第一章「鬼龍、村に灯をともす」
「ようこそ、飯のうまい世界へ」
——人を、何人斬っただろう。
数えるのは、とうにやめた。
母を奪われ、弟を奪われ、すべてを奪われて。気づけば、「死を呼ぶ4番」と呼ばれていた。斬って、斬って、斬り続けた。それ以外の生き方を、知らなかったから。
だから——深い霧を抜けた先に広がった、その光景の意味が、龍魔呂には、最初、わからなかった。
抜けるような、青い空。薄く昇る、二つの月。どこからか漂う、香ばしい、何かの焼ける匂い。そして——遠くから聞こえる、誰かの、笑い声。
戦の匂いが、しなかった。
血の匂いも、煙の匂いも、しなかった。
ただ、平和な、昼下がりの匂いだけが、そこにあった。
「……ここは、どこだ」
呟いた声に、答えが返ってきた。
「いらっしゃ〜い! 新規さんだ〜!」
場違いに明るい声が、頭上から、降ってきた。
見上げると、宙に、女が浮いていた。
神々しさは、欠片もなかった。
よれよれのジャージ。片手に、酒の瓶。だらしなく着崩した襟元。眠そうな半眼。どこからどう見ても、休日の昼間から飲んだくれている、自堕落な女にしか見えない。
だが——その背に、淡く光る輪と、翼のようなものが、揺れていた。
「君さぁ〜」女は、瓶をあおりながら、龍魔呂を上から下まで眺めた。「向こうの世界で、散々だったでしょ。いや〜、神々の間でちょっと有名だよ? "Death4"くん。観てたよ、あたし。可哀想でさぁ」
龍魔呂は、答えなかった。
神。
その響きに、胸の奥が、冷たく軋んだ。神を騙る大神官に、すべてを奪われた。神に祈った巫女は、消えた。龍魔呂にとって、神とは——最も、信用ならないものだった。
「お、無視? つれないな〜」女は、けらけら笑った。「あたしはルチアナ。創造神。まあ、細かいことはいいや。可哀想な君に、second life あげようと思ってさ。こっちの世界で、もう一回、やり直してみ?」
「……いらねえ」
ようやく、龍魔呂は口を開いた。
「やり直し? どこの世界へ行こうが、俺は俺だ。神の施しなんざ、要るか」
「まあまあ、そう言わずに」
ルチアナは、龍魔呂の拒絶などまるで意に介さず、ひらひらと何かを放ってよこした。
反射的に、受け取る。
それは——奇妙な、板だった。黒く、つるりとして、手のひらほどの大きさ。地球の人間なら誰もが知るそれを、龍魔呂は、当然、知らなかった。
「それ、エンジェル・スマートフォン。神具の一種ね」ルチアナが、面倒くさそうに説明した。「善いことするとさ、ポイントが入んの。で、そのポイントで、地球の便利なもん、なんでも買えるわけ。水でも、飯でも、武器でも。便利っしょ?」
板の表面が、ぼう、と光った。文字が、浮かぶ。龍魔呂には読めないはずの文字が、なぜか、すらすらと頭に入ってきた。
『エンジェル・スマートフォン』
『善行を感知し、ポイントを付与します』
『所持ポイント:0 P』
「……ゼロ」
「あ」ルチアナが、ぽん、と手を打った。「ごめん、残高ゼロだわ。あたし課金担当じゃないからさ〜。稼ぎ方は、自分で気づいてね? じゃ、頑張って〜」
「おい——」
「あ、そうそう」
消えかけたルチアナが、最後に、ひとつだけ。
その時だけ、酔っ払いの目が、ほんの少し、神の色を帯びた。
「ポイントはね……損得勘定で動いた時より、何も考えずに、誰かのために動いた時の方が——よく入るよ。覚えときな」
それだけ言って。
女神は、ゲップをひとつ残して、空気に溶けた。
「……なんだったんだ」
龍魔呂は、手の中の板を、見下ろした。
『所持ポイント:0 P』
試しに、念じてみる。水を。喉が、渇いていた。
板に、水のボトルらしき映像が、ずらりと並んだ。だが、それに触れようとした瞬間。
『ポイントが不足しています』
無機質な文字が、龍魔呂を、拒んだ。
「……結局、神は、何もくれねえか」
龍魔呂は、自嘲した。
光る板を懐に放り込み、歩き出す。神の施しなど、最初から期待していない。喉が渇けば、自分で水を探す。腹が減れば、自分で奪う。そうやって、生きてきた。
——その時だった。
「ブモオオオオオッ!!」
「待てぇ! 待たんかこらぁ! 今夜のシチューぅ!!」
龍魔呂の目の前を、何かが、猛烈な勢いで、横切った。
それは——人参だった。
人の背丈ほどの、巨大な人参。だが、それには手足が生え、絶叫する顔がついていて、土煙を上げながら、全力で逃走していた。その後ろを、鍬を担いだ農夫が、鬼の形相で追いかけていく。
人参と、農夫が、地平線の彼方へ消えていった。
「…………」
龍魔呂は、無言で、それを見送った。
人を斬る以外、何も知らない男の、凍りついた心に。
生まれて初めて——「困惑」という、ささやかな感情が、芽生えた。
(……なんだ。この世界は)
平和で。明るくて。馬鹿馬鹿しくて。
血の匂いが、しない。
こんな世界が、あるのか。
歩いた。
当てもなく、ただ、歩いた。
二つの月が傾き、空腹と渇きで、意識が、朦朧としてくる。鬼神流の修行で鍛えた身体も、無補給では限界がある。だが龍魔呂は、止まらなかった。止まれば、考えてしまう。失ったものを。救えなかったものを。
(……ユウ)
足は、勝手に、前へ出た。
この世界の、どこかに。死んだ弟を——あの未来を、覆す方法が、ある気がした。なぜそう思うのかは、わからない。ただ、ずっと、誰かにそう囁かれ続けているような気が、していた。
その、囁きに、導かれるように。
風が、運んできた。
ある、音を。
「——うわあああん!! やだ! はなして!」
龍魔呂の、足が。
止まった。
子供の、泣き声。
子供の、悲鳴。
その瞬間、龍魔呂の中で、固く封じたはずの"何か"が、ぎしりと、軋んだ音を立てた。瞳孔が、わずかに、開く。渇きが、消えた。空腹が、消えた。
代わりに、込み上げてくるのは——あの、赤黒い、衝動。
(——ああ)
(まただ)
(子供の、声は)
(駄目だ。俺は、これに——)
気づけば。
龍魔呂の足は、悲鳴の方へ、走り出していた。
渇きも、空腹も、忘れて。
ただ、その泣き声だけは——どうしても、聞き流すことが、できなかった。
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