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機械仕掛けのエデン  作者: null
二章 鋼鉄の扉

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9/21

鋼鉄の扉.5

これにて二章が終了でございます。

追加で幕間がありますので、そちらもどうぞご覧ください!

『ルイなら廊下を戻っていったよ。トイレなんじゃない?』


 そんな呑気なクラスメイトの言葉を耳にしても私は、決して安心なんかできなかった。むしろ、何も言わず出て行ったのなら、ルイがいつものように勝手な行動をしたに違いないという確信を持っていた。


 私はできるだけ誰にも気取られないようにするため、「じゃあ、私も」なんて言って休憩を抜け出す。レイジはそんな私の背中に向けて、「漏らすなよ」なんて品の無い言葉を吐いたが、それに反応してあげられる余裕は残っていなかった。


 また、ルイの行動がツヅリやマザーに迷惑をかける。


 それだけならまだ、私もただ苛立つだけで済ませられるかもしれない。でも、今回、その発端を作ったのは私なのだ。私の発言がマザーにこうした機会を用意させ、そして、機に乗じてルイがまたよくないことをしているのである。


 悪事の片棒を担いだような気になった私は、一応、トイレのほうに向かい、ルイがいないか外から声をかけたが、案の定、中から何の反応も返って来なかったことでいよいよ確信し、早足で来た道を戻り始めた。


 ベルトコンベアのある部屋、プレス室、処理室…。


 どこにも彼の姿はない。


 もしかして、勝手に寮へ帰っただけなのか、という疑問が頭に浮かんだとき、私の視界の隅に小さな扉が入ってきた。


 マザーや教師のようなサイズ感では潜ることもできなさそうな扉。でも、人間だったら通り抜けられる。


 何のためにこんな扉が、と疑念を抱く。この区画には義体しかいないはずである。


 元々、大人たちが住んでいたのだろうか、と考えているうちに、次は、この扉をルイが通っていったのではという考えが浮かんだ。


 私がこの違和感に気づいたのだから、頭の良い彼が気づかないはずがない。だとしたら、そのズレを解明するためにルイはここを通ったのではないか?


 ありえる。十分、ありえる。


 私はしばし逡巡した。ルイを追いかけて止めるべきだと思う一方、彼を追うことは同じルール違反を犯すも同義だと考えたからだ。


 時間にしておよそ、三十秒ほどだっただろうか。短い時間ではあったが、私としては長い時間だった。


 やがて私は意を決し、ドアレバーに手をかける。


 金属のレバーは冷たかった。無機質さが私を拒んでいるようだが、これ以上、ルイにツヅリやマザーに迷惑をかけさせまいという一心で扉を開ける。


 …扉の先は、薄暗く狭い通路だった。


 人が離合するので精一杯の狭さ。およそ、マザーや先生といった義体たちのための通路ではない。ただ一方で、人間にも不都合なことがあった。


「…暗い」


 天井に吊り下げてある申し訳程度のランプの光では、とてもではないが通路の端から端は見えない。通路の前後、奥のほうにもランプは見えるが、その間に蠢く暗闇を晴らすことはとても難しい。


「なに考えて作ったの、この通路…」


 気温も先ほどの通路より一段くらい低い気がした。いや、どうだろう、暗闇や音のない空間への恐怖心がそう感じさせるのか…。


 ごくり、と音が鳴った。それが自分の喉の音だと気付いたとき、私は初めて自分が今まで守ってきたルールを破っていることを思い知る。


(引き返すなら、今しかない)


 そんな考えが頭に浮かぶ。でも、それで何かが解決するわけでもないと分かっていたから、私は恐怖を勇気で蹴飛ばして、通路を進んだ。


「…ツヅリのため、マザーとツヅリのため…」


 暗いから、壁に手をついて歩いた。


 足元が覚束ない。


 何かに引っかかりそうになっても、そのときになるまで分からないはずだ。


 そう、足元に何かいても…。


 暗闇は人の想像力を加速させる。そしてそれは往々にして、悪い方向に。


 背筋がぞわぞわする恐怖で足が重くなりながらも、私は足を前に出し続ける。そうしなければ、かえって何か怖いものに追いつかれそうな気がしたからだ。


 通路の突き当たりまで到着する。通路はそこで左右に分かれていたが、右にも左にも、また同じ不気味な通路が広がっているだけ――。


「あ…」


 不意に、何かが右の通路の奥で蠢いた。


 薄明りに輪郭を描き出された何かが、ゆっくりとこちらに向かって来ているではないか。


「ひっ」


 悲鳴に近い声が歯の隙間から漏れるも、叫び声にもならない。怖くてどうしようもなかった。逃げ出すことも、誰かを呼ぶこともできない。


 相手もこちらの声を聞き取ったらしく、ぴたり、と動きを止めた。その動物的な反応がいよいよ恐ろしくなって、その場に崩れ落ちかけたそのとき、人影のほうから声が聞こえた。


「誰だ」


 一切の警戒心を隠さない、低い声だった。しかし、私はそれを聞いて、むしろほっとした気分になった。なぜならその声は、私が探していた人のものだと直感したからである。


「ルイ君?ルイ君だよね…!」


「その声…あぁ、アイさんか」


 弱々しいランプの下にルイの顔が照らされる。顔面蒼白だった。きっと私もだろう。


「あぁ、もう、良かったよぉ。怪物とかだったらどうしようかと思った…」


 安堵の吐息を漏らしながら彼のそばに寄れば、ルイも少なからず安心した感じでため息を吐いて言う。


「なぜこんなところにいる。社会科見学はどうした」


 私はつっけんどんな感じのルイの物言いにムッとした。


「なぜって…あのねぇ、私はルイ君が急にいなくなったから、またマザーやツヅリに迷惑をかけるようなことをしてるんじゃないかって思って、わざわざ追いかけて来たんだよ!」


「わざわざか…それはご苦労なことだ」


「なにそれ、皮肉!?」


「そうだ。能天気に見えるが、皮肉くらいは分かるらしいな」


「はぁ!?って、ちょ…!」


 直後、あろうことかルイは踵を返すと、いつか見た懐中時計を確認しながら、再び薄闇の中へと戻って行こうとした。


(ありえない。ここまで迎えに来たのに、お礼どころか皮肉を言ってどっか行こうとするなんて…!)


 ルイの自分勝手さは、私の堪忍袋の緒を切るのに十分な切れ味を持っていた。


「ルイ君、待ってよ!」


 さすがの私も怒り心頭でルイの肩を掴む。すると、思いのほか勢いが強かったのか、ルイが手にしていた時計が衝撃で手から離れ、暗い通路の床に落ちた。


「あっ、ごめ――」


「おい、時計を開いているときはやめろ!大事なものなんだぞ」


 こちらの謝罪を遮ったルイは、不愉快さに顔を歪めたまま通路に屈み込み、懐中時計を探した。


 私は正直、意外な気持ちだった。まさかルイが、時計のためにあんなふうに怒るなんて…いや、というか、それほど大事にしている物があるなんて、というほうが正しいか。


「ちっ…どうしてこうも暗いんだ…」


 通路が暗くて、簡単には見つからないらしい。


「ごめん、私も探すよ」


 すぐにこちらもしゃがみ込んで床を手探りで探す。そうして二人、無言のまま十数秒、指先が時計に触れるのを待っていると、こつん、と指先が何かに触れた。


「あ、あった」


 指先を動かす。どうやら、壁と床の間に小さな隙間が空いていたようで、その隙間に入り込んでいたらしい。


「さっさと取ってくれ、アイさん。時計がないと落ち着かない」


「はいはい、ほら、これ…」


 指先でつまんだものを、一緒にしゃがみ込んでいるルイの前に持ち上げてみせる。すると、私たちの目の前には予期せぬ物が現れた。


「あれ?」


 それは、時計ではなかった。




 フック状になった木の部分に、赤い宝石が…いや、宝石を模しているらしいものがぶら下がっていた――イヤリングだ。


 決して綺麗なものではない。歪だ。木も石も、形が歪んでいる。間違いなく手作りだろう。


「なに、これ?」


「イヤリングだ」


 ルイは即答した。


「いや、それは見れば分かるよ。なんでイヤリングがこんなところに?」


「…」


「誰か落としちゃったのかな」


「それはおかしい」


 ルイが即座に否定する。


「ここがどこだか忘れたのか」


 私はその一言にハッとした。


 ここは、『立ち入り禁止区画』だ。本来、人は入りようがない。人が着けるイヤリングがここにあること自体、矛盾している。


 しかし、と私の脳みそは回転する。この矛盾を抱えていると、なんだか寒気がしてたまらなかったのである。


「じゃ、じゃあ、マザーたちの落とし物じゃない?ほら、義体のみんなだって、ドレスを着てたりとかするし…」


「いや、それもおかしい。この通路に入るための扉は小さかった。僕は突き当たりまで行ったが、そっちも僕らが屈んで通れるくらいだった。義体には無理だ。どちらも鍵がかかっていて、先には進めなかったが…」


 ルイの言い方が深刻だったからか、それとも、この薄闇のせいなのか、私は何かよくないことに足を踏み入れている気がした。あぁ、もしかすると、最近読んでいる小説のせいなのかもしれない。


 人知れず、人を支配する怪物が、このシェルターにいる。


 そんな鼻で笑うような妄想が、今、息をし始めた。


 息を飲む私の隣で、ルイが他に何かないかと隙間に手を伸ばす。私はそれを黙って見つめていた。


 やがて、ルイは自分の時計を見つけ出した。そのとき、彼は珍しく年相応の表情で安堵を露わにしたが、すぐに小難しい顔に戻ると、また隙間に手を伸ばした。


「まだ何かあるぞ。次はなんだ」


 どこか興奮した様子のルイ。深淵から引き戻された彼の手のひらには、先ほどと同じイヤリング――いや、わずかに大きさが違う。はめられている宝石もどきも錆びたような黒だ…。


「同じものか?」


 ルイの言葉に対し、私はとっさに反応する。


「大きさが違うよ。ペアリングじゃない?」


「ペアリング…」


 ルイが少し妙な顔をしてぼやく。彼が感じた違和感を、私も遅ればせながら同じように感じることとなる。


「でも、こんなに大きさに差があるのにそれは変かぁ」


 ペアリングは、普通、同じサイズ感だ。


 それぞれ体格は違うとはいえ、男性同士、女性同士ならばそこまで大きく骨格は変わらない。少なくとも、こんなふうに一回り、二回りもサイズ感が違うのは妙な話だ。


 これではまるで、“男性と女性のためにデザインされたイヤリング”みたいだ。


 彼は深刻な顔で私にイヤリングの片方を握らせると、また隙間に手を突っ込んだ。


 もうこれ以上、何も見つからないだろう。いや、どこか、もう見つからないでほしいとも思っている自分がいた。


 そんな私は、ルイの行動から意識を離せるようにイヤリングに没頭することに決めた。


 私が持たされたのは、小さいほうのイヤリングだった。イミテーションの宝石も錆びた色をしている…。


(あれ…これ…)


 イミテーションの宝石には、ほんのわずかだが柘榴石のような輝きを放っている面があった。


 妙なデザインだ。


 何の気なく、私は宝石の錆色の部分をひっかいた。


 ぱらり、と何かが剥がれ落ちる。


 下からはやはり柘榴石の赤い輝きを模す、偽物の輝きが現れる。


 何かが張り付いていたのだ、と気づくのに時間はかからなかった。


 汚れていた。


 汚れていたのか?


 爪の間に視線を落とす。


 赤黒い何かが、爪の隙間に入り込んでいる。


 瞬間、私の頭に稲光のような考えが閃く。


 それは背筋を抜け、足元を、脳天を、悪寒という闇で痺れさせる。


「ルイ君、これ…」


 血だ。


 血の痕。


 誰かの、血…義体ではない。義体に血は流れていない。


 生きていた人間の血だ。


 私はルイにそれを知ってほしくて、彼に呼びかけた。だが、ルイは蹲ったまま動かなかった。


「ルイ君、聞いてる?ルイ君、どうしたの?」


 ルイの手元を覗き見る。何か持っている。


 彼は私の動きに気がつくと、手に持っていた何かをあっという間に丸めて、ポケットにねじ込み、立ち上がった。


「なんでもない。アイさん、ここを出よう」


「え、でも、待って、これ――」


「出るんだ」


 私は有無を言わさないルイの語調に何も言えなくなった。


 いや、口調だけが理由じゃない。


 ルイの蒼白の面持ちと、それに矛盾するみたいな興奮でギラギラする瞳に気圧されたのだ。


 私は静かに何度も頷いた。今さらになって、自分がとんでもない間違いを犯しているような感覚に襲われて、手足が震えた。


 互いに無言のまま、元来た道を引き返す。


 あと少しで、背の低い扉に辿り着く。


 扉は無機質で、他人行儀で、不気味だった。冷たく物言わぬ鋼鉄がじっと私たちを睨む。


 扉まで、残すところ2m…というところで、それは独りでに開く。


「ひっ」


 思わず悲鳴が漏れた。ルイも少し前方で身を強張らせていたが、意外なことに私を守ろうとするみたいに自分の立ち位置を変えた。


 薄闇を切り裂く暗い光の向こうから、ぬっと、美しく、すらりとした足が入ってくる。


 私はその見知った姿を見ても声が出ずにいたのだが、そんなことをせずとも彼女のほうから口を開いてくれた。


「先生の言う通りの場所にいるものですね。ルイ、アイ」


 マキナだった。


 彼女はこんな薄気味悪いところでも表情一つ変えず、私たちを見つめていた。まるで感情のない怪物みたいな冷静さだと思った。


「マキナさん。どうしてここに」とルイが尋ねる。


「はぁ…」


 重々しくも、芝居がかった感じのため息だった。


「どうしてもこうしてもですね、貴方たち二人がいない、とみんなが騒ぎ立てるものですから…クラス委員長として私がここを探しに行けと先生に言われたのです。さぁ、早く戻りましょう。お冠ですよ、先生も、みんなも。二人のせいで無駄な時間を消費したのですからね」


 呆れているのか、抑揚なくそう告げたマキナは、すっと再び扉をくぐって身を消した。


「…なぜ、この場所が…」とぼやくルイの後ろで、私はいち早く光の照らす場所へと戻りたい気持ちを強めていた。


 だから、速やかに彼を追い抜いて前に出た。すると、扉の向こうに消えていたはずのマキナが唐突に、ぬっと、顔だけが見えるように上体をのけぞらせ、私たちを見ながら言った。


「探し物は見つかりましたか?」


 じっと…私を見るマキナの青い瞳。


 分からなかった。彼女の言葉の意図が。


 でも、私とルイがさっき見たもののことを超能力か何かで知られているようで、薄ら寒い心地がした。


 探し物…。


 私のポケットに隠された、血のようなものがついたイヤリング。


 そして…ルイが手にしていたもの、あれは多分…――手紙だった…気がする。


 



【幕間 呪われた生命】



 寮と学校の間にある公園のベンチにかけて、私――ツヅリは、揺れる夕陽が地平線に落ちていく様を眺めていた。


 私たちを取り巻く世界は美しかった。公園も、図書館も、繁華街も、学校も、いっそ、残酷なまでに美しい。


 それも当然だ。何もかも、私たちのために設計され、輝き、息づくのだから。


 あの夕陽も、雲も、空も、地平線も、何もかもが偽物。


 そうではないものは、この場所でたった一つ。あの展望台から見える暗い森だけ。


 ある意味、私たちでさえそうだ。


 このぐるぐるした感情を解き放てずにいる、馬鹿みたいなハツカネズミそっくりなこの心も…所詮は紛い物でしかない。


 ぐっと、胸が苦しくなって、慌てて手で抑える。作り物だなんだと言っておきながら、それでも当然のように拍動し、痛む胸が道化じみて感じられた。


 最近、苦しいのを忘れられることが増えたのに、その反動みたいにして前よりもっと胸が苦しくなるようになってしまった。


 それもこれも、あの子のせいだ。


 あの、物語に登場するヒロインみたいな…眩しく、真っすぐで、優しい…あの子の。


 私は無意識のうちに、目蓋の裏に宿る暗闇にあの子の姿を描き出していた。


 陰気な私と違う、あの子の明るさは、疑いようもないほどに私の心を侵食しつつあった。


 そんなことを思い描き、考えていたからだろうか。それとも、こういうものを人は勝手に運命なんて呼ぶのだろうか?


 沈む夕日の方角から、肩を落としたあの子が――アイが、とぼとぼとこちらに歩いて来ていた。


「アイ…!」


 立ち入り禁止区画のことで『先生』にこってり絞られたのは明白だ。いつもは陽をたっぷり浴びて爛々と咲く花のような彼女が、今はすっかり萎れてしまっていた。


 それなのに。


 それなのに、だ。


「あ…!」


 アイは遠目に私を見るや否や、花のような笑顔を浮かべ、大きく手を振りながら駆け寄ってきた。


「ツヅリ!」


 そのときの私の気持ちを、誰が理解できるだろう?


 苦しみを、喜びを、恐怖を、寂しさを、慣れない愛しさを、嵐のような諦観を!誰が!一体、誰ができるだろう!


 …いや、誰にも分からない。おそらく、いいや、違う、間違いなく、この世に存在する人類の誰にも分からない。


「いやぁ、めちゃくちゃ怒られちゃったよぉ!確かに、ルイ君を探しに行った私も悪いんだけど、一番悪いのはさぁ」


 でも、このモヤモヤはそんな行儀の良い諦めを受け入れられなくて。


「何回注意しても聞く耳持たないルイ君のほうだと思うんだよね」


 目の前で輝く、この光閉ざされゆく私の世界に残った、たった一つの太陽を。


「…まぁ、でも…ちょっと、変なことあったっていうか、なんていうか…あぁいや、怖がらせたいんじゃないんだけど」


 大きく口を開けた虚無に飲み込ませてなんて、あげられなくて。


「…これ、なんだと思う?」


 私は、いてもたってもいられなくなった。


「っ!」


 気がついたら、こちらに向けられていたアイの手を払いのけていた。その拍子に彼女の手から落っこちた、よく分からない装飾品のことなんて無視して、私は荒ぶる心が巻き起こした濁流に任せて言葉を放つ。


「自分が何をしているのか、分かっているの!?」


「つ、ツヅ――」


「危ないこと、しないでよっ!」


 再三言葉を遮られたアイが丸々と、こぼれ落ちんばかりに目を大きく見開くのが見える。でも、まずいと思いながらも体は止まらない。


「どうしてあんな男の後を追ったの!?何かあったらどうするつもりだったの!?巻き添えを食うところだったかもしれないのよ!?」


 ショックで硬直してしまっている彼女を置き去りにして加速する私の激情。こんなふうに誰かを怒鳴りつける経験なんてなかった。


 怒っているけれど、怒っているのではないのだ。ただ、私は……。


 ブレーキを失ったのは、口だけではなかった。


 怒りの渦の中に確かに存在していた彼女を想う気持ちが私の体を支配し、アイの体を抱き締めさせていた。


「つ、ツヅリ…?」


 乱高下する私の情緒について来られないのだろう。アイが弱々しい、混乱した声を耳元で発する。


 私には欠けたものを多分に含んだアイの声が脳の皺の隅々に流れ落ち、ようやくこの体から力と怒りが抜けていく。


 ぽつりと、一番大きな感情が一粒の言葉になってこぼれる。


「……心配、かけないでよ…!」


 目頭が熱くなる。誰かを想って涙が出そうになることなんて、生まれて初めてだった。


 私は懸命に嗚咽を漏らすまいとした。もちろん、涙もだ。無意識のうちに歯を食いしばり、何もかもがこの喉を貫いて飛び出してしまわぬようにとしていた。


 対するアイは…。


「ツヅリ。大丈夫?」


 何も知らないくせに、とても穏やかで、優しい声音で私の体を抱き締め返してきた。


「ごめんね、ツヅリ。ごめん」


 何に対して謝らなければならないかも分からない立場なのに、アイは規則的な調子で私の背を撫でる。


「ツヅリに不安な気持ちをさせたかったわけじゃない。でも、ごめんね。心配かけて、ごめん」


 アイは優しく、清らかだ。魂が目に見えるとしたら、彼女のそれはきっと純白の光に覆われていて、暗く澱んだ私の魂など蹴散らしてくれるのだろう。


「それから、ありがとう。心配してくれて」


 清廉な言葉が福音の如く私の胸に響き、とうとう涙や嗚咽が抑えきれなくなってしまう。


「う、うぅ…!」


 どうにかその場に崩れ落ちずにいるだけで精一杯だった。いや、どうだろう。アイが支えていなかったら、蹲っていたかもしれない。


 言ってしまいたかった。


 この胸の内側を。


 誰もが宿命づけられた、この命の裏に宿るものを。


 遥か昔、気の利いた西暦人類の誰かが言ったらしい。


 生は、死に至る過程であると。


 生まれ落ちるとは、同時に、死へと落下する旅路の始まりでもあると。


 その言葉を文字が蠢く画面上で見つけたとき、私は自分の部屋で声を出して笑った。


 涙を流しながら、この生を汚く罵りながら。


 …あぁ、あの日のことを思い出したら、やっぱり口にしたくなったではないか。


 ――アイ。


 私たちの生は、呪われているよ。

次回は土曜日、日曜日で連続更新です!

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