EP 2
「奪う者より、救う者」
走った。
なぜ走るのか、自分でもわからなかった。
ただ、子供の泣き声だけは——どうしても、聞き流せなかった。
岩場を越えた先。ぼろぼろの幌馬車と、檻があった。檻の中には、痩せ細った子供が、何人も詰め込まれている。その傍らで、汚れた革鎧の男たちが、嗤っていた。
「泣くんじゃねえ! 高く売れねえだろうが!」
人攫い。
その光景を、龍魔呂は、知っていた。
別の世界で。八年前に。燃える家と、攫われた弟と。あの夜と、何も、変わらない。世界が変わっても、人の業は、同じだった。
龍魔呂の中で、固く閉じていた何かが、軋んだ音を立てて——開いた。
「あ? なんだ、てめ——」
最初の男が、振り返った。
それが、男の見た、最後の光景だった。
風が、吹いた。
ただ、それだけだった。
龍魔呂が、地を蹴った音すら、誰も聞かなかった。
次の瞬間には、男たちは、全員、地に伏していた。十数人。誰一人、刃を抜く間もなく。悲鳴を上げる間も、なく。
返り血は、一滴も、飛んでいなかった。
鬼神流の修行が、龍魔呂の暴力から、無駄な飛沫すら、削ぎ落としていた。深山で、師範に叩き込まれた、極限まで研ぎ澄まされた歩法と体捌き。それは今や、彼の意思とは無関係に、ただ静かに、確実に、悪を、消していく。
ピコン。
懐で、板が、鳴った。
『悪人を討伐しました』
『+10 P』
「……ポイントが、入った」
龍魔呂は、初めて、その板に、反応した。
神の言葉は、嘘ではなかった。善いこと——いや、悪を断つことに、確かに、対価が支払われる。+10P。これだけあれば、水が買える。飯が買える。
なるほど、と龍魔呂は思った。
(俺が、人を斬れば。この世界は、俺に、飯を食わせる、ということか)
馴染み深い、等価交換だった。闘技場と、同じだ。殺せば、生かされる。それが、龍魔呂の知る、世界の理だった。
——だが。
その理を、この世界の神具は、すぐに、裏切った。
檻の鍵を、握り潰して、開ける。
中の子供たちが、おそるおそる、出てきた。十歳に満たない子も、いる。皆、痩せて、汚れて、怯えていた。
そして、子供たちは、龍魔呂を、見上げた。
助けてくれた相手を見る、目では、なかった。
新しい、もっと恐ろしい何かを見る、目だった。
「……」
龍魔呂は、何も、言えなかった。
「家に、帰れ」と、言いたかった。「もう大丈夫だ」と、言いたかった。八年前、弟に、そう言ってやれたように。
だが、言葉が、出てこない。
この手は、たった今、人を殺した手だ。この目は、五年間、闘技場で人を屠り続けた、死神の目だ。子供を安心させる笑い方など、とうの昔に、忘れた。「小さい子をいじめるな」と、巫女に手を上げた、あの頃の自分は——もう、どこにもいない。
スマホは、沈黙したままだった。
ピコンとも、鳴らない。
(……そうだろうな)
龍魔呂は、画面を、見もせずに、思った。
(俺は、こいつらを、救っちゃ、いねえ)
(攫った男を、斬っただけだ)
(こいつらの、恐怖は。何ひとつ、消えちゃ、いねえ)
斬ることには、点が入る。だが、救うことには、入らない。いや——違う。
"救えていない"から、入らないのだ。
龍魔呂は、まだ、人を救う方法を、思い出せないまま、だった。
背を向ける。
「……あっちに、行けば、村がある」
それだけ言って、龍魔呂は、歩き出した。
守れなかったわけでは、ない。守った。だが、守った後に、何もできない。それが、今の、彼だった。
その、背中に。
たたっ、と。
小さな足音が、追ってきた。
「……おじちゃん」
振り返ると。
いちばん小さな、幼子が、立っていた。
四つか、五つか。涙と泥で、顔をぐしゃぐしゃにした、女の子。その子が、小さな手を、龍魔呂に向かって、差し出していた。
手のひらの上に、乗っていたのは——硬い、木の実が、ひとつ。
きっと、攫われる前から、ずっと握りしめていた、その子の宝物だったのだろう。
「あの、ね」
女の子は、しゃくりあげながら、それでも、一生懸命、言った。
「おじちゃん、こわい、けど……たすけて、くれた、から」
「……これ、あげる」
「ありがと、ございました」
龍魔呂は。
その、木の実を。
呆然と、受け取った。
別の世界で。同じように、小さな手が、菓子を差し出してきたことが、あった。「これ、すっごい美味しいの! 食べて!」と。あれは——ユイ、だった。
その記憶と、今の、女の子の手が。
重なった。
ピコン。
懐で、板が、鳴った。
龍魔呂は、ゆっくりと、画面を、見た。
『誰かの心を、救いました』
『+30 P』
「……っ」
息が、止まった。
+30。
人攫いを、十数人、斬って——+10。
たった一人の子供に、「ありがとう」と、言われただけで——+30。
(……三倍、だと)
龍魔呂は、その数字を、見つめたまま、動けなかった。
奪う者より、救う者。斬ることより、救うことの方が——この世界では、はるかに、重い。
『ポイントはね……何も考えずに、誰かのために動いた時の方が、よく入るよ』
女神の、言葉が。
今、龍魔呂の中で、初めて、意味を持った。
彼は、損得で、この子を助けたわけではなかった。子供の泣き声に、突き動かされて、ただ、走った。打算など、何ひとつ、なかった。
だからこそ——その報酬は、こんなにも、大きいのだ。
「……ありが、とうな」
龍魔呂は、掠れた声で、女の子に、言った。
うまく、笑えたかは、わからない。
だが、女の子は、こくり、と頷いて、仲間たちのもとへ、駆けていった。
その後ろ姿を、龍魔呂は、長いこと、見送っていた。
手のひらの中の、硬い木の実を、握りしめて。
「兄ちゃん。兄ちゃんてば。生きとるか?」
意識が、戻った。
あの後、村を目指して歩き、空腹と渇きの限界で、龍魔呂は、行き倒れていたのだった。
目の前に、緑色の、トカゲの顔があった。二足歩行の、人が乗れるほどの竜。その隣に、やたら装飾の多い外套を着た、青年。
「お、起きた起きた」竜が、呆れたように、尻尾を振った。「兄ちゃん、運ええで。腹の音が岩場の向こうまで聞こえとったわ。情けないのぅ」
「……何だ、お前らは」
「拙者、佐須賀良樹! この時を駆ける竜騎、ロード殿と共に——」
「ただの喋るトカゲやで。器用なだけの」
「ロード殿!? 拙者の口上!」
竜——ロードは、青年のボケを軽くいなして、龍魔呂を見た。
「まあ、ええわ。兄ちゃん、メシや。この先にルナキンある。腹減って動けん奴、放っとくの寝覚め悪いしな。奢ったるわ」
龍魔呂は、差し出された手を、取らなかった。
この、血まみれの手で握れば、この呑気な相手まで、自分の世界に、引きずり込んでしまう気がした。
だが。
ぐぅ、と。
盛大に、腹が鳴った。
「……ぷっ」良樹が、噴き出した。「中二病、抜けたでござるな」
龍魔呂は、無言で、自力で、立ち上がった。
それでも——ついて、いくことにした。
なぜなのかは、自分でも、わからなかった。
ルナキンの、ハンバーグは、熱々だった。
鉄板の上で、肉汁を撒き散らして焼ける、分厚い肉。湯気を立てる、白い米。
五年間、闘技場で食ったのは、パンの切れ端と、薄い粥だけだった。勝てばパン、負ければ、弟が豚の餌。そういう、飯だった。
龍魔呂は、ぎこちなく、肉を切り、口に運んだ。
肉汁が、口の中で、弾けた。
毒も、入っていない。誰かを殺さなければ、食えない飯でもない。弟の命と、引き換えの飯でもない。
ただ、温かくて、うまい、飯だった。
「……うまい」
ぽつりと、漏れた。
「やろ?」ロードが、得意げに、尻尾を振った。
二人は、龍魔呂が何者なのか、聞かなかった。なぜ全身に、戦いの匂いを纏っているのかも。ただ、隣で、呑気に飯を食っていた。
その距離感が——龍魔呂には、奇妙に、心地よかった。
その夜、龍魔呂は、スマホの履歴を、何度も、見返した。
『悪人討伐 +10P』
『誰かの心を救った +30P』
——奪うより、救う方が、重い。
そんな当たり前のことを、この世界の神具は、淡々と、教えてくる。
「兄ちゃん、行くアテないんやろ」ロードが、爪楊枝を咥えて、言った。「ポポロ村に来いや。ええ人おるで。困った奴を、放っとけん女がな」
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