EP 9
「包丁を握る」
「いやー、噂は、ほんまやったなぁ」
朝の事務所に、その来客は、算盤を、鳴らしながら、現れた。
猫の耳。ふさふさの尻尾。小柄な体に、上等な、けれど着崩した、商人風の装い。目つきは、抜け目なく、どこか、商売の匂いがした。
「あんさんが、噂の用心棒さんかいな。ニャングル言いますねん。この村の、財務を、預かっとる者で」
ニャングルは、龍魔呂を、上から下まで、舐めるように、見た。値踏みする、商人の目で。
「収穫祭の夜の、アレ。見とった者が、ぎょうさんおってなぁ。村は、上を下への大騒ぎや。"とんでもない化け物が、村におる"てな」
龍魔呂の、表情が、強張った。
やはり——あの夜のことは、村中に、知れ渡っている。村人たちは、自分を、恐れているだろう。当然だ。
「……すまない」龍魔呂は、低く、言った。「俺は、この村を、出た方が——」
「いやいやいや、待ちぃな」ニャングルが、ぴっ、と、尻尾を立てた。「誰も、出てけ、とは言うとらんがな。むしろ——逆や」
「逆?」
「リベラはんが、村長と、村のもんに、説明したんや」ニャングルは、にやり、と笑った。「"あの人は、もう、掟を持った。二度と、暴れん。村を、守る側の人間や"てな。……で、リベラはんの言うことなら、村のもんも、聞く。あの人は、この村の、良心やからな」
龍魔呂は、リベラの方を、見た。
リベラは、素知らぬ顔で、紅茶を、淹れていた。
(……あいつ、俺の知らんところで)
胸の奥が、また、温かく、なった。
「で、や」ニャングルが、算盤を、ぱちん、と鳴らした。「リベラはんから、聞いたんやけどな。あんさん——飯に、えらい、こだわりがあるそうやないか。黒胡椒やら、醤油やら、見たこともない調味料を、どっからか、仕入れてくる、てな」
「……それが、どうした」
「商売の、匂いがするんや」
ニャングルの目が、きらり、と光った。
「この村はな、観光地や。三国の緩衝地帯で、いろんな種族が、行き交う。美味い飯を出す店があれば——絶対に、当たる。あんさん、その腕、遊ばせとくのは、もったいないでぇ?」
龍魔呂は、答えなかった。
店。料理。そんなもの、考えたことも、なかった。
自分は、人を、沈めることしか、できない男だ。
だが——その時、龍魔呂の脳裏に、よぎったものが、あった。
黒胡椒のシチューを頬張る、憂の、笑顔。「おいしい!」と、目を輝かせる、あの顔。
そして、ずっと昔。貧しい家で、母の作った、味のない握り飯を、それでも「美味しいね」と笑って食べた、ユウの、顔。
その日の、夕方。
龍魔呂は、台所に、立つ、リベラの、隣に、いた。
「……リベラ」
「ん?」
「料理を……教えて、くれ」
リベラの、手が、止まった。
振り返った彼女は、龍魔呂の顔を、まじまじと、見た。それから——ふっ、と、笑った。
「ええよ。じゃが、なんで、急に?」
「……俺は」龍魔呂は、ぽつりと、言った。「人を、沈めることしか、できねえ。この手は、ずっと、誰かを、傷つけるための、手だった」
龍魔呂は、自分の、ごつごつとした、傷だらけの手を、見た。
「だが……黒胡椒を、渡した時。憂が、笑った。お前も、笑った。依頼人も、温かいスープを飲んで、ほっとした顔を、した。……あの時、初めて」
龍魔呂の声が、わずかに、震えた。
「この手で、人を、喜ばせることが、できるのかも、しれねえ、と。そう、思った」
リベラは、しばらく、龍魔呂を、見つめていた。
そして、エプロンを、もう一枚、取り出して、龍魔呂に、放った。
「ほな、つけんさい。まずは、包丁の、握り方からじゃ」
包丁を、握る。
龍魔呂の、節くれだった指が、不器用に、柄を、包んだ。
その手は、無数の、刃を、握ってきた手だった。剣を。槍を。人を、屠るための、あらゆる、凶器を。
だが——野菜を、切るための包丁は。
その、どれとも、違った。
「あ……」
最初の、一太刀。
人参を、切ろうとして、龍魔呂の手が、止まった。
身体が、覚えている。刃を、振るう、動き。それは、相手を、両断する、殺しの太刀筋だった。だが——今、龍魔呂が、しようとしているのは。
(……斬る、んじゃ、ない)
(……切る、んだ)
(人を、殺すためじゃ、ない。人に、食わせるために)
龍魔呂は、ゆっくりと、息を、吐いた。
そして、これまで、人を斬ってきた、その同じ手で。
——とん、と。
人参を、切った。
不格好な、ぶつ切りだった。リベラの、薄く均一な、それとは、比べ物にならない。
だが。
龍魔呂の中で、何かが——音を立てて、反転した。
人を、斬る刃が。
人を、活かす刃に。
「……はは」
龍魔呂の口から、思わず、声が、漏れた。
「切れた……野菜が、切れた、ぞ、リベラ」
「ぷっ……何を、子供みたいに」リベラが、噴き出した。「ええよ。上手じゃ。最初にしちゃ、上等じゃ」
その時、龍魔呂の懐で。
ピコン、と。
エンジェル・スマートフォンが、鳴った。
『初めて、人を活かすために、刃を握りました』
『+50 P』
龍魔呂は、その画面を、見て——静かに、笑った。
人を、沈めて、十。
野菜を、切って——五十。
この世界の、神具は。やはり、正しい。
その夜の、食卓。
龍魔呂の、初めて作った料理が、並んだ。
リベラに、手伝ってもらった、不格好な、野菜の、炒め物。形は、バラバラ。火の通りも、ムラがある。お世辞にも、上手とは、言えない。
だが、憂は。
一口、食べて——目を、輝かせた。
「……おいしい!」
「ほ、本当か」龍魔呂が、身を、乗り出した。
「うん! おにいちゃんが、つくったの!? すごい! おいしいよ! ユウ、これ、すき!」
憂は、夢中で、不格好な炒め物を、頬張った。
龍魔呂は——その、小さな口が、自分の作ったものを、美味しそうに、食べる様を。
ただ、じっと、見つめていた。
胸が、いっぱいに、なった。
(……ユウ)
(俺は、お前にも)
(こんな風に、作って、やりたかった)
(美味い飯を。腹いっぱい、食わせて、やりたかった)
別の世界では、できなかった。守れず、食わせてやれず、ただ、失った。
だが——この世界で。同じ名前の、この子に。
今、龍魔呂は、温かい飯を、食わせている。
それは、贖罪なのか。救いなのか。龍魔呂には、わからなかった。
ただ——温かかった。
「龍魔呂さん」
リベラが、その様子を見て、優しく、言った。
「あんた……ええ、料理人に、なるかも、しれんね」
それから、数日後。
ニャングルが、龍魔呂を、ある場所へ、連れていった。
村外れの、ドワーフの、鍛冶屋。
「おう、ニャングルか。そいつが、例の客人か」
炉の前に、立っていたのは、髭面の、頑固そうな、老ドワーフだった。ダイヤ・カギタ。村で、最高の腕を持つ、鍛冶師。
「あんたが、料理を、始めるって? ……ふん」
ダイヤは、龍魔呂の、手を、じろりと、見た。
「いい手だ。だが——殺しの手だな。剣ダコ、槍ダコ……こりゃあ、相当な、修羅場をくぐった手だ」
龍魔呂は、何も、言わなかった。
「だがな」ダイヤは、にやり、と笑った。「料理ってのは、面白えもんだ。同じ、刃物を、使う。同じ、手を、使う。だが——斬る相手が、違う。人じゃなく、食材だ。殺すためじゃなく、活かすためだ」
ダイヤは、奥から、一本の、包丁を、持ってきた。
まだ、銘の入っていない、白木の柄の、本焼きの包丁。
「これは、おれが、特別に、打ったもんだ。鋼を、何度も、何度も、鍛えてな。……あんたの、その手に、合うように。人を斬ってきた、その手が——今度は、人を、活かせるように」
ダイヤは、その包丁を、龍魔呂に、差し出した。
「持ってけ。あんたに、やる」
「……いいのか」龍魔呂は、戸惑った。「俺は、金も——」
「金なんざ、要らねえ」ダイヤは、ふん、と鼻を鳴らした。「リベラの嬢ちゃんから、聞いたよ。あんたが、どんな地獄を、くぐってきたか。……鍛冶師ってのはな、鋼の声が、聞こえるんだ。あんたの、その手の、傷だらけの鋼が——ようやく、人を活かす道具を、握りたがってる。そう、聞こえた。だから、打ったのよ」
龍魔呂は、その包丁を、両手で、受け取った。
ずしり、と。重かった。
その重みは——人を、斬る、刃の重みとは、まったく、違う、重みだった。
人を、活かすための、重み。誰かを、笑顔にするための、重み。
「……ありがとう」
龍魔呂は、深々と、頭を、下げた。
その時、懐で、ピコン、と、音が、した。
『職人の、魂のこもった一品を、受け取りました』
『刃の反転——あなたの物語が、動き出します』
龍魔呂は、その、いつもと違う、システムメッセージを、見た。
ポイントの、表示は、なかった。
ただ、その一文だけが——彼の、これからを、静かに、祝福していた。
【幕間】
その、夜更け。
村の、外れ。
闇に、紛れて。
一つの、影が、ポポロ村を、じっと、見下ろして、いた。
黒い、外套。冷たい、目。手には、村の、見取り図のようなものを、握っている。
「……希少種族が、複数。月兎族の村長に、人魚、天使、エルフ……。ふん、いい品揃えだ」
影は、舌なめずりを、するように、呟いた。
「"商品"の、宝庫だな。この村は」
影は、見取り図に、何かを、書き込むと——音もなく、闇に、消えた。
平和な、ポポロ村に。
静かに——魔の手が、伸び始めていた。
龍魔呂が、ようやく、人を活かす刃を、手にした、その夜に。
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