第13話 追い風のその先
堤防の上を、風が渡っている。
春だった。三度目の春。導流堤の石積みに苔が生えている。薄い緑。三年分の苔。動かない石にしか、苔はつかない。この堤防は動かない。
◇
六人で歩いている。
カタリーナ。ニコラウス。エーリヒ。リーゼ。テオ。マルタ。
三年前は五人だった。あの秋の日、堤防の完成式典の後に──五人で歩いた。カタリーナとニコラウス。エーリヒとリーゼ。マルタ。追い風の中を。
今日は六人。テオが加わって。
テオの長靴は、もう新しくない。半年前に買い替えた革の長靴が、足の形に馴染んでいる。かぽかぽと鳴らなくなった。静かな足音。堤防の石をしっかり踏む足音。
「テオ、あの合流点の流速、昨日より下がっているように見えたのですが」
エーリヒが歩きながら聞いた。十三歳になった長男は、法律書だけでなく治水の基礎も学んでいる。ニコラウスの図面を横から覗き込んで、等高線の読み方を覚えた。法律と治水の二本柱。この子は、母の両方の武器を継ごうとしている。
「下がっていない」
テオが即答した。十二歳。声が少し低くなった。変声期の入り口にいる。
「水面の光の角度が変わっただけだ。午前と午後では太陽の位置が違うから、同じ流速でも水面の見え方が変わる。流速は昨日の報告書と一致している」
──正確だった。
ニコラウスが図面を広げて「お前の目は、数字を読む目だ」と言った日から二年。あの日輝いていた目は、今は本物の技量を伴っている。等高線を指でなぞるのではなく──頭の中で地形を立ち上げられるようになっている。
「……テオの方が正確だな」
エーリヒが苦笑した。負けず嫌いの長男が素直に認める相手は、この子だけだ。法律ではエーリヒが勝つ。治水ではテオが勝つ。二人の間にはもう、異母兄弟の緊張はない。
(あの日、教科書を机の真ん中に寄せたエーリヒの手を、思い出す)
「見えますか」。あのひと言が、ここまで来た。
◇
「おかあさまー、お花つんでいいー?」
リーゼが走ってきた。十二歳。背が伸びた。髪が長くなった。蜂蜜への執着と花への愛着は、一ミリも変わっていない。
「堤防の上は採らないで。護岸の草は根で土を押さえているの」
「じゃああっちの野原!」
走り去った。マルタが「走ると、」と言いかけて、諦めた。
(もう追いつけないのね、マルタは)
リーゼの足は速い。十二歳の足は、侍女の足より速い。三年前にはまだ追いつけた。今は、無理だ。
マルタが少し後ろを歩いている。六人分の影が堤防の上に伸びているのを、この人はいつも数えている。
「六人」
小さく呟いているのが聞こえた。数えることが、この人の安心なのだ。十年間、朝五時の背中を数えていた人。今も、人数を数えている。
◇
ニコラウスが隣を歩いている。
半歩後ろではない。隣。同じ歩幅で。
三年前の式の日、初めて「隣」に並んだ。銀木犀の下で。それまではいつも半歩後ろだった。技師として。公式に。一線を越えないように。
今は、隣。
手が触れた。指先が。ニコラウスの手は温かかった。いつも温かい。作業場の手。図面を引き、石を触り、堤防を設計する手。朝四時半に椅子を動かす手。蜂蜜を半匙入れる手。
「水位は安定しています」
ニコラウスが言った。
「導流堤の効果が持続しています。苔が三年分になった」
「来月の合同点検で、公国の局長にも見てもらいましょう」
「ええ」
何でもない会話。技師と顧問の、いつもの会話。
けれど「ええ」の声が、三年前より柔らかくなっている。あの硬質な技師の声が、ほんの少しだけ丸みを帯びている。子供たちと暮らして、紅茶に蜂蜜を入れて、朝に椅子を動かして、図面の余白に名前を書いて。そういう日々が、この人の声を少しだけ、変えた。
◇
堤防の先端に、真鍮の銘板がある。
条約締結を記念して、両国が設置したもの。
『クレン河流域治水協力条約記念
共同設計者:カタリーナ・フォン・リンデン
ニコラウス・ヴェーバー』
三年経って、銘板にも苔がついてきた。文字の凹凸に薄い緑が入り込んでいる。まるで石積みの一部のように馴染んでいる。動かない石にしか、苔はつかない。動かない名前にも、苔がつく。
テオが銘板の前で立ち止まった。
花冠は、もうかぶっていない。十二歳の少年は、花冠の代わりに、ニコラウスから借りた測量用の手帳をポケットに入れている。あの日蜂蜜草の匂いを嗅いで笑った子が、今は千分の三の勾配を暗算できる子になっている。
「……カタリーナ様」
「何かしら」
「僕の名前も、いつか、どこかに刻まれますか」
風が吹いた。テオの栗色の髪が揺れた。
十二歳の問いだった。法的には他人の子。認知されなかった子。父の不作為で姓を失った子。けれどこの子は、三年間、この家で紅茶を飲んだ。蜂蜜半匙の紅茶を。花冠をかぶって堤防を歩いた。図面の等高線を指でなぞった。
、この子の名前は、もう刻まれている。図面の余白に。蜂蜜の半匙の中に。エーリヒの教科書の隣に。リーゼの花冠の中に。
「刻まれるわよ」
答えた。
「自分の手で。自分の仕事で」
テオが、笑った。
嬉しい時だけ笑う、あの笑い方で。唇の端がほんの少しだけ上がって、目が細くなる。大げさではない。小さい。けれど本物の、嬉しさだけでできた笑顔。
あの日、蜂蜜草の花冠を受け取った時と、同じ笑い方だった。
◇
風が吹いた。
追い風だった。
背中から吹いて、前に押す風。堤防の石を撫でて、河面を渡って、向こう岸の畑に届く風。蜂蜜草の甘い匂いがかすかに混じっている。春の匂い。
六人の足音が堤防の上に重なっている。石を踏む音。長靴の音。マルタのスカートの裾が風に鳴る音。リーゼの笑い声。テオの静かな足音。エーリヒの本の頁がはためく音。ニコラウスの外套の裾が揺れる音。
ニコラウスの手が、私の手を握った。温かかった。
全員の名前を知っている。全員の名前を呼べる。全員の名前が、どこかに刻まれている。堤防の銘板に。学園の記録に。条約の書面に。図面の余白に。紅茶の蜂蜜の、半匙の中に。
あの馬車の窓から別邸を見た日、少しの間だけ目を閉じた日、から、何年が経っただろう。
数えなくなった。
数える必要がなくなった。マルタが人数を数えてくれている。エーリヒが条文を数えてくれている。ニコラウスが流速を数えてくれている。
もう、一人で数えなくていい。
堤防の上を、風が渡っていく。
追い風だった。
返したものの重さを、もう量る必要はない。
手元にあるものが、全てだから。




