一撃の値段 小学生編
そいつは、取り壊し前の建物の暗がりで、ただ突っ立っていた。
でかい。俺や音也の、頭ひとつどころか、ふたつぶんはある背丈。腕は丸太のようで、顔は岩みたいに動かない。足元には、攫われたばかりらしい子どもが、気を失って転がっている。
学校が終わったあと、俺たちは、音也がどこからか聞いてきた話をたよりに、ここまで追ってきた。常世会の、次の狩り場。半分こわれかけた、もうすぐ取り壊される古い建物。窓ガラスはほとんど割れて、夕方の赤い光が、ななめに差しこんでいた。
「……間に合った、のか?」
「半分な」と音也。「子どもはまだいる。けど、あれをどうにかしないと、連れては帰れねえ」
あれ。岩のような大男が、ようやく口を開いた。
「轟くう」
名乗りなのか、ひとりごとなのか。低い声だった。たぶん十八か十九。もうすぐ消える年だ。
「じゃまをするなら、こわす。それだけだ」
そう言って、轟はゆっくりと拳を引いた。
そして、すうっと息を吸って──止めた。
空気が変わった。轟の拳のまわりが、かげろうのようにゆれている。力が、たまっていく。息を止めているあいだ、ずっと。
「零」音也が、するどく言った。「来るぞ。あのためてる感じ──昨日の、地面のへこみだ」
内側だけがくだけた、あの痕。
轟の拳が、うなりを上げて振りぬかれた。
俺は横にとんだ。拳は当たらなかった。当たらなかったのに──うしろのコンクリートの柱が、内側から、ばぐん、とはぜた。表面はきれいなまま、中だけがくだけて、柱がぐにゃりと折れる。
かすっただけで、これか。
「衝撃を、内側に通す能力だ」俺は、転がりながら頭を回す。「直接当たらなくても、近くにあれば中身をこわされる。受けるのは無理だ。よけるしかない」
詰んでいる。──いつもの結論だ。
でも、いつもどおり、俺の頭の悪くないところが、勝手に回りはじめていた。
──こいつ、撃つ前に必ずためる。息を止めて。
そして、さっきの一撃より、昨日のへこみのほうが威力は上だった。つまり。
長くためるほど、強くなる。けど、ためているあいだは動けない。息も、ずっとは止められない。
「音也」と俺は声を張った。「あいつがためているあいだ、何か分かるか。お前の耳で」
音也が目を細めた。それから、すっと息を吸って、耳をすませる。
「……聞こえる。あいつがためはじめると、筋肉のきしむ音がする。息を止める音も。──ための”はじまり”と”げんかい”が、音で読める」
「上等だ」
俺が黙って前に出る。音也が、うしろで耳を立てる。
俺たちの、役割分担だ。
*
轟が、またためはじめた。今度はさっきより長い。かげろうが、こくなっていく。本気の一撃を、装填している。
「来る、でかいぞ!」音也がさけんだ。「あいつ、今、息をげんかいまで止めてる──撃つまで、あと数秒!」
数秒。轟が、いちばん強い一撃をためきるまでの、数秒。
そのあいだ、轟は動けない。無防備だ。
でも、近づけば撃たれる。撃たれたら内側からくだかれる。だから、ふつうは近づけない。
ふつうは。
俺は息を止めた。
走りながら、轟の、振り上げられた拳。そこにたまった力ごと、その「重さ」を──つかむ。
拳は岩のように重い。力をためたぶん、ずっしりと。その重さを、引きはがして、轟の背中のほうへ移す。
拳が軽くなった。羽根みたいに。
代わりに、轟の背中が、ぐん、と重くなる。いちばんまでためた、その重さぶん。
轟が、渾身の一撃を前へ振りぬこうとした、まさにその瞬間──
背中に乗った重さが、轟の体をうしろへ引いた。
前へ撃つはずの体が、うしろへのけぞる。ためた力は、軽くなった拳からすっぽ抜けて、どこにも乗らない。からっぽの拳が、何もない空を、むなしく薙いだ。
全部、賭けた一撃が。空ぶりした。
「──っ、ぁ……!?」
轟が、止めていた息を吐いた。いきおいよく。ひざが、がくりと折れる。
全力でためた一撃を、撃てずに放った反動。そして──ためるために削った、寿命。
「あんた、今ので何年ぶん使った?」音也が、静かに言った。「全部賭けた一撃を、空に撃たされたんだ。もう、立てねえだろ」
轟は、ひざをついたまま、立ち上がれなかった。
*
俺は、ふう、と息を吐く。勝った。けど、勝った気がしなかった。
轟は、地面を見たまま、低く笑った。
「……強さってのは、こういうものか」
誰に言うでもなく。
「施設じゃ、力がすべてだった。弱いやつは消える。誰も助けちゃくれない。だから、おれは力をためた。寿命を削ってでも、強くなった。それが──」
言葉が、とぎれる。
「それしか、なかったからだ。おれには」
身よりもなく、二十歳で消える世界に放り出されて。力にしか、すがれなかった男。常世会だけが、そんな轟を「使える」と言った。だから戦った。命を削って。
俺は何も言えなかった。こいつを、悪いやつだと言いきれなかった。
建物の奥から、足音がひびいた。常世会の、別の連中。轟を回収しに来た──いや。
「失敗作だ」黒い影の一人が、倒れた轟を見下ろして吐き捨てた。「寿命も使い切った。もう使えん。置いていけ」
置いて、いけ。
組織は、力を失った轟を、ゴミみたいに見捨てて引き上げていった。攫った子どもだけ、回収して。
たった一つの、いばしょだったはずなのに。
「……クソが」
音也が、めずらしく、本気で吐き捨てた。
俺は、倒れた轟と、その横で目を覚ました攫われかけの子を、かわるがわる見た。子どもは無事だ。半分は間に合った。
でも、もう半分は──たぶん、ずっと、間に合わない。
*
帰り道、俺たちはしばらく無言だった。
先に口を開いたのは、音也だった。
「……なあ、零。あいつ、四天王の一人だってよ。常世会の」
「四天王?」
「轟くう。“皇帝”のコンビ。妃れいら。あと何人か。組織の、切り札たちだ」音也は、赤い夕空を見上げた。「轟は、そのなかじゃ、たぶんいちばん下っぱだった。──あれで、いちばん下だ」
あれで、いちばん下。
背中が、また冷たくなる。
「お前の”ハズレ”、これからも通用すると思うか?」
「さあ」と俺は答えた。「でも、通用させるしかないだろ。お前が組もうって言ったんだから」
音也がちょっと笑った。それから、いつもの減らず口が戻ってくる。
「言っとくけど、さっきの勝ち、八割はおれの耳のおかげだからな」
「二割は認めるんだな」
「……一割にしとくか」
くだらない言い合いをしながら、俺は、胸の奥のモヤモヤと、もう一つ増えた何かを抱えていた。
力にしか、すがれなかった男の、最後の声。
二十歳で消える世界で、何かにすがらなきゃ立っていられない、子どもたち。
俺は、何のために戦うんだろう。
その答えは、まだ、どこにもなかった。




