第11話「決別の夜明け」
静まり返った村を、銀色の月光が淡く照らしていた。
ルリアは小屋の窓枠に身を預け、冷え込み始めた夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
先ほどの騒動が嘘のように、外からは虫の音だけが規則的に聞こえてくる。
レオンハルトたちが逃げ去ってから数時間が経過していたが、ルリアの心に波立ちは全くなかった。
かつての婚約者であり、自分を理不尽に追い出した相手。
彼が這いつくばって逃げていく背中を見ても、ルリアの胸に湧いたのは怒りでも悲しみでもなく、ただ冷たい空虚だけだった。
『私、本当に王都のことに未練がなかったんだな』
ルリアは自分の手のひらを見つめた。
王城の地下室で来る日も来る日もポーションを作り続けていた頃、この手は薬品の染みで汚れ、いつも荒れ果てていた。
今はどうだろう。
村で土をいじり、薬草をすり潰し、それでも王都にいた頃よりずっと温かく、血の気が通っている。
誰かに強制されて動かす手ではなく、自分の意思で誰かのために使う手。
ルリアの指先が、自然と柔らかく握り込まれた。
「風邪を引くぞ」
背後から布の擦れる音がして、ルリアの肩に厚手の毛布がふわりと掛けられた。
振り向かなくても、その低い声と落ち着いた気配でジルだと分かる。
彼は窓辺に歩み寄り、ルリアの隣に並んで夜空を見上げた。
「……ありがとうございます、ジル」
ルリアが毛布の端を握りしめると、羊毛の温もりが冷えた体をゆっくりと包み込んでいく。
ジルは何も言わず、ただ静かに月を眺めている。
彼の横顔は彫刻のように整っており、月光を受けて冷たい輝きを放っていたが、その眼差しには不思議なほどの穏やかさがあった。
「昼間は、助けてくれてありがとうございました。ジルがいなかったら、無理やり馬に乗せられていたかもしれません」
「あんな小娘一人を攫おうとする輩など、竜の誇りにかけて見過ごすわけにはいかんからな」
ジルは鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「それに、お前がいなくなったら、誰が俺に飯を作ってくれる」
「そこですか」
ルリアが小さく吹き出すと、ジルもつられたように唇の端を上げた。
二人の間に、心地よい沈黙が落ちる。
王城での窮屈な生活では決して味わえなかった、肩の力が抜けるような穏やかな時間。
「ルリア。お前は本当に、あの男の元へ戻らなくてよかったのか。腐っても王族だ。ついて行けば、一生贅沢な暮らしができたかもしれないぞ」
ジルの問いかけに、ルリアは迷うことなく首を横に振った。
「贅沢な暮らしなんて、私には必要ありません。綺麗なドレスを着て、美味しいものを食べて、ただ鳥籠の中で飾られているだけの生活なんて、息が詰まるだけですから。私はここで、好きな時に錬金釜をかき混ぜて、皆が喜ぶ顔を見ていたいんです」
ルリアの言葉に、ジルは満足そうに目を細めた。
「そうか。ならば、お前はずっとここにいればいい。王都の連中が何万の軍勢で押し寄せてこようと、俺がすべて焼き払ってやる」
「村が燃えちゃうので、手加減はしてくださいね」
冗談めかして言うルリアの頭を、ジルの大きな手が優しく撫でた。
その体温が、言葉以上の安心感をルリアの心に染み込ませていく。
窓の向こう、東の空の境界線がわずかに白み始めていた。
長く暗い夜が終わり、新しい1日が始まろうとしている。
ルリアは過去との決別を告げるように、朝焼けの空に向かって静かに微笑んだ。




