届かない(妃戦・前編) 小学生編
妃と会ってから、三日が過ぎた。
俺はずっと、上の空だった。授業も給食も、頭に入らない。「この世界に存在しないみたいに、読めない」──妃の言葉が、頭から離れなかった。
俺は、何者なんだ。なんで記憶がない。なんでデータがない。なんで、コピーすらできない。
「おーい、ハズレ」
給食のパンを俺の口に押し込みながら、音也が言った。
「死にそうな顔してんなよ。辛気くさくて、パンがまずくなる」
「……お前のせいでパンが詰まってんだよ」
「ほら、しゃべれてる。元気元気」
こいつは、いつもこうだ。俺が沈むと、くだらない減らず口で、勝手に引き戻してくる。鬱陶しい。鬱陶しいけど──少しだけ、息がしやすくなる。
「なあ零」音也が、めずらしく、まじめな声で言った。「お前が何者だろうと、おれには関係ねえよ。データがなかろうが、記憶がなかろうが、お前は俺の相棒だ。それだけだろ」
俺は、答えなかった。代わりに、残りのパンを、音也の口に押し返してやった。
──このときは、まだ、よかった。
*
その日の放課後、妃は、待っていた。
今度は、教室じゃない。校舎の屋上。逃げ場のない、空の下。
「待っていたわ」妃が、微笑む。前と同じ、優雅な笑み。でも、目だけが、笑っていなかった。「今日は、本気よ。あんたの中身、見せてもらう」
言い終わる前に、妃の手が動いた。
息を、止めずに。
飛んできたのは、轟のチャージ。よけた先に、皇帝のドーム。閉じ込められたところに、硬化した拳。──倒してきた敵の能力が、雨みたいに、降ってくる。しかも、息継ぎの隙が、まるでない。
「零、来る!」
音也が高い音で軌道をそらす。俺が重さで足場を崩す。二人がかりで、必死にしのぐ。
前に見抜いたとおり、妃のコピーは、劣化版だ。チャージは轟より軽い。ドームは皇帝より薄い。一つひとつは、本物に届かない。
でも──数が、違った。
本気の妃は、コピーを、次々に、休みなく繰り出してくる。劣化していても、十発撃たれれば、一発は当たる。息継ぎがないぶん、こっちだけが、消耗していく。
「はあ……はあ……」
音也の息が、上がっていた。俺の足も、もう、限界に近い。
「いい粘りね」妃が、目を細める。「でも、そろそろ、終わりにしましょう」
*
妃が、俺に向かって、まっすぐ手をかざした。
今までで、いちばん濃い、チャージのかげろう。コピーでも、まともに食らえば、終わる一撃。
俺は、足がもつれて、よけられない。
あ、これ、死ぬやつだ。
頭の隅で、そう思った。
でも、その一撃は、俺には、届かなかった。
間に、音也が、飛び込んできたからだ。
「──音也!?」
どん、と鈍い音。音也の体が、吹き飛ばされて、屋上のフェンスに叩きつけられた。ずるり、と崩れ落ちる。動かない。
「お、おい、音也!」
返事がない。胸は、かすかに上下している。生きてる。でも、ぴくりとも、動かない。
「あら」妃が、つまらなそうに言った。「邪魔な子。──まあいいわ。先に、そっちを片付けただけ」
妃が、また、手をかざす。今度こそ、俺を。
でも、俺は、もう、妃を見ていなかった。
倒れた音也だけを、見ていた。
こいつは、俺をかばった。データもない、記憶もない、何者かも分からない俺を、「相棒だ」と言って、かばって、倒れた。
胸の奥のモヤモヤが、ぐらりと、揺れた。
いつもの「めんどくさ」が、出てこなかった。代わりに、腹の底から、何か、熱いものが、せり上がってくる。
*
俺は、息を止めた。
いつもより、ずっと深く。肺が、軋むくらい。
能力を使う。重さを動かす。けど──今は、それだけじゃ、足りない気がした。
もっと。もっと、奥の何かが、開きかけている。
重さを「移す」んじゃない。
なにも、ない場所から──「生み出せ」。
そんな声が、どこからか、聞こえた気がした。誰の声か、分からない。でも、懐かしい、声だった。
息を止めたまま、俺の中で、何かの蓋が、きしんで、開いていく。視界が、白くにじむ。鼻から、つう、と血が垂れた。
「……なに?」
妃の余裕の表情が、初めて、こわばった。
「あんた、今、何を……その能力、さっきまでと、違う……っ、何が起きてるの!?」
俺にも、分からなかった。
ただ、止めた息の奥で、見たことのない「重さ」が、生まれようとしているのが、分かった。この世界の、どこからも借りていない、ゼロから生まれる、重さが。
音也を、守らなきゃ。
その一心で、俺は、開きかけた蓋に、手をかけた。
──夕日が、屋上を、真っ赤に染めていた。
俺が、初めて、自分の「中身」に、触れる音がした。
(後編へ続く)




