2-1 五百年後の世界
獣人の集落には、私が封印されていた湖を発ってから数時間後に着いた。道中の私はラスカにずっと抱えられていた。私が逃げ出さないように、あるいは単に私の移動速度が遅すぎるのか……。
集落は木造の家屋が並び、中心地には地下水を汲んだ井戸が建ってある。
こちらを見てといかラスカとトールの無事を見て喜色満面になる者も居れば、顔を顰める者も居た。それを目敏く見つけて、今回の行動はやはり獣人の総意ではなかったと知る。
当然ながら知った顔は一つもない。
私が封印されてからこうして目覚めるまでの時間について、五百年も経ったというのは与えられた情報だ。私自身が調べたものじゃない。それでも、確かにそれだけの時間が経ったのだろうなと実感している。
面影もないほどに、知らない顔ばかりだ。
ラスカは私を抱いたまま集落を進み、獣人らはそれを遠巻きに眺めていた。私にぶつけられるのは不躾な視線ばかりだったが、石を投げられないだけマシだと思っている。むしろそうされると思っていたので少し拍子抜けだ。
しかし、記憶にある獣人たちの住まいとかなりかけ離れている。
本当に小さな集落だ。見える獣人の数も少ない。
私が封印される前、獣人たちの住む土地は広く堅固で、一つの国のような大きな街だった。
こんな寂れた集落ではない。
ラスカは一軒の家の前に私を連れて行き、ドアの取っ手を握る。
やけに大きく軋む音をさせながらドアを開いた。
目の前に毛玉が飛び込んでくる。
「ラスカ様、トール! おかえりなさい!」
「はい。ただいま戻りました」
「ああ、ただいま。何もなかったか?」
「ちゃんと一人でお留守番できたよ!」
「いい子だ」
「えへへ」
色素の薄い髪はふわふわとして背中に流れており、癖のある髪はあっちへこっちへ飛び跳ねている。
毛玉もとい子供の獣人はくりくりとした丸い目を瞬かせて、ラスカの片腕に乗せられている私をジーッと見つめる。
集落を通る時に向けられた不躾な視線や、トールから向けられるわかりやすい怯えた視線、そのどれもが当てはまらない。子供特有のひどく純粋なものを向けられて、少々居心地が悪い。
「とりあえず中に入れてくれ。紹介はそれからだ」
「あっはい!」
また軋む音を立てて扉が閉まる。
入って廊下すぐの所に部屋があって、ここがリビングのようだ。小さなキッチンが併設されている。キッチン側にテーブルとイスのセット。リビング側にはくたびれたクッションが三つと、この空間では場違いに見える新品のようなクッションが一つ。
私はその新品のようなクッションに下ろされる。身体が沈み込むほどフワフワだ。
私の向かいに子供の獣人は座って、先ほどと同じようにキラキラとした目で見つめてくる。
ふっくらとまろい頬を赤く染めた子供の獣人はラスカに似ていない。家族ではないのか。関係性が見えない。
トールはキッチンへ向かって、何か用意している音がする。
対してラスカは私の隣に腰を下ろし、口を開いた。
「この子の名前はリーリー。居候だ」
「リーリーです! よろしくお願いします!」
よろしくも何もと思っていると、トールがトレーに人数分のカップを乗せて持ってきた。
獣耳がぺたりと伏せられている。現在の私に他者を害する力はない。逆に今のトールは私を簡単に殺せる。そこまで怯える必要がどこにあるのか……。
ラスカを経由してカップを渡される。沸かした水に茶葉の粉末を溶かしたようだ。
私のカップは新しく見えたが、ラスカたちが持っているのは端が欠けていたり取っ手にヒビが入っていたりしている。
ここまで来て毒はないだろう。喉が渇いていたのでカップに口をつける。
可もなく不可もなく。味のついたお湯といった感じだ。
集落の入り口からここまで見えた範囲で感じただけのものだが、廃れているなと思う。五百年前のほうが豊かだった。
これも獣人にかけられた呪いのもたらした結果?
「あ、あの……」
カップを両手に持って、リーリーと名乗った子供の獣人がおずおずと手を上げる。
「魔女様のお名前は?」
そこで私は隣から「あっ」と聞こえた。隣に座っていたラスカの発した言葉で、リーリーの隣に正座したトールも声こそ出ていなかったが同様に口を開いていた。
勝手に知られているものと思っていた。聞かれなかったし。
災厄の魔女がどうのこうのと言っているのだから当然私のことについて何かしら情報を得ているのだとも思っていた。しかし二人の様子からしてそうではないようだ。
「……そうか、そうだよな。災厄の魔女は称号であって名前じゃないからな……」
「ラスカ様、きちんと自己紹介しなかったの?」
「俺は名乗ったが、まあ色々あって円満な自己紹介とはいかなかったな」
遠回しに私のせいだとでも?
顔をしかめそうになったが、問答無用で殺しにかかったのは私だったなと思って明後日の方向を向いておく。
リーリーは頬をぷくりと膨らませた。
「あたしにはちゃんとしなさいっていつも言うのに」
「悪い悪い。よし、じゃあ魔女殿。やり直しといこうか」
ラスカが姿勢を正して私に向き直る。
「俺の名前はラスカ。一応この集落のリーダー的なものをやらせてもらっている」
「あっ、ぼ僕はトールです。ラスカ様の補佐をしております」
無視することもできた。しかし、リーリーのキラキラとした期待のこもった視線が私に突き刺さる。
ここで顔を背けた場合、落ちるのは私の品位だけだろうなあ。
私は仕方なく口を開く。
「――シシュ」
自分で自分の名前を音にすることはほとんどない。誰かが呼ばなければ名前なんてないのと同じ。
私は封印されることになる少し前から誰にも名前を呼ばれなくなっていた。
私を表す言葉はシシュではなく数々の罵倒だった。
だからなのか、久しぶりに音になった私の名前は、どこか胸を締め付ける。
そうだ。私はシシュだ。私の名前はシシュ。
「シシュか。いい名前だな」
黙れ、うるさい。そう言いそうになって、でも私は口を閉じる。
他人の声で呼ばれる私の名前は、自分の物ではないように感じる。しかしなぜか安心する。
この音をもう少し聞いていたいような不思議な感覚。
「シシュ様! 見た目通りの可愛いお名前!」
リーリーが尻尾をぶんぶんと振りながら身を乗り出す。
対して私は目を丸くした。可愛い? 私が? おまえではなく?
「髪もさらさらでいいなあ」
「リーリーはすぐ爆発するからな」
「ぶー! 女の子にそんなこと言っちゃダメなんだよ」
リーリーはきっと私以外に人間を知らないのかも。
まったく何を言うのか。思わずカップを落としそうになった。
とはいえ私も人間をそんなに知らない。五百年前は獣人に囲まれての生活だったし、当時は人間との対立が激しかった。利益を求める商人たちはよく獣人の居住地を訪れていたが、その対応は獣人が行っていて私が人間の前に出ることはなかった。
唯一長く接することになった人間は、私と同じように魔法を扱える――。
「ねえ、シシュ様。どうやったら髪がボワッとならないかなあ」
「……ぼ、ボワッと?」
まさか私に矛先が向くと思わなくて、リーリーの言葉に首を傾げる。
リーリーはかなり癖のある髪だ。集落は流し見した程度だが、この環境下でろくなケアができているようには思えない。
女の子だからお洒落したいのだろうが、リーリーは子供で知識はない。ラスカに知識があるようには見えない。それはトールに対しても同じ。集落の状況からしてリーリーの髪のケアに気を配る余裕は難しそうだ。
「……やっぱり切るしかないのかなあ」
悲しそうに呟くリーリー。
耳はぺたりと折れて、尻尾も伏せられている。
獣人はこういうところがズルい。視覚から訴えてくる感情が倍増する。
「べつに切らなくたっていいと思います。それ、どうにかなればいいんでしょう?」
気づけばそんなことを口走っていた。
ああもう、これじゃあ災厄の魔女っぽく振る舞うことができないのに。




