二話
静まり返った舞踏会。
「命を救ってくれたのはエンヴィー様です」
ミミクの一言に、誰も声を発せなかった。
「……証拠はあるのか」
「もちろん、ございます」
ラグラが低く問い返す。
ミミクは迷わず懐から一枚の古びた布を取り出した。
それはこんなこともあろうかと、持ち出してきた――ものではない。
ミミクが、肌身離さず持ち歩いていたものだった。
「なんだそれは……」
それは子ども用のハンカチだった。
角には小さく刺繍がある。
E・アルセイド。
公爵家の長女、エンヴィーの私物だった。
「十年前、私は毒を盛られ倒れました。毒の正体も治療法もわからず、医師も皆、匙を投げたのだとか」
「ですが、一人だけ毒草を見分け、解毒薬を作った少女がいたそうです。もちろん、私も意識がもうろうとしていたので使用人や医師から聞いた話ですが」
会場がざわつく。
「そんな……」
「あの悪女が?」
ミミクは首を縦に振る。
悪女であることの肯定、ではもちろんなく、その逆として。
「彼女は三日三晩、私の看病を続けました。その時、このハンカチを落としたのです」
全員の視線がエンヴィーへ集まる。
しかし本人は困ったように目を伏せた。
誰からも嫌われて疎まれてきた彼女は、こういった形で注目されることに慣れていなかった。
「昔のお話です。どうか、お忘れください。」
「忘れられません。」
即答だった。
「私の命は、あなたにいただいたものですから。」
会場の空気が変わる。
今まで悪女を見る目だった視線が、わずかに揺らぎ始めていた。
「……姉様、私は」
バーシャが震える声を漏らす。
バーシャは当時七歳だった。
エンヴィーは微笑んだ。
「気にしないで。」
「昔のことよ。」
その笑顔にバーシャの胸が痛む。
幼い頃。
風邪を引けば隣で寝てくれた。
怖い夢を見れば朝まで手を握ってくれた。
その思い出がよみがえる。
王太子ラグラは眉をひそめる。
「バーシャ。」
「これは本当なのか。」
「え……」
バーシャは言葉を失った。
助けてもらった記憶はある。
だが、誰が誰を助けたのか。
幼すぎて覚えていない。
「私は……」
答えられない。
その沈黙だけで十分だった。
貴族たちの空気が少しずつ変わっていく。
「もしかして……」
「何か誤解が?」
「いや、でも悪女なのは確かだろう?」
「そうだ、バーシャ様への嫌がらせは?」
ラグラは勢いを取り戻すように叫んだ。
「そうだ!」
「証拠はいくらでもある!」
「バーシャの日記にも書かれている!」
「ドレスを切り裂き!」
「教科書を隠し!」
「階段から突き落とそうとした!」
その言葉に、エンヴィーは表情を曇らせた。
(そこまで書かれていたのね)
日記の存在は知っていた。
けれど、それはバーシャ自身が書いたものではない。
幼いバーシャの日記は、乳母が「清書」していた。
その乳母こそが、王家と敵対する勢力の間者だった。
妹を王妃に仕立て上げるため。
邪魔になる姉を悪女に仕立てるため。
十年以上かけて、少しずつ嘘を積み重ねてきたのだ。
もちろん、そのことを知る者はまだいない。
「……申し開きはありません。」
エンヴィーは静かに頭を下げる。
「私はこのまま王都を去ります」
「どうか妹だけは幸せに」
その言葉に、ミミクは強く拳を握った。
(また一人で背負うつもりか。)
十年前から変わらない。
エンヴィー・アルセイドは、誰かを守るためなら、自分がどれほど傷ついても構わない。
だからこそ――自分は。
「王太子殿下」
ミミクは一歩前へ出る。
「一つ、ご提案があります。エンヴィー様の処遇は、私にお任せいただけませんか。」
ラグラは鼻で笑う。
「悪女を引き取るというのか?大昔の恩義一つで?」
「ええ」
ミミクは深い笑みをたたえて。
「私の妻として、エンヴィー様を迎えたい」
「は?」
エンヴィーが初めて顔色を変えて、大きく口を開いた。
その瞬間。
舞踏会場は、この日一番のざわめきが包んだ。




