鋼鉄の扉.2
ツヅリは、部屋の中央に置かれたベンチに腰かけていた。じっと動かずにいるから、まるで死んでいるみたいだと思ったが、彼女は私の足音を耳にすると、とても怯えた様子でこちらを振り返った。
「あ、ごめん、ツヅリさん。驚かせた?」
「…アイ、さん…」ゆっくりと、その表情が安堵に染まる。「いえ…」
ツヅリは、ゆっくりと顔をまた正面に戻した。その素振りに、今、私とは話したくないという言外の意図が込められているようで胸がきゅっとしたが、勇気を出して彼女のそばへと近づく。
「ツヅリさん」
「はい」
「一緒にいても、いい?」
わずかな沈黙の後、ツヅリが頷く。
「ありがとう」
私はお礼を口にすると、そっとツヅリの隣に腰を下ろした。
それからしばらく、黙って空を見上げていた。シェルターの外と中とでは同じ時間が流れるようになっていて、ガラスの向こう側には夕焼け空が広がっていた。
時間をリンクさせているのは、いつか、誰もが外の世界で生きていける時代が来た時、感覚が崩れないようにするためらしい。今は各シェルターの様子を見に来る、ガスマスクを所持した一部の大人たちだけが外の世界を歩いていると先生が言っていた。でも、装備があっても、汚染された空気のせいで病気になるものが後を絶たないと聞く。大人たちは命がけの仕事をしてくれているのだ。
展望台から見えるのは、青々とした森と空だけ。飽きのくる景色かもしれないが、寂寥感がそれを許さない。
言葉にし難いセンチメンタルが胸いっぱいにたまったあたりで、私は会話の口火を切る。
「最近のツヅリさん、なんか、苦しそう」
「…そんなことは…」
「私の気のせい?」
互いの顔も見ずに会話を続ける。ツヅリは何も答えない。
「私、ぼーっとしてるから頼りにならないかもしれないけどさ…何か力になれることがあったら、言ってね」
これが精いっぱいだと思った。私なんかが彼女にできることの。
あまりにチープな言葉たち。手垢がついた言葉だ。これで心を動かせるのなら、誰も苦労はしない。
でも、何かがツヅリには届いたのだろう。彼女は顔をこちらに向けて、私の横顔を見つめているようだった。もしかすると、ツヅリにそうさせたのは言葉の意味ではなく、私の想いなのかもしれない。
(だったら、とても嬉しいな)
私は、そっと顔をツヅリに向けた。彼女もまた、やはりこちらを見ていた。其の瞳には、喜怒哀楽だけでは形容しきれない感情が揺らめいていた。
その中には迷いや躊躇、不安なんかがあったように見える。それなのに、無理やりツヅリの声を喉の奥から引きずり出すのは、何か違う気がした。だから、私はそっとツヅリの手に触れる。
「無理に言わなくていいよ。言いたくなったらでいいからね?」
ツヅリの手は温かった。
この温もりだけで、私の心はこの時間に意味を見出せる。
「……アイさんは、どうしてこんなに優しいの?」
横目で私を見るツヅリ。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「えー、それ聞いちゃう?」
私は多少、おどけた口調をしてみせた。さすがの私も照れ臭かったのである。
「ほら、前にも言ったけど、タイプだし。私のことも気に入ってほしいじゃん?」
「…あぁ…」
ちょっと残念そうな呟き。
あぁ、違う。嘘じゃないけど、中心はそこじゃない。
「でも」
私は一転して、真面目な顔と口調になった。ツヅリの手を握る手のひらにも自然と力が入る。
「…でも、まぁ、そうじゃなくても、こうするよ。人として…っていうか、私が、そうするべきだと思うことだから。こうする。…手は、ツヅリさんだから握らせて頂いてますけども…」
最後は少しだけ照れ臭かったが、大事なことだったから一応付け足しておいた。
好きだから、助ける。
それも大事だ。でも、それだけじゃない。
苦しんでいる人間を見えないフリして素通りできるのであれば、それはきっと、ある種の強さなんだろうと私は思う。
だけど、他人の痛みに鈍感になってしまえるのは、自分の痛みにも鈍感な証拠だ。
私は苦しいのも、悲しいのも嫌だから…ツヅリの言葉にできないような苦しみもなんとかしたいと思うのだ。
ツヅリと私は再び、しばらく黙り込んだ。私はツヅリが何かを話し始めるまで黙るつもりだったから、沈黙を友にすることも厭うつもりはなかった。独りにしてと言われれば、そうするつもりでもあった。
黙っている間、私は窓ガラスの向こうに目を剥けていた。
汚染されている大地は、一見してもそうとは分からなかった。青々とした木が群れを成すみたいに並んでいるから、自然は活気よく息づいているようなのだ。
でも、そうではないのだと先生たちは言っていた。鋼鉄の体でも持っていない限り、外界での活動は非情に危険だと。大人たちも、それで毎年何十人も死んでいると聞いた。恐ろしい話だ。
夕焼けに染まる、黒い森。
目には見えない魔物が、あそこにはいるのか。
妙な恐ろしさを覚えた私が息を飲んだとき、ぼそり、とツヅリが口を動かした。
「……心配してくれて、ありがとう…」
きゅっと、ツヅリの指が私の指に絡む。それだけで心臓がドクンと高鳴るが、甘い時間はそう長くは続かなかった。
「でも、大丈夫だから。なんでもないの」
ゆっくり離れていく、ツヅリの指と体。
彼女は静かに立ち上がると、分厚いガラスに近づいた。ツヅリの背中が今日は少しだけ小さく、弱々しく見えたのは何故なのだろうか。
ふぅ…と長い吐息を漏らしたツヅリ。ガラスに置かれた指は震えていた。
くるり、とツヅリが振り向く。すでに彼女の顔から怖気のようなものは消えていた。
「アイさん。そろそろ寮に戻りましょう」
「ツヅリさん…本当に大丈夫なの?」
「はい、大丈夫」
私が無言だったことが引っ掛かったのだろう。ツヅリは困ったふうに微笑むと、こんなことを言った。
「おかしなことをと思われるかもしれないけれど、以前に読んだことのある本の内容を思い出して、少し、怖くなっていたんです。このシェルターが」
「本?」
「はい。西暦人類が書いたもので、世界が宇宙人によって管理され、支配されているお話。人々はそれに気づかずに生活していて、ある日突然、人間は食料にするために管理されていたって知るんです。怖いでしょう?」
「え、うん…怖い」
シェルターが、そういうものだったら?
考えただけでもぞっとした。だけど、それはフィクションの世界だ。現実の私たちに降りかかるのは、宇宙人の魔の手ではなく、環境汚染である。
「それで、あんな真剣な顔してたの?」
「はい。お恥ずかしいですけれど、ほら、立ち入り禁止区域とかって、ああいうストーリーだとよく出てくるので」
「あ、へぇ…意外。ツヅリさんも、そういう影響受けるんだ」
「もちろんですよ。私もまだ、子どもなので」
ツヅリの浮かべた微笑みは、とても綺麗だった。
まるで、継ぎ目の隙間を見えなくして作られた、ハリボテの壁みたいに。
展望台からシェルターの内側に戻る扉を開けたとき、私とツヅリは目の前に立っていた人物に飛び上がって声を上げた。
「うわあぁっ!?」
ついびっくりして、ツヅリの体に抱き着いてしまう。ツヅリのほうは硬直して動けないようだった。
雪だるまみたいな姿を真っ白なドレスで覆い隠しているのはマザーである。
「ま、マザー?どうしたの、こんなところで」
私が驚きのあまり早口でそう尋ねると、マザーは少しだけバツが悪そうに声のトーンを落としてこう告げる。
「ごめんなさいね、アイの話が気になって…」
「私の話…」すぐにピンときて、破顔する。「あぁ!私とツヅリのこと、心配してくれてたんだね!」
「まぁ、そういうことよ。多少、老婆心が過ぎるとは思ったけれど…」
やはり、マザーは素敵だ。同じ人間ではないけれど、同じ人間の想いから生まれたモノだから、こうして私たち子どもの心に寄り添ってくれる。
「ありがとう、マザー。私たちは大丈夫だよ!――ね、ツヅリさん!」
嬉しくなっていた私は、ツヅリに抱き着いたままだということも忘れて彼女の顔を至近距離で見上げる。その整った面立ちに一瞬だけほうっとした気持ちになったのだが、数秒して、彼女の顔が酷く青ざめていることに気づく。
「ツヅリさん?」
まだ驚きの余波が残っているのだろうか。それとも、彼女の胸の中で渦を巻いている何か苦しいものがのしかかっている?
「ふふっ、私が急に現れたものだから、相当驚いてしまったのね。ごめんなさい、かわいそうに」
全く悪びれた様子のないマザーは、私たち二人にこれ以上の心配はいらないと判断したらしく、一言、二言付け足して立ち去った。
「マザーって、よく気が利くよね」
私は未だ青い顔をしたままのツヅリに向けて言ったつもりだったが、彼女は何度か軽く頷くだけで具体的な返事はしなかった。ツヅリは見た目通り繊細で、神経の細いタイプのようだった。
遠ざかったマザーが、私の声でも聞こえたみたいに振り向く。その際、ピカピカ、と赤い光が瞬いた。マザーなりのシグナルなのかもしれないが、義体ではない私にはどういう意図かは分からない。
せっかく落ち着いた様子だったのに、と残念に思う私だったが、ここで気分転換できるような話をしてこそ、良い格好ができるだろうと気を取り直した。
「ねぇ、ツヅリさん」
くっついていたままの姿勢で、上目遣いに続ける。
「さっき言ってた西暦人類の小説。今度図書館で借りてみたいな」
「え…あ、はい、はい…」
「また、付き合ってくれる?」
精一杯、可愛い声を出したつもりだったものの、ツヅリは上の空で返事をするだけだった。
クレジットを貯めて買った、フリルの付いた白のワンピース。
買ってはみたものの、こんなに可愛い服、私に似合うかなぁと不安になってほとんど着ていなかったが、今日は少し勇気を出すべく、まるで鎧の調整でもしているみたいに鏡の前の自分と睨めっこする。
若干、裾が短い。はしたない奴と思われないか不安だが、逆にツヅリが着てきたら、そんなことは思わないだろう。きっとドキドキするに決まっている。それぐらい、このフリルワンピースに抜け目はない。完璧だ。
「…あ、後は、素材の問題…」
私はごくりと喉を鳴らす。時刻は私の背中を追い立てていた。もうすぐにでも部屋を出なければ、ツヅリとの約束の時間に遅刻してしまう。
それが分かっていても、すぐには決めきれなかった。だからしょうがなく、部屋の中からマザーに呼びかける。
「マザー!ちょっといい?」
わずかな沈黙。一拍遅れてから、マザーの声が天井のスピーカーから聞こえてきた。
「アイ、どうしたの?デートの待ち合わせまで、もうすぐではなくて?」
「そうなんだけど…勇気、でなくて!大丈夫かな、こんな少女趣味で!」
「はぁ」とマザーが呟き、数秒後、声は明るくなって返ってきた。「大丈夫よ、アイ。ガーリーな貴方にぴったりだわ」
「ほんと!?ありがとう!」
マザーが言うなら間違いない、と最後の支度を雑に終えて寮の入口に走る。
ツヅリはすでに待ち合わせ場所に立っていた。彼女はデニムのジーパンにブラウスというシンプルな装いだったが、手足の長いツヅリにはとても似合っていて、素敵だった。どこかに出かけるらしいレイジがいたこと以外は完璧だったと言えるだろうが、レイジに対する――というか、私以外の誰かに対する態度と私への態度のコントラストは、なかなかどうして、特別感があってよいものだ。
早々にレイジを追い払い、図書館へ向かう。件の本を借りるためだ。
途中、私は並んで歩くツヅリとの距離を一歩縮めながら、彼女の服装を賞賛した。
「ツヅリさん、今日の服も似合ってるね。素敵」
「え?あ、ありがとう、ございます」
同い年なのに敬語が抜けきれないツヅリの話し方が、私は好きだった。彼女の誠実さが自然と表れているような気がして。
しばし、気恥ずかしい沈黙が流れていたが、ややあって、ツヅリのほうも私のことを誉めてくれた。
「アイさんの服装も、素敵です。フリルとか、ワンピースとか、アイさんの可愛らしい雰囲気と合っていて、いい、ですね」
そのときのツヅリといったら、本当に言葉に困るくらい可愛かった。
耳まで真っ赤で、最後まで目を合わせられないくらい恥ずかしがっていて、でも、確かにそのオニキスは私を数秒、貫いていて…。刹那的な話であったとしても、間違いなく私と彼女だけしかいない世界が、そこにはあった。
「えー、そんなふうに言ってもらえるなんて嬉しいなぁ」
「今のアイさんを見たら、誰でも言いますよ、絶対」
「ありがと。でもさ、好きな人に褒めてもらえるっていうのが、大事じゃない?こういうとき」
ストレートに自分の感情を伝え、いつもより深く踏み込んでみる。そうすれば、これ以上ないくらいにツヅリはまた顔を赤くして、黙り込んでしまったのだが、それが不快感によるものではないことぐらい、私にだって分かった。
「んー…ふふっ、ぐいぐい攻めすぎ?」
「うっ…え、っと…」
「困るなら、困るって言っていいよ、ツヅリさん」
「……別に、困るわけじゃない、です。恥ずかしくて…」
「じゃあ、もっと距離感縮めてもいいんだ?」
「えっ!?」
何を言われると思ったのか、ツヅリは大げさに目を見開いて私を見た。立ち止まり、目をぱちぱちさせる姿が可愛いから、ついつい困らせたくなるが、ぐっとこらえて私も足を止める。
「うぅん、ツヅリさんに決めてもらおうかなぁ」
「な、何をですか」
私は静かに指を一本立てた。髪を撫でる風が、高鳴る心臓を優しく落ち着かせる。
「一、手をつないで図書館まで行く。二…――ツヅリ、って呼ばせてもらう」
どっちがいい、と小首を傾げてツヅリに問う。そっと視線を逸らして考えるツヅリが、本当に可愛かった。
「……二、にして下さい」
「ふふ、嫌じゃない?ツヅリ」
無言でこくりとツヅリが頷く。
胸に幸せの火がともる。でも、それだけじゃ満足できなかった。
「ツヅリも、アイって呼んでね、私のこと」
「え、えぇ…」
「嫌?」
「…その聞き方はずるいです」
「じゃあ、決まり!」
一つ手に入れたのに、もっと、もっとと欲しくなる。
あぁ、私はなんて欲深い人間なのだろうか。
「改めて、今日は図書館デート、楽しもうね、ツヅリ」
「…うん…」
私がはにかめば、ツヅリも照れ臭そうに微笑む。
幸福なひとときだった。少しずつ近づいていくツヅリとの心の距離に、とてつもない充足を覚える。
ツヅリはもう、私にとって大事な人だった。恋人かどうかなんて関係なく。
だからきっと、彼女にかかる暗雲があれば、どんな手を使ってでも私は打ち払うだろう…なんてことまで、考えてしまうのである。




