第12話 銀木犀の下で
銀木犀が咲いていた。秋の朝だった。
あの匂い。花弁が地面に積もっていて、歩くたびに靴の底から匂いが立つ。十年前と同じ木。同じ匂い。同じ門。
けれど今日、この門をくぐる人たちの顔は、十年前とは違う。
◇
──クラウスの目──
式に呼ばれたのは意外だった。
旧辺境伯領の筆頭家臣が、リンデン伯爵家の結婚式に出る理由はない。王家直轄領の管理官が他家の慶事に参列するのは、形式上おかしい。
けれどカタリーナ様が手紙をくださった。
「クラウス。来てくださいますか」
一行。たった一行。三百二十四頁の引き継ぎ資料を書いた人が、一行の手紙で呼んでくれた。
行かないという選択肢は、なかった。
馬車で二日。旧辺境伯領から王都を経由して、リンデン伯爵領へ。長い道のりだった。馬車の中で、あの引き継ぎ資料の最後の一行を思い出していた。「クラウスへ。よろしくお願いいたします」。あの一行で泣いた日から、もう二年近く経つ。
銀木犀の下。
カタリーナ様がニコラウス殿の隣に立っていた。
カタリーナ様の手は、変わった。十年前の、泥で荒れた手ではない。今も荒れてはいるが、荒れ方が違う。泥だけではなく、インクと紙の跡がある。条約を書き、図面を引き、帳簿をつける手。
ニコラウス殿の手が震えていた。
この男を最初に見た時、信用していなかった。平民の技師。カタリーナ様より年下。この女性の何を知っている、と。十年間あの領地を一緒に見てきた自分の方が、ずっと多くを知っている、と。
一年かけて考えを改めた。
あの男はカタリーナ様の仕事を見ている。数字を見ている。帳簿を見ている。石積みの目地を見ている。図面を向かい側から読んでいる。ルートヴィヒ様が十年間見なかったものを、この男は見ている。
それで十分だ。
四十五年の根が、そう判断した。
式の誓約を立会人が読み上げている間、ニコラウス殿の手はずっと震えていた。カタリーナ様が「緊張していますか」と聞いた。「していません」と答えた。嘘だった。顎の線が強張って、肩に力が入っている。
(──嘘が下手な男だ。けれど、だから信じられる)
ルートヴィヒ様は嘘が巧かった。「出張だ」と笑う顔に、一片の破綻もなかった。十年間、俺すら騙された。
この男は違う。嘘をつくと耳に出る。隠せない。技師というのは、そういうものかもしれない。数字を扱う人間は、嘘に不向きだ。
◇
、マルタの涙、
泣いた。声を上げて泣いた。
十年間で何度泣いたか、もう数えていない。辺境伯領を出る日に泣いた。帳簿の写しを胸に抱いて泣いた。査察報告が届いた日に泣いた。堤防が完成した日に泣いた。条約の日にも泣いた。
全部、悲しくて泣いた。悔しくて泣いた。やるせなくて泣いた。嬉しくて泣いたことも、あった。堤防の完成式典の後。でもあの時の嬉しさには、まだ不安が混じっていた。
今日は、嬉しい。ただ嬉しい。
奥様が笑っている。領民の前の微笑みじゃない。辺境伯夫人の仕事の顔じゃない。子供たちを安心させるための顔でもない。
ただ、嬉しくて笑っている。目がやわらかくなって、口元が自然に弧を描いて。
その笑顔を見るのに、十年かかった。
十年間、冷めた茶を温め直し続けた。蝋燭を替え続けた。泥だらけの長靴を拭き続けた。涙を流し続けた。奥様の代わりに。奥様の分まで。
今日の涙は、その全部の決算だ。帳簿をつけるなら、借方に十年分の涙。貸方に今日の嬉しさ。
(、帳尻が合った。ようやく)
カタリーナ様なら、きっとそう書くだろう。帳簿の言葉で。一銭の狂いもなく。
「マルタ」
「も、申し訳ございません、奥様、」
「ありがとう」
肩を抱いてくれた。温かかった。
「……十年間、ありがとう」
声にならないことを言った。自分でも何を言ったのか分からない。
(聞こえなくてよかった。聞こえたら、奥様も泣いてしまう)
奥様は泣かない人だ。だから私が泣く。
、今日の涙だけは、全部嬉しさでできている。
◇
、アルブレヒトの沈黙、
娘が笑っている。
十年前にこの門を出た朝、あの子は笑っていなかった。花嫁衣装の下に十八歳の決意を隠して、振り返らなかった。あの時「体に気をつけなさい」しか言えなかった。
今日は笑っている。銀木犀の下で。隣に技師がいて、後ろで孫たちが走り回っていて。
「幸せになりなさい」
短く言った。もっと言いたいことがあった。「お前は十分すぎるほど頑張った」「今度は自分のために笑え」「あの技師は、悪くない男だ。図面の向きで分かった」。
全部、呑み込んだ。
門から三歩。十年前にも三歩だった。今日も三歩。この距離が、私の愛情の形だ。
カタリーナが「はい」と答えた。声は震えなかった。
十年前の朝にも「はい」と言ったはずだ。けれどあの時の「はい」と今日の「はい」は、重さが違う。
今日の「はい」には、選びました、がある。自分で選んだ「はい」だ。
十年前は政略結婚だった。選んだのは私だ。伯爵家と辺境伯家の利害。娘の意思ではなく、家門の都合で嫁がせた。あの朝の「はい」は、従うしかなかった「はい」だ。
今日の「はい」は違う。ダールベルクの婚姻も蹴った。身分も釣り合わない相手を、自分で選んだ。あの技師を、自分の目で見て、自分の手で選んだ。
、それだけで、十分だ。
◇
式の後。庭で茶を飲んだ。
リーゼが庭を走り回っている。マルタが追いかけている。追いつけない。エーリヒが木陰で本を読んでいる。、法律書だ。式の最中にいつ持ってきたのか。
ニコラウスがカタリーナの隣に立っている。半歩後ろではない。隣に。同じ高さで。肩が触れている。
クラウスが私の横に座った。
「、良い式でしたな」
「ああ」
短い会話だった。二人とも言葉の少ない男だ。四十五年の根を持つ男と、五十四年の門を守る男。どちらも、必要な言葉しか使わない。
けれどクラウスが茶を飲み干した時、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
四十五年あの領地にいた男の、安堵の顔だった。
銀木犀の花弁が、風に舞った。あの匂い。
十年前と同じ匂いの中で、十年分の重さが、ようやく降りた。
三人とも、黙って、茶を飲んでいた。言葉の少ない忠臣と、泣き終わった侍女と、門を守り続けた父親。
銀木犀の下で。




