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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
番外編

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第13話 追い風のその先


 堤防の上を、風が渡っている。


 春だった。三度目の春。導流堤の石積みに苔が生えている。薄い緑。三年分の苔。動かない石にしか、苔はつかない。この堤防は動かない。



 六人で歩いている。


 カタリーナ。ニコラウス。エーリヒ。リーゼ。テオ。マルタ。


 三年前は五人だった。あの秋の日、堤防の完成式典の後に──五人で歩いた。カタリーナとニコラウス。エーリヒとリーゼ。マルタ。追い風の中を。


 今日は六人。テオが加わって。


 テオの長靴は、もう新しくない。半年前に買い替えた革の長靴が、足の形に馴染んでいる。かぽかぽと鳴らなくなった。静かな足音。堤防の石をしっかり踏む足音。


「テオ、あの合流点の流速、昨日より下がっているように見えたのですが」


 エーリヒが歩きながら聞いた。十三歳になった長男は、法律書だけでなく治水の基礎も学んでいる。ニコラウスの図面を横から覗き込んで、等高線の読み方を覚えた。法律と治水の二本柱。この子は、母の両方の武器を継ごうとしている。


「下がっていない」


 テオが即答した。十二歳。声が少し低くなった。変声期の入り口にいる。


「水面の光の角度が変わっただけだ。午前と午後では太陽の位置が違うから、同じ流速でも水面の見え方が変わる。流速は昨日の報告書と一致している」


 ──正確だった。


 ニコラウスが図面を広げて「お前の目は、数字を読む目だ」と言った日から二年。あの日輝いていた目は、今は本物の技量を伴っている。等高線を指でなぞるのではなく──頭の中で地形を立ち上げられるようになっている。


「……テオの方が正確だな」


 エーリヒが苦笑した。負けず嫌いの長男が素直に認める相手は、この子だけだ。法律ではエーリヒが勝つ。治水ではテオが勝つ。二人の間にはもう、異母兄弟の緊張はない。


(あの日、教科書を机の真ん中に寄せたエーリヒの手を、思い出す)


 「見えますか」。あのひと言が、ここまで来た。



「おかあさまー、お花つんでいいー?」


 リーゼが走ってきた。十二歳。背が伸びた。髪が長くなった。蜂蜜への執着と花への愛着は、一ミリも変わっていない。


「堤防の上は採らないで。護岸の草は根で土を押さえているの」


「じゃああっちの野原!」


 走り去った。マルタが「走ると、」と言いかけて、諦めた。


(もう追いつけないのね、マルタは)


 リーゼの足は速い。十二歳の足は、侍女の足より速い。三年前にはまだ追いつけた。今は、無理だ。


 マルタが少し後ろを歩いている。六人分の影が堤防の上に伸びているのを、この人はいつも数えている。


「六人」


 小さく呟いているのが聞こえた。数えることが、この人の安心なのだ。十年間、朝五時の背中を数えていた人。今も、人数を数えている。



 ニコラウスが隣を歩いている。


 半歩後ろではない。隣。同じ歩幅で。


 三年前の式の日、初めて「隣」に並んだ。銀木犀の下で。それまではいつも半歩後ろだった。技師として。公式に。一線を越えないように。


 今は、隣。


 手が触れた。指先が。ニコラウスの手は温かかった。いつも温かい。作業場の手。図面を引き、石を触り、堤防を設計する手。朝四時半に椅子を動かす手。蜂蜜を半匙入れる手。


「水位は安定しています」


 ニコラウスが言った。


「導流堤の効果が持続しています。苔が三年分になった」


「来月の合同点検で、公国の局長にも見てもらいましょう」


「ええ」


 何でもない会話。技師と顧問の、いつもの会話。


 けれど「ええ」の声が、三年前より柔らかくなっている。あの硬質な技師の声が、ほんの少しだけ丸みを帯びている。子供たちと暮らして、紅茶に蜂蜜を入れて、朝に椅子を動かして、図面の余白に名前を書いて。そういう日々が、この人の声を少しだけ、変えた。



 堤防の先端に、真鍮の銘板がある。


 条約締結を記念して、両国が設置したもの。


 『クレン河流域治水協力条約記念

  共同設計者:カタリーナ・フォン・リンデン

        ニコラウス・ヴェーバー』


 三年経って、銘板にも苔がついてきた。文字の凹凸に薄い緑が入り込んでいる。まるで石積みの一部のように馴染んでいる。動かない石にしか、苔はつかない。動かない名前にも、苔がつく。


 テオが銘板の前で立ち止まった。


 花冠は、もうかぶっていない。十二歳の少年は、花冠の代わりに、ニコラウスから借りた測量用の手帳をポケットに入れている。あの日蜂蜜草の匂いを嗅いで笑った子が、今は千分の三の勾配を暗算できる子になっている。


「……カタリーナ様」


「何かしら」


「僕の名前も、いつか、どこかに刻まれますか」


 風が吹いた。テオの栗色の髪が揺れた。


 十二歳の問いだった。法的には他人の子。認知されなかった子。父の不作為で姓を失った子。けれどこの子は、三年間、この家で紅茶を飲んだ。蜂蜜半匙の紅茶を。花冠をかぶって堤防を歩いた。図面の等高線を指でなぞった。


 、この子の名前は、もう刻まれている。図面の余白に。蜂蜜の半匙の中に。エーリヒの教科書の隣に。リーゼの花冠の中に。


「刻まれるわよ」


 答えた。


「自分の手で。自分の仕事で」


 テオが、笑った。


 嬉しい時だけ笑う、あの笑い方で。唇の端がほんの少しだけ上がって、目が細くなる。大げさではない。小さい。けれど本物の、嬉しさだけでできた笑顔。


 あの日、蜂蜜草の花冠を受け取った時と、同じ笑い方だった。



 風が吹いた。


 追い風だった。


 背中から吹いて、前に押す風。堤防の石を撫でて、河面を渡って、向こう岸の畑に届く風。蜂蜜草の甘い匂いがかすかに混じっている。春の匂い。


 六人の足音が堤防の上に重なっている。石を踏む音。長靴の音。マルタのスカートの裾が風に鳴る音。リーゼの笑い声。テオの静かな足音。エーリヒの本の頁がはためく音。ニコラウスの外套の裾が揺れる音。


 ニコラウスの手が、私の手を握った。温かかった。


 全員の名前を知っている。全員の名前を呼べる。全員の名前が、どこかに刻まれている。堤防の銘板に。学園の記録に。条約の書面に。図面の余白に。紅茶の蜂蜜の、半匙の中に。


 あの馬車の窓から別邸を見た日、少しの間だけ目を閉じた日、から、何年が経っただろう。


 数えなくなった。


 数える必要がなくなった。マルタが人数を数えてくれている。エーリヒが条文を数えてくれている。ニコラウスが流速を数えてくれている。


 もう、一人で数えなくていい。


 堤防の上を、風が渡っていく。


 追い風だった。


 返したものの重さを、もう量る必要はない。


 手元にあるものが、全てだから。

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