「それで、百万円の支援についてですが」
黒崎の表情が引き締まった。
「はい」
「こちらとしては、予定どおり進めたいと考えています」
鷹宮は続けた。
「あなた方の活動は、社会的にも意義がある。支援する価値があると思っています」
「ありがとうございます」
「もちろん、資金の移動は、適法な方法を確認したうえで行います」
美月が口を開いた。
「資金の出し手について、確認させてください」
「どうぞ」
「どの政治団体からの支援を想定されていますか?」
鷹宮は、団体名を記した資料を差し出した。
美月は、内容を確認した。
「ありがとうございます。こちらでも確認します」
鷹宮はうなずいた。
「それで、黒崎さん」
「はい」
「一つだけ、お願いがあります」
黒崎は、静かに耳を傾けた。
「今回の支援について、しばらく積極的な発信を控えていただきたい」
黒崎は、顔を上げた。
「……理由を伺っても?」
「今は、余計な憶測を呼びやすい時期です」
鷹宮は、落ち着いた口調で続けた。
「支援を正式に決めてから、必要な情報を公表すればいい」
黒崎は、少し考えた。
「正式に決まるまでは、何も説明しないということでしょうか」
「必要以上に話さない、ということです」
「問い合わせが来た場合も?」
鷹宮は、わずかに眉を動かした。
「内容によります」
黒崎は、書類を見つめた。
百万円。
その金額があれば、活動を続けやすくなる。
しかし、また同じ問題が目の前にあった。
発言を控える。
情報を出す時期を調整する。
理由は、混乱を避けるため。
理解できないわけではない。
だが、黒崎は一つのことを考えていた。
「鷹宮さん」
「何でしょう」
「もし、今後この支援について質問された場合、私は事実を説明したいと思っています」
鷹宮はうなずいた。
「それは構いません」
「支援が決まっていないことも、決まった場合の資金の出どころも、説明したいです」
「必要な情報は、当然公開するべきでしょう」
黒崎は、さらに続けた。
「ただ、その説明をするかどうかを、私たち自身で判断したいんです」
鷹宮は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……黒崎さん」
「はい」
「あなたは、政治家になるために、何が必要だと思いますか?」
黒崎は答えた。
「国民からの信頼です」
鷹宮は、小さく笑った。
「それだけでは、選挙には勝てませんよ」
「分かっています」
「資金も、組織も、経験も必要です」
「はい」
「では、なぜ私たちの支援を受けることに、そこまで慎重なんですか?」
黒崎は、少し考えた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……支援を受けること自体が、問題だとは思っていません」
鷹宮は黙っていた。
「ただ、支援を受けたことで、説明できないことが増えるなら、それは違うと思うんです」
鷹宮の表情が、少しだけ変わった。
黒崎は続けた。
「私は、国のお金の使い道を分かりやすくしたいと言っています」
「ええ」
「その私が、自分たちのお金の話を曖昧にしたら、誰も信用してくれません」
しばらく、沈黙が続いた。
鷹宮は、ゆっくりと背もたれに寄りかかった。
「……なるほど」
そして、静かに言った。
「では、今回は支援を見送った方がいいかもしれませんね」
黒崎は、顔を上げた。
美月も、鷹宮を見た。
鷹宮は微笑んだ。
「あなた方が納得できない条件で、無理に受け取る必要はありません」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、はっきりと言った。
「今回は、辞退させてください」
百万円。
黒崎は、その支援を断った。
* * *
2035年5月25日、午後3時12分。
東京都新宿区、歩道。
「……断っちゃいましたね」
美月が、隣を歩きながら言った。
黒崎は苦笑した。
「はい」
「後悔していますか?」
黒崎は、少し考えた。
「……正直、少しだけ」
美月は、驚いたように顔を上げた。
「そうなんですか?」
「百万円あれば、できることが増えましたから」
「そうですね」
「でも」
黒崎は、足を止めた。
「今の俺たちには、まだ自分たちの活動を支える仕組みがありません」
美月はうなずいた。
「はい」
「その状態で、大きな支援を受けるのは、少し早かったのかもしれません」
美月は、静かに微笑んだ。
「私も、そう思います」
黒崎は、少し笑った。
「……美月さん」
「はい」
「今日は、止められませんでしたね」
美月は、一瞬きょとんとした。
そして、小さく笑った。
「止める必要がありませんでしたから」
黒崎も笑った。
二人は、駅へ向かって歩き始めた。
しばらくして、美月が口を開いた。
「黒崎さん」
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「もし、私が百万円を受け取るべきだと言っていたら、どうしましたか?」
黒崎は、少し考えた。
「……理由を聞いたと思います」
「それでも意見が違ったら?」
「話し合います」
美月は、少しだけ笑った。
「それでも決まらなかったら?」
黒崎は、彼女を見た。
「その時は、俺が責任を持って決めます」
美月は、静かにうなずいた。
「……そうですよね」
黒崎は続けた。
「でも、美月さんの意見は、最後まで聞きたいです」
彼女は、少し驚いた顔をした。
「……どうしてですか?」
黒崎は、当たり前のように答えた。
「俺が間違ってる時に、ちゃんと間違ってるって言ってくれるからです」
美月は、一瞬言葉を失った。
そして、視線を前に戻した。
「……それは、仕事ですから」
黒崎は笑った。
「まだ正式な仕事じゃないですよ」
美月は、少しだけ頬を緩めた。
「……そうでしたね」
* * *
2035年5月26日、午後7時48分。
東京都千代田区、貸会議室。
「百万円、断ったのかよ!」
高瀬直樹が、頭を抱えた。
黒崎はうなずいた。
「断った」
「もったいない!」
「分かってる」
「いや、分かってないだろ!」
高瀬は、机の上の資料を指さした。
「供託金、三百万円だぞ! お前の貯金だけじゃ足りないんだろ!」
「そうだ」
「じゃあ、どうするんだよ!」
黒崎は、少し考えた。
「……自分たちで集める」
高瀬は、しばらく黙った。
そして、深いため息をついた。
「……本当に、面倒くさいやつだな」
黒崎は笑った。
「よく言われる」
小野寺航が、資料を開いた。
「ただし、資金を集めるにしても、政治資金に関するルールを確認する必要があります」
美月もうなずいた。
「まず、政治団体の設立手続きを進めましょう」
黒崎は、ホワイトボードを見た。
『国民会計の会』
その下には、活動方針が書かれている。
『国民が払ったお金の使い道を、分かりやすくする』
『必要な支出と、見直すべき支出を区別する』
『財源を確認したうえで、国民の負担を減らす方法を考える』
黒崎は、ペンを取った。
そして、新しい項目を書き加えた。
『活動資金の収支を、分かりやすく公開する』
高瀬が、首をかしげた。
「収支を公開するって、どこまで?」
黒崎は答えた。
「法律で公開が求められるものは当然として、活動費の使い道も、できるだけ分かりやすく示したい」
美月がうなずいた。
「ただし、寄附者の個人情報や安全に関わる情報には配慮が必要です」
「もちろんです」
小野寺が、静かに言った。
「いい方針だと思います」
黒崎は、ホワイトボードを見つめた。
国のお金の使い道を、分かりやすくする。
その第一歩として、自分たちのお金の使い道を明らかにする。
小さな活動だからこそ、できることがある。
「……これでいきましょう」
美月は、ノートパソコンに新しい項目を追加した。
『活動費公開ページ 準備中』
高瀬が、画面を見ながら笑った。
「よし。じゃあ、俺が作るよ」
黒崎は、驚いて顔を上げた。
「いいのか?」
「ウェブサイトくらい、作れるって」
高瀬は笑った。
「ただし、デザインに文句言うなよ」
黒崎も笑った。
「頼んだ」
* * *
2035年5月28日、午後8時36分。
東京都内、黒崎の自宅。
「……できた」
黒崎は、パソコンの画面を見つめた。
『国民会計の会』
新しいウェブサイトが、公開されていた。
活動の目的。
政策の考え方。
勉強会の予定。
そして、活動費の記録。
まだ、公開できる情報は少なかった。
それでも、自分たちの活動を説明する場所ができた。
黒崎は、SNSに短い文章を投稿した。
『政治活動の準備を進めています。
国のお金の使い道を分かりやすくするため、まず自分たちの活動費について、公開できる範囲で記録を始めました。
ご意見やご質問があれば、お寄せください。』
投稿して、数分後。
一つのコメントが届いた。
『百万円を断ったって本当ですか?』
黒崎は、少し考えた。
そして、返信した。
『資金援助のお話をいただきましたが、今回は受け取らないことにしました。』
すぐに、別のコメントが付いた。
『もったいない』
『格好つけてるだけじゃないの?』
『でも、自分たちの活動費を公開するのはいいと思う』
黒崎は、画面を見つめた。
批判もある。
疑問もある。
それでも、少しずつ興味を持つ人が増えている。
その時。
新着メールの通知が表示された。
件名。
『活動への協力について』
差出人は、見知らぬ女性だった。
本文には、こう書かれていた。
『私は、東京都内で働く会社員です。
黒崎さんの活動を知り、何かお手伝いできないかと思い、ご連絡しました。
大きなことはできませんが、資料作成やイベントの準備など、できる範囲で協力したいと考えています。』
黒崎は、少し笑った。
百万円は失った。
だが、また一人、協力したいと言ってくれる人が現れた。
黒崎は、静かに返信した。
『ご連絡ありがとうございます。ぜひ、一度お話しできれば嬉しいです。』
送信ボタンを押した。
その直後。
スマートフォンが鳴った。
美月からだった。
「もしもし」
『黒崎さん。今、少しお時間ありますか?』
「はい。どうしました?」
電話の向こうで、美月が少し息を吸った。
『……私の仕事のことで、お話ししたいことがあります』
黒崎は、顔を上げた。
「仕事のこと?」
『はい』
美月の声は、いつもより少しだけ硬かった。
『実は、会社から正式に異動の話が出ました』
黒崎は、黙って聞いていた。
『それで……』
美月は、一度言葉を切った。
『これからのことを、少し考えたいんです』
黒崎は、スマートフォンを握り直した。
政治活動は、少しずつ前に進んでいる。
だが、その活動を支えてくれている美月にも、自分自身の人生がある。
黒崎は、静かに答えた。
「……分かりました。明日、時間を作りましょう」
電話の向こうで、美月が小さくうなずいた気配がした。
『ありがとうございます』
黒崎は、窓の外を見た。
百万円を断った日。
それは、自分たちの活動を守るための決断だった。
しかし、次に向き合う問題は、お金ではなかった。
人の人生に、どこまで関わっていいのか。
黒崎は、まだその答えを知らなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
信念を守るための決断には、必ず何らかの代償が伴います。
そして、政治活動に関わる人たちにも、それぞれの仕事や生活があります。
次回は、仲間としての関係が少しずつ変わっていく様子を描きます。
引き続きお楽しみいただければ嬉しいです。




