機械仕掛けのエデン.2
マザーたちが、何を隠しているのか。そもそも、本当に隠しているのはマザーたちなのか、それとも、その後ろにいるはずの大人たちなのか。
ルイの投げかけた仮説のために、私は何をしていてもそれが頭の片隅にあった。
マザーや先生たちと話をしているときも、クラスメイトが恋人同士で仲睦まじくしているときも、恋の話をしているときも、ツヅリの横顔に見惚れてしまった後も…。
真実の輪郭が未だぼやけているから、こういうことが起きているのだということは自分でもよく分かっていた。だが、その輪郭を掴もうとするにしても、私はどうすればいいのだろう?
ルイの言葉を鵜呑みにする?無かったことにする?
分からなかった。だけど、どこかのタイミングで改めてルイと話すしかないということだけは分かった。
その日をいつにするかを悩んでいる頃だった。ルイ自ら、私の私室の部屋を叩いたのは。
夜更け時、気持ちの良いまどろみの中へ身を横たえようとしていた私の耳に、小さく、だが確かにハッキリとしたノック音を聞いて、身を起こした。
(…気のせい?)
重たい目をこすりながら、扉のほうを凝視する。
――コンコン。
聞こえた。確かに。誰かが私の部屋の前にいる。
眠気でぼんやりとしていた思考は、驚きと恐怖ですぐに切り替わる。私は近くにあった鉛筆を逆手に持ってベッドから降りた。
――コンコン。
また聞こえた。
私は意を決し口を開く。
「誰?」
沈黙が数秒、夜の部屋に落ちてから、誰かが扉の前で身じろぎする音が聞こえた。
「僕だ。アイさん」
「ルイ君?」
私は急いで扉の鍵を開けた。その先に立っていたルイのいつも以上に深刻な表情に不安が強まる。
「どうしたの、こんな時間に」
「すまない、アイさん。大事な話がある。中に入れてくれないか」
「もちろん」と中へ彼を入れる。ルイは足早に部屋の奥へ行くと、大きな吐息と共に肩を落とし、窓から垂れる月光を頭に浴びた。
「どうしたの、ルイ君。何があったの」
「…」
ルイは何も答えなかった。代わりに、くるりと私を振り返った後、くしゃくしゃになった封筒を私に押しつけるように渡した。
「えっと、これは?」
「…君に貰ったレポートを添削したものだ」
トントン、と封筒をルイの指先が叩く。いつかみたいに、筆談したいのかもしれない。そう思った私は慌てて封筒の中身を取り出した。
そこにあったのは、また別の封筒が2つ。それから、束ねられた紙。
私はまず紙を手に取って、明かりをつけようとした。だが、それをルイがやんわり制したので、仕方がなく月光を頼りに文字を確認する。
『アイさん、急にすまない。少し預かってほしいものができた。封筒は明日、僕に会えなかったら開けてくれ』
文字は一枚目にしか書かれていなかった。他は白紙だ。筆談用だと、私はすぐに気がつき、机の上にそれを置いて鉛筆で文字を書き込む。
『どういうこと?何があったの』
『詳しくは言えない。僕は、やっぱり君に話すべきではなかったからだ』
「え?」思わず声が出る。意味が分からなかった。
ルイは私の顔を見た。彼もまた私を見ていたが、その顔は青白い月の光のためか…酷く血の気が失せている感じがした。
『きっと、こうして会いに来ることも本当はするべきじゃなかった。でも、すでに君を巻き込んでしまった僕の責任として、どうしてもと思った』
『ちょっと待ってって、ルイ君。もっと説明を――』
不意に、扉がノックされた。
――コンコン。
規則正しいノック音。何となく、誰だが分かった。
「アイ、起きているかしら」
マザーの声だ。
私はとっさに寝たふりをしようかと思ったが、続く言葉に心臓が縮み上がって、それもできなくなる。
「そこにルイがいるはずよ。開けてちょうだい。消灯時間を過ぎてから他の生徒の部屋を訪問するのは規則違反よ」
どうして。どうしてだろう、なぜ、ルイが私の部屋を訪れていることを知っているのだ。私が起きていることだって、確信している感じだ。
目の前のルイが、小さくため息を漏らした。そして続けて小さな声で、「早いな」と言った。
直後、私は彼が取った思わぬ行動に絶句する。
ついさっき筆談のために使った紙を細かく千切ると、ルイはそれをあろうことか飲み込んだのだ。
(嘘…)
異物を吐き出そうとする体の反応を無理やり抑え込み、えづき、涙を浮かべながらも、それを飲み込んだ。
「アイ。扉を開けなさい。開けないのであれば、勝手にそうさせてもらうわよ」
マザーの声は、いつものように怒っているという感じが分からない声だった。
ただ無機質で、機械的。マザーの手のひらと同じで、冷たい…。
私はそれで臆した。臆して、本当にどうしたらいいか分からず、その場で足を震わせて立ち尽くしていた。
そのうち、私の代わりにルイが返事をした。
「その必要はない、マザー。僕が自分から出て行く」
「え…」と自分の口から小さな声が漏れる。
ルイは一度しっかり私のほうを見やると、「巻き込んで、本当にすまなかった」とほんの少し、苦笑いみたいな表情をして、玄関ドアのほうへと歩き出した。
苦笑?違う、私を安心させようと笑ったのだ。下手くそだったが、胸が震えた。それなのに口も体も動かない。
私は怖かったのだ。目に見えない何かに怯え、我が身可愛さに縮こまることを心と体が選んでいたのである。
ルイはもっと怖かったはずだ。暗闇の中に見えた震える彼の足は決して幻などではなかった。
ガチャリ、とルイが扉を開ける。その向こうに、純白のドレスを身にまとうマザーの姿が現れる。
「良い子ね、ルイ。もう逃げたりしないことよ」
「…分かっている」
ルイは振り返らずに私の部屋を後にしたが、マザーはルイの後ろをついていく寸前に一度だけ私を横目にして、美しいアクセントでこう告げた。
「怖がることはないわ。アイ。ルールを守っていれば、叱ったりしないのだから」
ぎぃ、と玄関の扉がひとりでに閉まるまでの時間。それは永劫にも思えるほどだったが、確かにその後、私は眠れぬ夜を過ごしたし、朝日が照りつける白い壁もこの目で見た。
ぼんやりとする頭が白い壁をじっと見つめ続けていた、およそ3時間後。私は学校の教室で、マザーに咎められないよう逃亡を図ったルイが立ち入り禁止区画のプレス機に潰されて亡くなったことを聞かされた。
まるで、天に昇らんと手を伸ばしているような花だった。ルイがいつも使っていた教室の机の上に飾られていた真っ白い彼岸花は。
一本、一本の花びらが細く、美しかったのを覚えている。それがどうにも私の心を捉えて離さなかったから、先生に言って早退した。早退を申し出たのは私以外に何人もいたから特に目立つことはなかっただろう。
クラスメイトがミンチになったという話を聞かされるのは、まともな神経であればこたえるものがあった。
特にレイジの様子は見ていて痛々しかった。いつもお喋りで声の大きいレイジが、呆然と飾られていた花に手を伸ばす様は…彼らと仲の良いものでなくとも目に涙を浮かべるほど狂おしい喪失がそこにあった。
だが、私はそうではなかった。涙など浮かべなかった。いや、浮かべられなかったと言うべきだ。
ルイが死んだ。
燃える氷のような矛盾した探究心でシェルターの秘密を探っていたルイが死んだ。
それはもう、たった一つのことを意味するとしか私には思えなかった。
(殺されたんだ、きっと…)
事故死なんかじゃない。ルイはそんなに間抜けじゃない。
でも、だとしたら誰に?
そんなの、決まってる…。
脳裏に蘇る、白い彼岸花と、それに酷似したドレスをまとうマザーの姿。
今までみたいにルールを破っただけで、殺したとは思えない。それならとっくの昔にそうしている。
じゃあ、なぜ?
その答えを求めるために私ができることは限られていた。
自室に戻った私は、すぐにコーヒーを淹れた。インスタントだ。ルイにオススメされたから、なんとなく頭が良くなる気がして飲んでいたが、今はそれ以上の意味を持った液体だった。
彼を弔うためにも、私は知る必要がある。
カップにコーヒーを注ぎ、机の前に座る。
手にはルイに託された封筒。
彼は、自分が今日か、昨日のうちに殺されることを悟っていたのだろう。だから、これを私に託した。
ふと、私は封筒に文字が刻まれていることに気がついた。
――『深淵を覗くとき、君もまた深淵に覗かれていることを忘れるな』。
西暦人類の哲学者が遺した有名な言葉だ。誰だったかまでは知らないが…。
(これ、警告だよね…ルイ君の)
彼はよくリスクの話をしていた。最期の会話だって、私を巻き込んだことへの懺悔のようだった。
ミンチになった友人のことを思い出すと、手が震えた。見るべきではないと私の中の冷静な部分が言っていた。
何も見なかったことにしろ。
そうすれば、私はただ愛しいツヅリと沈む美しい夕陽を見ていられる。
何も聞かなかったことにしろ。
そうすれば、私は大事なツヅリの赤い唇からこぼれる美しい旋律だけを聞いていられる。
何も知らなかったことにしろ。
そうすれば、私は純朴な世界を信じ、ツヅリと共に学生生活を送っていられる。
ぎゅっ、と目を閉じる。
気がつけば、拳には震えるほどの力が込められていた。
怖い。怪物が私を飲み込む妄想が、妄想ではなくなってしまう確信があったから。
ツヅリの顔を思い浮かべ、自分がどうするべきか問いかけようとしたが、彼女の残像は未だ虚しそうに沈む世界を見つめているばかりだった。
そのときだ。扉がノックされる音が聞こえた。
心臓がドキリ、と跳ねる。昨夜木霊したこの音こそ、きっとルイにとって死の宣告だったはずだから。
「アイ。私よ」
予想通り、マザーの声がした。
「な、なに?マザー」
「大事な話があるから、開けて頂戴」
ドクン、とまた心臓が強く拍動する。
大事な話?
何の話?
私も危険な目に遭う?
死ぬ…?
自分が生きたままミンチにされるところを想像してしまい、思わず腰が抜けそうになるが、こんなとき、ルイなら…と考え直し、冷静でいられるよう必死に努めた。
結果、私はこの封筒こそ今の自分を追い詰めかねないと理解することができたのだが、これをどうこうする前に、勝手に扉が開いた。
(ど、どうして…!?)
私の返事を待たずにマザーが入ってくることなんて、今まで一度もなかった。それだけ大事な話…というと、もう恐ろしくてしょうがなかった。
それでも私は、一生懸命普段どおりでいられるよう声を発する。
「も、もう!勝手に入って来ないでよ、マザー」
だが、マザーは完全に私の言葉を無視したまま、ぴたりと視線を封筒に当てた。
「アイ。それは何?」
「あ、えっと」
「ルイが持ってきたものね。見せなさい」
直後、信じられない強さで封筒を奪われる。
「ま、マザー、返して」
マザーは完全に私をいないもののように扱った。
するり、と封筒の中から何枚かの紙が抜き出される。
きっと、何かの秘密だと思った。ルイが私に教えたかった秘密だと。
だがだとすれば、今の状況は非常に危険なものに違いなかった。それをマザーに読まれているのだから。
プールの底で感じるような水圧より、ずっと重い沈黙が天井から降りてくる。本当に地獄のような時間だった。
やがて、ぱさり、とマザーが紙を机の上に置き、私を横目にした。そのときの彼女の表情は、何の感情もない、鉄仮面そのものに感じられた。
「アイ、大事なものを託されたのね」
喉が鳴るのを抑えて、私はマザーを見つめ返す。まだ何が書かれていたか分からない以上、迂闊なことは言えなかった。
「しっかり見ておやりなさい。レイジの心もそれで救われるはずよ」
そう告げると、マザーは勝手に部屋へと入ったことを詫びながら、廊下へと出て行った。
「ふぅ…」
なんとかなった、ということだろうか?それにしても、どうして今、レイジの名前が…。
私は机の上の紙を拾い上げて目を通したのだが、驚くべきことに、そこには、『秘密』なんて書き込まれていなかったのである。
そこにあったのは…。
「――レイジ宛の……小説…?」




