第九話 初めての壁
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
Eランクになって二週間が過ぎた。
依頼は順調だった。
薬草採取。
害獣駆除。
森の巡回。
荷物運搬。
どれも失敗はしていない。
少しずつ。
本当に少しずつだが強くなっている実感もあった。
身体強化も以前より上手くなった。
脚だけ。
腕だけ。
必要な瞬間だけ。
まだ感覚だが、確実に効率は良くなっている。
だから。
少しだけ調子に乗っていたのかもしれない。
***
その日の依頼は森での素材採取だった。
簡単な仕事。
危険は少ない。
そう聞いていた。
実際その通りだった。
昼までは。
***
薬草を採取する。
ノートに特徴を書く。
移動する。
採取する。
書く。
繰り返す。
順調だった。
だが。
帰り道だった。
森の奥から音が聞こえた。
「?」
ガサガサ。
何かが動く。
大きい。
牙鼠でもない。
角兎でもない。
もっと重い音。
俺は立ち止まった。
***
講習会の言葉を思い出す。
『違和感を無視するな』
だから様子を見た。
そして。
少しだけ後悔した。
見なければ良かったかもしれない。
そんな相手だった。
「……大きいな」
猪だった。
普通の猪じゃない。
肩までの高さが俺の胸近くある。
筋肉の塊。
牙も大きい。
名前は知らない。
でも分かる。
強い。
今まで戦った相手とは比べ物にならない。
***
目が合った。
数秒。
動かない。
そして次の瞬間。
突っ込んできた。
「っ!」
速い。
予想よりずっと。
身体強化。
脚。
回避。
間に合った。
だが。
地面が抉れている。
当たっていたら終わっていた。
***
「強いな」
思わず呟く。
怖い。
初めてそう思った。
角兎とは違う。
牙鼠とも違う。
今の俺より。
明らかに強い。
それでも。
逃げるという考えは浮かばなかった。
勝てる方法を考える。
それが先だった。
***
猪が向きを変える。
再び突進。
回避。
脚だけ強化。
避ける。
腕だけ強化。
斬る。
浅い。
全然効いていない。
「固いな……」
皮膚が厚い。
筋肉も厚い。
足りない。
圧倒的に威力が足りない。
***
三度目の突進。
今度はギリギリだった。
肩をかすめる。
「痛っ!」
吹き飛ばされる。
転がる。
立ち上がる。
肩が熱い。
血が出ている。
初めての怪我だった。
***
距離を取る。
呼吸を整える。
猪が睨んでいる。
こちらも睨む。
「……勝てないな」
初めて認めた。
現実だった。
今の俺じゃ無理だ。
戦っても勝てない。
そういう相手もいる。
***
悔しかった。
とても。
街一番になると言ったのに。
リリアナ様に約束したのに。
目の前の猪一匹に勝てない。
でも。
講習会を思い出す。
『生き残る奴が強い』
だから。
初めて選んだ。
「撤退」
逃げる。
身体強化。
脚。
一瞬だけ。
走る。
さらに走る。
森を抜けるまで。
二度と振り返らなかった。
***
ギルドへ戻る頃には夕方だった。
肩には包帯。
服は泥だらけ。
受付嬢が目を見開いた。
「怪我したの!?」
「はい」
「何がいたの?」
「大きい猪です」
「ああ……」
納得した顔だった。
どうやら有名らしい。
「運が悪かったわね」
「そうですね」
悔しかった。
本当に。
「初めてか」
背後から声。
ギルド長だった。
「何がですか」
「勝てなかったの」
俺は黙った。
図星だった。
ギルド長は笑わなかった。
ただ椅子へ腰掛ける。
「どうだった」
「強かったです」
「そうか」
「勝てませんでした」
「そうだろうな」
当然みたいに言われた。
「悔しいか?」
「はい」
「良いことだ」
ギルド長は言う。
「本当に危ねぇのはな」
腕を組む。
「勝てると思い続ける馬鹿だ」
俺は黙って聞く。
「お前は逃げた」
「……はい」
「なら合格だ」
意味が分からなかった。
俺は負けたのに。
ギルド長は立ち上がる。
「勝てねぇ相手を知る」
「はい」
「今のお前に必要なのはそっちだ」
それだけ言った。
そして去っていく。
***
夜。
部屋でノートを開く。
今日のことを書く。
『大型猪』
『勝てない』
『正面から戦うな』
『皮膚が硬い』
『力量不足』
書いて。
止まる。
そして最後に書いた。
『今は勝てない』
少し考える。
それから。
続きを書き足した。
『今は』
ペンを置く。
負けた。
悔しい。
でも。
終わりじゃない。
今日分かった。
街一番への道は思ったよりずっと遠い。
けれど。
いつかあの猪にも勝つ。
そう思えた。
だから。
少しだけ笑った。
負けた日なのに。
不思議だった。
お読み頂き、ありがとうございます。




