EP 5
「黒胡椒と、はじめての贈り物」
龍魔呂が、事務所に住み込んで、数日が過ぎた。
用心棒の仕事は、退屈なほど、平和だった。リベラの事務所には、訳ありの依頼人が、ひっきりなしに訪れる。冤罪を着せられた者。借金の形に身を売られかけた者。元犯罪者で、やり直そうとして、後ろ指を指される者。
リベラは、その一人ひとりに、丁寧に、向き合っていた。
「どんな人にも、最初から悪人なんていなかった」——看板のその言葉を、彼女は、本気で、生きていた。
龍魔呂は、その様子を、部屋の隅から、ただ、見ていた。
(……不思議な、女だ)
斬る——いや、沈めることでしか、悪に対処できなかった龍魔呂とは、まるで、逆の生き方。言葉と、知恵と、法で、人を、救う。時に、依頼人より大きな悪と、たった一人で、渡り合う。
そして、夕方になると。
リベラは、必ず、台所に、立った。
憂のために。
「ママのごはん、せかいで、いちばん、おいしい!」
蜜を頬につけて笑う憂を見て、リベラが、目を細める。その光景を、龍魔呂は、毎日、見ていた。
——羨ましい、とは、思わなかった。
ただ。
(……俺にも)
(あんな風に、誰かのために、できることが)
(何か、あるのだろうか)
その夜。
龍魔呂は、懐の、エンジェル・スマートフォンを、取り出した。
『所持ポイント:95 P』
この数日で、コツコツと、溜まっていた。依頼人を護衛し、危険な取り立て屋を当て身で沈め、迷子の子供を親元へ送り——その、ひとつひとつに、点が、入った。
斬る、ではなく。沈める、護る、助ける。そのたびに、ポイントは、確実に、増えていく。
奪うより、救う方が、重い。
この世界の理が、龍魔呂の身体に、少しずつ、馴染んできていた。
(……これで、何が、買えるんだ)
念じると、板に、地球の物品が、ずらりと、並んだ。武器。防具。食料。日用品。だが、龍魔呂の目に、留まったのは——そのどれでも、なかった。
「調味料」
ふと、そんな項目が、目に入った。
塩。砂糖。そして——黒胡椒。
リベラの台所には、塩はあった。だが、それ以外の、気の利いた調味料は、なかった。この世界では、香辛料は、高価なのだ。とりわけ、黒胡椒は。
龍魔呂は、五年間の闘技場の前——まだ、母が生きていた、貧しい家での暮らしを、思い出していた。
ろくな調味料も、なかった。それでも、母は、限られたもので、工夫して、龍魔呂とユウに、温かい飯を、食わせてくれた。塩を、ほんの少し、効かせるだけで。「美味しいね、にいちゃん」と、ユウは、笑った。
(……あいつは)
(美味い飯を、食う時、いつも、笑ってた)
龍魔呂の指が、画面の上で、止まった。
そして——迷った末に、押した。
『黒胡椒を購入しました』
『砂糖(上白糖)を購入しました』
『-30 P』
ことり、と。
龍魔呂の手のひらに、二つの小瓶が、現れた。
翌日の、夕方。
「……リベラ」
台所に立つリベラに、龍魔呂は、ぎこちなく、声をかけた。
「これを、使え」
差し出したのは、二つの、小瓶。
リベラが、怪訝な顔で、それを、受け取る。蓋を開け、匂いを、嗅いだ。
「……これ、黒胡椒、かね? それも、こんな、上等な……。あんた、どこで、こんなもんを」
「いいから、使え」
龍魔呂は、ぶっきらぼうに、言った。照れているのを、隠すように。
リベラは、しばらく、龍魔呂の顔と、小瓶を、見比べていた。それから——ふっと、笑った。
「……ふぅん。あんた、案外、優しいとこ、あるんじゃね」
その夜の、食卓。
リベラは、いつものシチューに、龍魔呂のくれた黒胡椒を、挽いて、振った。仕上げに、ほんの少し。
湯気とともに、ぴりりと、香ばしい、刺激的な匂いが、立ち上った。
「わぁ! いいにおい!」
憂が、目を、輝かせた。
スプーンで、一口。
その瞬間。
憂の、動きが——止まった。
「…………」
「憂? どうしたん?」
「……ママ」
憂が、ゆっくりと、顔を上げた。その目は、まんまるに、見開かれていた。
「ママ……これ……これ、なに……? いつものシチューと、ぜんぜん、ちがう……! なんか、ぴりってして、でも、あまくて、ふかくて……おくちのなかが、すごいことに、なってる……!」
「ちょ、憂、落ち着き——」
「おいしい! おいしいよママ! いっぱい、おいしい! ことばが、たりない! おいしいが、いっぱいすぎて、ことばが、おいついてこないのぉ!」
憂は、夢中で、スプーンを、口に運んだ。
リベラも、一口、食べて——その動きが、止まった。
「……っ、嘘じゃろ」
彼女は、目を、見開いた。
「いつもの、シチューが……黒胡椒、ひとつまみで……こんなに……。深みが、まるで、違う……。ぴりっとした後に、肉の旨味が、ぐっと、引き立って……」
リベラは、龍魔呂を、見た。
「あんた……これ……」
龍魔呂は、その様子を、少し、離れて、見ていた。
憂が、夢中で、シチューを、頬張っている。リベラが、感嘆の溜息を、ついている。
たった、ひとつまみの、黒胡椒で。
二人が、こんなにも、幸せそうに、笑っている。
その光景を見て、龍魔呂の胸に——温かい、何かが、込み上げてきた。
ピコン。
懐で、板が、鳴った。
『誰かを、料理で笑顔にしました』
『+40 P』
龍魔呂は、その数字を、見た。
四十。
人攫いを、沈めて、十。
たった、ひとつまみの、調味料を、贈っただけで——四十。
(……そうか)
龍魔呂の中で、何かが、静かに、動いた。
(人を、喜ばせるってのは)
(人を、沈めるより……ずっと、重いのか)
それから、龍魔呂は。
時々、エンジェル・スマートフォンで、調味料を、買うように、なった。
醤油。味噌。香辛料。砂糖。リベラの台所に、少しずつ、地球の味が、増えていく。そして、リベラの作る料理が、日に日に、豊かになっていく。
事務所の依頼人にも、龍魔呂は、リベラの作った、黒胡椒の効いた、温かいスープを、振る舞うように、なった。最初は、龍魔呂を恐れていた依頼人たちも——その一杯の、温かさに、ほっと、表情を、緩めた。
「……あんた、見た目は怖いけど、いい人なんだな」
ある日、元犯罪者の依頼人が、スープを啜りながら、ぽつりと、言った。
龍魔呂は、答えなかった。
ただ、その言葉が——胸の、奥に、じんわりと、染みた。
村の様子も、少しずつ、変わってきた。
最初は、龍魔呂を、遠巻きに、恐れていた村人たち。だが、彼が依頼人に温かい飯を振る舞い、迷子を送り、村の厄介事を黙々と片付けるうちに——その視線から、少しずつ、棘が、抜けていった。
「リベラさんとこの、用心棒さん」
「怖い顔だけど、悪い人じゃないみたいだよ」
「この前、うちの子が転んだ時、助けてくれたんだ」
完全な、信頼ではない。だが、確かに——警戒は、和らぎ始めていた。
(……変わって、いくのか)
龍魔呂は、自分の手を、見た。
人を、沈めるしか、能のなかった、この手で。今は、誰かに、温かいものを、渡している。
——刃が。
少しずつ、向きを、変え始めていた。
そんな、ある日のこと。
龍魔呂は、リベラに頼まれて、村の市場へ、買い出しに、来ていた。
そこで、彼は——ある、食材を、見つけた。
「人参マンドラ……?」
それは、人の背丈ほどもある、巨大な人参だった。手足が生え、葉っぱの髪を、ふさふさと、生やしている。地面に植わったそれは、すやすやと、昼寝を、していた。
「お、兄ちゃん、それ気になるかい?」八百屋の店主が、笑った。「滋養強壮に、抜群でね。けど、引っこ抜くのが、大変なんだ。なにせ——」
龍魔呂は、その人参マンドラに、手を、伸ばした。
リベラと、憂に。
精のつくものを、食わせてやろう、と思ったのだ。
そして、引っこ抜いた、瞬間。
「——ンギャアアアアアアアッ!!!!」
人参マンドラが、絶叫した。
凄まじい、断末魔。村中に、響き渡る、悲鳴。
そして、引き抜かれた人参マンドラは——龍魔呂の手を、するりと、すり抜け、手足を、ばたつかせて、猛烈な勢いで、走って、逃げ出した。
「ンギャー! ンギャー!」
「あっ、逃げた! 兄ちゃん、抜いたら、すぐ押さえなきゃ! あーあ、今日のは、逃げ足が速いねぇ」
土煙を上げて、地平線の彼方へ、消えていく、人参。
龍魔呂は——その場に、立ち尽くした。
(……この世界は)
(やはり、わからん)
遠くで、ネギオが「だから言ったろう、農作物にも人権を——」と、誰かに、演説を、ぶっていた。
その夜。
逃げた人参の代わりに、市場で買った野菜で、龍魔呂は、初めて、自分で、簡単な料理を——いや、まだ、できなかった。包丁の握り方すら、わからない。だから、リベラに、頼んだ。
リベラの作った、温かい夕食を、囲む。
リベラ。憂。そして、龍魔呂。
奇妙な、三人の食卓。
「……龍魔呂さん」
ふと、リベラが、言った。
「明後日、村の収穫祭が、あるんよ。屋台が出て、賑やかでね。憂が、楽しみにしとるんじゃ」
「おにいちゃんも、いっしょに、いこ!」憂が、龍魔呂の袖を、引いた。「ピラダイ突き、やろう! ぜったい、たのしいよ!」
龍魔呂は、その小さな手を、見た。
祭り。
人が、笑い、歌い、踊る、場所。血の匂いの、しない、場所。
そんな場所に、自分が、いていいのか。わからなかった。
だが。
「……ああ」
龍魔呂は、頷いていた。
「行く」
憂が、ぱっと、顔を、輝かせた。
その笑顔を見て、龍魔呂は——ほんの少しだけ、自分も、この温かい輪の中に、いていいのかもしれない、と。
そう、思い始めていた。
——その、収穫祭の夜が。
すべてを、変えてしまうことを。
まだ、龍魔呂は、知らない。
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