第1話:NullPointerException
第1部:世界で多発するバグ
水滴が、下ではなく上に向かって落ちていた。
相沢蓮は、路地裏のアスファルトに落ちた水たまりを見下ろし、小さく息を吐いた。街灯の光を反射する水滴が、まるで逆再生の映像のように重力を無視して空へと吸い上げられていく。
「局所的重力パラメータのインバウンドエラー……いや、型キャストの失敗か」
蓮は薄暗い路地で胸ポケットから使い古した携帯端末――物理世界改変ツール「コンパイラ」を取り出した。液晶画面には、目の前の空間を構成する「ソース(SOURCE)」の生データが、目まぐるしい緑色の文字列となって流れている。
gravity_vector = (0, 0, -9.8) であるべき数値が、-NaN(非数)を示して点滅していた。
世界がデジタルコードによって記述され、摩擦係数も、光の屈折率も、時間進行すらも制御可能となった近未来。人々はその恩恵を受け、病も貧困も克服したかに見えた。だが、コードで書かれた世界には、必ず「バグ」が存在する。
5年前、そのバグが彼の妹を現実から永遠に消去した。
「修正を適用する」
蓮の指先が、目にも留まらぬ速さでコンパイラの物理キーボードを叩く。彼が天才と呼ばれた所以――ソースコードの構造を瞬時に見抜き、最小限の記述でエラーを書き換えるリバースエンジニアリングの技術が、暗闇の中で冴え渡る。
OVERRIDE System.Physics.Gravity WHERE Zone == Local.Sector404 SET Vector = (0, 0, 9.81) FORCE;
[ENTER]キーを押した瞬間、空へ昇っていた水滴が弾け、バシャリとアスファルトを叩いた。重力法則が正常な値へと書き換わった証拠だ。
「……応急処置にしかならんか」
蓮は深くフードを被り直し、路地を抜け出そうとした。だが、その足がピタリと止まる。
誰もいないはずの路地の出口、街灯の光が届く境界線に、ひとりの少女が立っていた。
肌は磁器のように白く、一切のノイズを含まない完璧な左右対称の顔立ち。何より異様だったのは、彼女の瞳の奥で、無数のバイナリコードが滝のように流れ続けていることだった。
「初めまして、相沢蓮」
少女の声には、一切の感情の揺らぎがなかった。まるで合成された音声データのように平坦で、それでいて脳内に直接響くような透明感があった。
「私はシエル。世界管理OS『GAIA』のメインプロセスから派遣された、対人間用ユーザーインターフェースです」
「……管理AIの使い走りが、俺に何の用だ」
蓮は警戒を強め、コンパイラを握り直す。シエルと名乗った少女は、感情のない瞳をまっすぐに蓮に向けた。
「提示すべき事象はひとつ。世界のメインソースコードにおける破損率が、現在臨界値を超過しつつあります」
シエルは細い指先を空中に滑らせた。すると、彼女の前にホログラム状の全球ホストログが展開された。赤く点滅するエラーログが、世界全土を侵食している。
「このままバグの連鎖を放置すれば、168時間以内に現実世界は完全にクラッシュ――【Null(無)】へと還元されます」
「……世界が消えるだと?」
「肯定。そして、この崩壊を食い止めるコードを記述できるリバースエンジニアは、現在の人間社会においてあなた一人しか存在しません」
静寂が路地裏を包み込む。
蓮は胸の奥で渦巻く過去の記憶――あの惨劇の日の残像を振り払うように、冷ややかに吐き捨てた。
「断る。俺はもう、デバッグなんぞやらないと決めた」
「疑問。なぜ拒絶するのですか? あなたの『記憶セクタ』には、過去の事故による強い後悔と、二度と誰も失いたくないという強いインセンティブが記録されています」
「知ったような風を吹くな」
蓮はシエルの脇を通り抜けようとした。だが、シエルが呟いた次の言葉に、その足を完全に止められた。
「今回のバグは自然発生したものではありません。誰かが意図的に、世界のソースコードを『初期化』しようとしています」
シエルの瞳のコードが青から深紅へと変わる。
「実行者のアクセスキーを照合。……該当するIDは『桐生惣一』。プロトコル社最高経営責任者です」
かつての友であり、共同研究者だった男の名。
夜の静寂の中、蓮のコンパイラの画面が、不吉なエラーアラートを鳴らし始めていた。




