一話
「エンヴィー・アルセイド!」
王族の卒業を記念した舞踏会、すなわち王城で最も華やかな夜。
王太子ラグラの怒号が、広間中へ響き渡った。
音楽が止まり、踊り貴族たちが一斉に振り返る。
視線の先にいるのは、三人の人物。
一人は金髪碧眼の端正な顔に怒りを充満させた王太子ラグラ・フォン・マリオネ。
二人目は怒鳴りつけられているアルセイド公爵家長女、エンヴィー・アルセイド。
墨のような黒い髪と、死んだ魚のような黒い瞳。
しかしエンヴィーに今向けられている悪感情は、その外見とは関係がない。
「君はバーシャに数え切れないほど嫌がらせをした!」
そして三人目は、王太子にしがみついている。
エンヴィーの妹、バーシャ・アルセイド。
怜悧な面持ちのエンヴィーとは対照的に儚げな雰囲気をまとった銀髪の美少女だ。
「彼女のドレスを破り!」
王太子は足を踏み鳴らす。
靴が大理石の床に当たり、固い音を立てているのが滑稽だった。
「教科書を隠し!」
「毒入りの紅茶まで飲ませようとした!」
エンヴィーは静かに目を閉じた。
(……全部、予定通り。)
バーシャは隣で涙を流している。
自分と違い、愛らしい見た目をした彼女は悲劇のヒロインそのものである。
その涙すら、エンヴィーには予定通りだった。
「私は!」
ラグラは隣にいるバーシャの肩を抱く。
婚約者ではない女性の体に触れたことで、今までとは質の違うざわめきが起きるが、ラグラの耳には入っていないらしい。
「真実の愛を見つけた!」
会場から歓声と拍手が響く。
「よって今日、この場でエンヴィー・アルセイドとの婚約を破棄する!」
貴族たちは口々に叫ぶ。
「悪女にふさわしい末路だ!」
「ざまぁみろ!」
「やっと王太子殿下も目を覚まされた!」
もはや趨勢は決した。
何を自分が行っても覆るまい。
エンヴィーは静かに一礼した。
「承知いたしました。」
そのあまりに淡々とした返事に、ラグラは眉をひそめる。
「……反論しないのか?」
「ございません」
「泣かないのか?」
「泣く理由がありませんので。」
その一言に会場がざわついた。
先ほどのような歓喜ではなく、エンヴィーを嘲弄するものだった。
「感情がないのか?」「冷酷と言われるだけのことはある」などといった声があちこちから漏れ出る。
だから誰も気づいていなかった。
エンヴィーの口角がわずかに上がっていた。
(終わったわ)
ようやく終われる。
十年間、父から命じられた通りに動いてきた。
『バーシャだけは守れ。』
そう言われたから。
王家には敵がいた。
妹は狙われていた。
だからエンヴィーは悪役になった。
嫉妬深い姉、冷酷な婚約者、社交界の嫌われ者。
すべて演技だった。
「では」
エンヴィーは優雅に頭を下げた。
「失礼いたします」
そのまま踵を返そうとした瞬間。
「待ってください」
低く落ち着いた声が響いた。
誰もが振り返る。
黒い軍服。
銀色の瞳。
「貴方は――」
ミミク・ローゼン辺境伯。
若くして帝国との国境を守る王国の重鎮だ。
彼は真っ直ぐエンヴィーを見る。
怜悧な瞳から、彼の感情はうかがい知れない。
「その婚約破棄、少々、お待ちいただけますか。」
広間の空気が凍った。
王太子ラグラが険しい顔になる。
「辺境伯、貴様誰にモノを言っているのか理解しているのか?」
ミミクは静かに答える。
「その女性を悪女だと断じる前に、一つだけ確認したいことがあります」
「申してみろ」
ラグラは不愉快そうに床に靴をぶつけるが、彼の言葉を遮ろうとはしなかった。
「十年前」
「王宮で毒入りの焼き菓子を食べて倒れた少年を覚えておられますか?」
ラグラの表情が変わる。
どうして今そんな無関係の話をするのか、という疑問がそのまま顔に出ていた。
「ああ、バーシャが助けたと聞いているが」
ミミクはゆっくり笑った。
冷徹な表情を崩して、初めて笑った。
その端正な顔に、エンヴィー以外すべての女性が頬を赤らめる。
「助けられたのは、私です」
そして。
「命を救ってくれたのは、バーシャ様ではありません、エンヴィー様です。」
広間が静まり返る。
エンヴィーだけが、小さくため息をついた。
(でしゃばらないで、黙っていてほしかったのに。)
その日。
王国で最も嫌われた悪役令嬢の運命は、大きく動き始めた。




