呼びごえ
――イヅル、おいで。
誰かが俺を呼ぶ。どこから聞こえてくるのか……そもそも、ここはどこなのか?
俺は黒いクレヨンを握って、一心不乱に画用紙を擦っている。赤と黒、2色で塗りつぶされた紙は、何度も打ち付けられるクレヨンの筆圧に負け、ふにゃふにゃによれてしまっている。
――イヅル、おいで。イヅル……。
誰かが俺を呼んでいる。意識ではその声に気が付いているのに、身体は何も反応しない。黒いクレヨンで、画用紙いっぱいの赤を塗りつぶそうと必死になっている。
――イヅル、父さんのところにおいで……。
(……父さん)
誰に呼ばれているのかが分かった途端、身体が動いた。俺は立ち上がり、辺りを見回す。
闇、闇、どこまでも続く闇……。
(父さん、どこにいるんだ?)
クレヨンを放り投げ、闇の中へと当てずっぽうに走り出す。父さん、あれは父さんの声だ。
――イヅル、おいで。父さんのところにおいで……。
(行くよ、父さん。行くから、どこにいるのか教えてよ。父さん……)
「イヅル」
とん、と肩を叩かれた。振り返るが、誰もいない。
(父さん?)
――イヅル、父さんはここにいる。
――ここで、お前が来るのを待っている。
風が吹いた。生温かく、なにか大きな生き物の吐息のような、不快な風。
風はどこから吹いてくるのか……風上に目をこらすと、暗闇の中に巨大な影が見えた。
荘厳な、レンガ造りの建物。
――東京駅。
「うわっ!」
弾かれるように飛び起きた。真っ暗な部屋の中、荒く繰り返される呼吸の音だけが響いている。
(夢……を、見ていた?)
スマートウォッチで時間を確認する。午前3時を少し過ぎたくらいだ。変な時間に起きてしまった。
脂汗に濡れた額に、前髪が貼り付いて鬱陶しい。手の甲で汗をぬぐい、手櫛で髪をとかす。
「……嫌な夢だ」
何の気なしにそう口にしてから、疑問に思う。
嫌な夢? あれは、嫌な夢だっただろうか?
父さんを助けに行く夢なんて、これまでに数え切れないほど見てきたし、そのほとんどが悪夢だった。
焦り、苛立ち、虚しさ、絶望――あらゆる負の感情に追いかけられ、押し潰され、飲み込まれる。父さんが夢に出てきた時は、大抵そうなる。
だが、今日の夢は少し違っていた。焦りでも苛立ちでも、虚しさでも絶望ですらない、それでいて「嫌な夢」だとは確信できる感情。
――ただひたすらに不快だった。
具体的に何が不快だったのか、言葉にしようとすると難しい。
こちらを執拗に撫で回してくるような、あの生温かい風だろうか? それとも、暗闇からこちらを凝視してきていた視線か。
あるいは、もしかして。
――おいで、イヅル。
俺の名を呼んだ、父さんの声が――不快だったのだろうか? まさか……。
東京駅の奥深くから、俺を呼ぶ声。
「……父さん、なんだよな?」
深夜の自室、俺の独り言に応えるものはなにもなかった。




