EP 4
「ユウという名前」
朝の事務所は、紅茶の香りで、満ちていた。
「龍魔呂さん、おはようさん。朝餉、食べんさい」
リベラが、湯気の立つカップを、差し出した。手際よく、トーストと、卵と、野菜が、並べられていく。昨日の険しさが嘘のように、今朝のリベラは、ただの面倒見のいい女に、見えた。
龍魔呂は、出されたものを、黙って、食べた。
うまかった。ルナキンの飯とも違う、手作りの、家庭の味。何年も忘れていた種類の、温かさだった。
足元では、アモンが、香ばしいパンの耳をもらって、三つの頭で、仲良く——いや。
「左ぃ! それオレの耳! さっきお前食っただろ!」
「右だ。証拠を出せ。匂いで判定してやる」
「まんなか〜……二人とも、僕の分も残してねぇ……」
——仲良く、揉めていた。
奇妙な、穏やかな朝だった。
龍魔呂は、この穏やかさに、どう振る舞えばいいのか、わからなかった。五年間、朝とは、次に殺し合う相手を待つ時間だった。流浪の日々、朝とは、次の悪を断ちに向かう時間だった。ただ、誰かと向き合って、温かい飯を食うだけの朝など——遠い昔に、置いてきた。
「今日はね」リベラが、カップに口をつけながら、言った。「うちの子が、帰ってくるんよ」
龍魔呂は、トーストを口に運ぶ手を、止めた。
「……子供が、いるのか」
「おるよ。可愛い盛りでね。何日か、じいさんばあさんの所に、預けとったんじゃ。今日、迎えに行くんよ」リベラの表情が、ふっと、母親のものに、変わった。「ちょっと、わんぱくでね。あんた、驚かさんように、しちゃってね」
龍魔呂は、頷いた。
子供。この、血の匂いの染みついた自分が、子供と、同じ屋根の下で。落ち着かなかった。だが、世話になる以上、断る理由も、ない。
——その時、龍魔呂は、まだ、何も、知らなかった。
その子の名前が、何で、あるかを。
昼下がり。
「ただいまー!!」
玄関が、勢いよく、開いた。
小さな足音が、ぱたぱたと、駆け込んでくる。
「ママ! ただいま! あのね、おじいちゃんがね、シープピッグの赤ちゃん、見せてくれたの! ちっちゃくてね、もこもこでね!」
五歳ほどの、男の子だった。
リベラによく似た、利発そうな目。日に焼けた頬。手には、おじいちゃんにもらったらしい、木彫りの人形を、大事そうに、握りしめている。元気いっぱいの、どこにでもいる、幸せそうな、子供。
「おかえり、憂」
リベラが、しゃがんで、子供を、抱き留めた。
龍魔呂の、時間が、止まった。
——憂。
——ユウ。
聞き間違える、はずが、なかった。世界が変わっても、言葉が変わっても、その響きだけは。何千回、何万回と、心の中で呼び続けた、その名前だけは。
『ユウ』
『にいちゃん!』
『おかえり、にいちゃん!』
燃える家。攫われた檻。冷たくなった頬。ゴミ捨て場。半分残った、パンの切れ端。
「……」
龍魔呂は、動けなかった。
息を、するのを、忘れた。
目の前にいるのは、別の子供だ。わかっている。リベラの息子だ。自分の弟では、ない。ユウは、もう、いない。別の世界で、八年前に、死んだ。この子は、ただ、同じ名前を持っているだけの、別人だ。
わかっている。
わかっているのに——身体が、動かなかった。
その子が、ふと、龍魔呂の存在に、気づいた。
「あ。だれ?」
きょとん、と、憂が、龍魔呂を、見上げた。
大きな、大人。見慣れない、顔。けれど、子供特有の人懐っこさで、憂は、警戒するどころか、にこっと、笑った。
「おにいちゃん、だれ? ママの、おともだち?」
——その笑顔が。
縁側で、甘すぎると顔をしかめた兄を見て、けらけら笑った、弟に。
『にいちゃん、はやく帰ってきてね』
——重なった。
「……っ」
龍魔呂は、立ち上がった。
「悪い」
声が、掠れていた。
「少し、外の、空気を」
それだけ言って、龍魔呂は、足早に、事務所を、出た。
憂が、きょとんとした顔で、その背中を、見送った。
「ママ? おにいちゃん、どうしたの?」
「……うん」
リベラは、龍魔呂が出ていった扉を、静かに、見つめていた。その据わった目が、何かを、見抜いていた。
「ちょっと、お疲れなんよ。憂は気にせんでええ。ほら、手を洗うて、おやつにしよう」
「やったー!」
事務所の、裏手。
龍魔呂は、井戸の縁に手をついて、俯いていた。
(……落ち着け)
何度も、自分に言い聞かせた。
(あれは、ユウじゃない。別の子供だ。ただ、名前が、同じなだけだ。たまたま、だ)
(俺は、何を、動揺してる)
だが、心臓が、うるさかった。八年間、一度も泣かなかった男の、奥の奥で、何かが、震えていた。
——なぜだ。
——なぜ、よりによって、同じ名前なんだ。
この世界に来たのは、偶然のはずだった。荒野に流れ着いたのも、良樹たちに拾われたのも、この村に来たのも、この事務所に世話になったのも、すべて、ただの偶然のはずだった。
それなのに。
たどり着いた先に、「ユウ」が、いた。
(……まるで)
(誰かに、ここへ、連れてこられたみたいだ)
龍魔呂は、空を、見上げた。
雲ひとつない、青空。二つの月が、薄く昇っている。何も、いない。誰も、いない。ただの、空だった。
だが、龍魔呂は、知らなかった。
その空の、ずっと、ずっと、上で。
雷帝神となった、ユイが、息を詰めて、龍魔呂を、見つめていることを。
『……ごめん、たつまろ』
ユイの声は、震えていた。
『驚いたよね。……あの子の名前、僕も、知らなかったんだ。本当だよ。僕が、そう仕向けたわけじゃ、ない』
それは、本当だった。
ユイは、龍魔呂を、この村へ導いた。深い霧を呼び、風を操り、彼の足を、この場所へと、向けさせた。けれど、リベラの息子の名前が「憂」であることは、ユイにも、予測できなかった。それは、ユイの導きを、超えた、もっと大きな何か——運命、と呼ぶべきものが、起こした、偶然だった。
あるいは。
(……ううん)
ユイは、思い直した。
(偶然じゃ、ないのかも、しれない)
神になったユイには、世界の流れが、見える。そして、その流れは、時々——人智を超えた「縁」を、結ぶ。
死んだ弟を、救いたいと、願う、龍魔呂。
その龍魔呂が、たどり着いた世界で、「ユウ」と同じ名を持つ子に、出会う。
それは、世界が——あるいは、もっと大きな何かが、龍魔呂に与えた、二度目の、機会なのかもしれなかった。
救えなかった、弟を。
今度は、救えるかもしれない、という。
『たつまろ』
ユイは、井戸の縁で俯く龍魔呂に、届かない言葉を、贈った。
『あの子は、ユウじゃない。それは、本当だよ。あの子はあの子で、ちゃんと、リベラさんの、大切な子だ』
『でもね』
『君が、あの子を見て、苦しくなったってことは』
『君の中に、まだ、ユウが、いるってことだよ』
『忘れてない。捨ててない。あんなに地獄をくぐっても、君はまだ、弟を、覚えてる』
『……それって、すごく、優しいことだよ』
ユイの瞳から、光の雫が、こぼれた。
『大丈夫。ゆっくりで、いい。逃げても、いい。でも——』
『いつか、あの子の笑顔を、まっすぐ見られるように、なったら』
『その時はきっと、君は、もう一度、誰かを守れる人に、戻ってる』
どれくらい、そうしていただろう。
「……おにいちゃん」
小さな声が、した。
龍魔呂が、振り返ると。
事務所の角から、憂が、ひょこっと、顔を出していた。手には、小皿に乗せた、ほかほかと湯気を立てる、太陽芋のふかしたのを、持っている。
「あのね。ママが、おにいちゃんにも、これ、持っていってあげなさいって」
憂は、おそるおそる、けれど、一生懸命、近づいてきた。さっき龍魔呂が、急に出ていったから、心配したのかもしれない。子供なりに、気を、遣っているのだ。
「おにいちゃん、おなか、すいてるの? これ、あまくて、おいしいよ」
差し出された、小さな手。湯気の立つ、ふかし芋。
龍魔呂は、その手を、見た。
別の世界で。同じように、小さな手が、菓子を差し出してきたことが、あった。あの日の、ユイの手と。今の、憂の手が。
龍魔呂は、ゆっくりと、膝を、折った。
憂と、目の高さを、合わせた。
「……ありがとう」
久しぶりに、その言葉を、口にした。子供に向かって、優しい声を、出そうとした。うまく、できたかは、わからない。長いこと、忘れていたから。
それでも。
ふかし芋を、一口、かじった。
甘かった。素朴で、温かくて、優しい甘さだった。土の匂いと、お日様の味が、する。魔農作物の、太陽芋。きっと、この世界の、どこにでもある、ありふれた、おやつ。
「……うまいな」
「でしょ!」
憂が、ぱっと、顔を、輝かせた。
「ユウ、これ、だいすきなの!」
——ユウ。
その子は、自分のことを、そう、呼んだ。憂、と書いて、ユウ、と。
龍魔呂の胸が、また、締めつけられた。けれど今度は、さっきほど、苦しくは、なかった。痛みの中に、ほんの少しだけ、温かいものが、混じっていた。
(……ユウ)
(お前は、あっちの世界で、こんな風に、笑えてたか)
(俺が、もっと、ちゃんと、守れてたら)
(こんな風に、甘いもんを食って、笑って、いられたか)
「おにいちゃん? どうしたの? おなか、いたいの?」
憂が、心配そうに、龍魔呂の顔を、覗き込んだ。
「……いや」
龍魔呂は、首を、振った。
「なんでもない。……うまかった。ありがとうな、ユウ」
「えへへ」
憂が、照れたように、笑った。
その笑顔を、龍魔呂は、今度は、目を逸らさずに、見た。
まだ、苦しい。きっと、しばらくは、苦しいだろう。だが、逃げないことに、した。この子の笑顔から、逃げないことに。それが、せめてもの——救えなかった弟への、何かに、なる気がした。
ピコン。
懐で、板が、小さく、鳴った。
『誰かと、心を通わせました』
『+15 P』
龍魔呂は、画面を、見なかった。
今は、点数なんて、どうでも、よかった。
ただ、目の前で笑う、小さな「ユウ」を——もう一度、見つめた。
その様子を、事務所の窓から、リベラが、見ていた。
「……あの人、何か、抱えとるね」リベラが、足元のアモンに、そっと囁いた。「それも、相当に、重いもんを」
「右だ。——あの男、さっき、泣くのを、こらえていた。汗じゃない、涙の匂いがした。ずっと、奥に、しまい込んでいる匂いだ」
「左ぃ……オレ、ああいう匂い、知ってるぜ。大事なもんを、なくした奴の匂いだ」
「まんなか〜……かわいそうにねぇ。でも、憂ちゃんといると、ちょっとだけ、やわらかい匂いに、なるねぇ」
リベラは、紅茶のカップを、両手で、包んだ。
彼女自身、抱えているものが、あった。憂を、決して、地獄のような目に、遭わせない。そのために、彼女は、修羅になることを、選んだ女だった。
だからこそ、わかった。
あの龍魔呂という男も、きっと——誰かを、守ろうとして、守れなかった。そういう目を、している。
「……ま、ええわ」
リベラは、ふっと、笑った。
「困っとる人を、見過ごせんのが、うちじゃけぇ」
窓の外で、龍魔呂が、憂と、ぎこちなく、けれど確かに、言葉を、交わしている。
その光景は、リベラの胸を、ほんの少し、温かく、した。
それが、やがて、地獄の底まで続く、長い長い物語の——その最初の、温かな灯火に、なることを。
まだ、誰も、知らない。
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