第8話 蜂蜜の匂い
あたしはリーゼ。九さい。
すきなものは蜂蜜と、お花と、おかあさまと、ニコラウス。きらいなものは、おとうさまの「おとなしくしなさい」と、蜂蜜が足りないパンと、おかあさまの嘘の微笑み。
◇
むかしのおうちには、おとうさまがいた。
でもおとうさまはあんまりいなくて、いるときは「リーゼ、おとなしくしなさい」ってゆった。おとうさまのこえはすこしこわかった。よゆうがあるのに、つめたい声。笑っているのに、目がわらっていない声。
おかあさまは「父上はお仕事で忙しいのよ」っていつも言った。忙しいって何だろうと思っていた。忙しいってことは、あたしよりだいじなことがあるってこと?
──大きくなってから分かった。忙しいんじゃなかった。いなかったんだ。べつの場所に。べつの人と。
でもそれは、もうちょっと先の話。
◇
ニコラウスがきたのは、おじいさまのおうちに来てから、すこしたってからだった。
おおきい人だった。せがたかくて、手がおおきくて、かみの毛が黒くてくせがある。服がちょっとよれてる。おとうさまはいつもぴしっとした服を着ていたから、ニコラウスの服はなんだかほっとした。
ニコラウスの声は、ひくい。こわくはない。花のなまえをおしえてくれた。
「リーゼ嬢。それは何の花ですか」
「わかんない。でもきれい!」
「アカツメクサですね。蜜が甘い花です」
「えー! なめていいの?」
「……それは、お母上に聞いてください」
こまった顔がおもしろかった。おとうさまはこまった顔をしなかった。いつもよゆうの顔だった。ニコラウスはよくこまる。あたしがはなしかけると、首のうしろまで赤くなる。
(なんで赤くなるんだろう。あたしなにか変なこと言った?)
あたしはニコラウスの手をつかんだ。
「先生の手、大きいね。父上の手より大きい」
ニコラウスの首のうしろが赤くなった。もっと赤くなった。
大きい手だった。ごつごつして、日にやけてて。指の節がふとい。爪のよこに泥がすこし入っている。おとうさまの手はきれいだった。白くてつるつるで。でもニコラウスの手は、あったかかった。
つめたい手よりも、あったかい手のほうがいい。あたりまえでしょ。
◇
ある朝、おかあさまがないていた。
──ないてなかった。おかあさまはなかない。でも目がちょっとだけ赤かった。
「おかあさま、だいじょうぶ?」
「なんでもないわ、リーゼ」
微笑んだ。おしごとの顔。領民の前でうかべるあの顔。
(ほんとうは、なんでもなくない)
あたしは九さいだけど、おかあさまの「なんでもない」がほんとうじゃないのは、わかる。
おかあさまには二つの顔がある。おしごとの微笑みと、ほんとうの笑顔。おしごとの微笑みは、くちびるだけがうごく。目はうごかない。きれいだけど、つめたい。銀食器みたい──っておもったけど、銀食器ってなんだろう。マルタが前に言っていた。
ほんとうの笑顔は、目がやわらかくなって、くちびるが自然にうごいて、ほっぺがすこしだけ赤くなる。あの顔は、
ニコラウスがいるときだけ。
◇
けっこんしきの日。
銀木犀のしたで、おかあさまとニコラウスがならんでた。あまいにおいがした。蜂蜜草みたいな、やわらかいにおい。
おかあさまが笑っていた。ほんとうの笑顔で。
「ニコラウスがおとうさまになった!」
あたしは叫んだ。おにわに声がひびいた。鳥がとんだ。おじいさまが咳払いした。
「リーゼ、もう少し小さい声で、」
「だっておとうさまでしょ!」
だって、おとうさまでしょ。
花のなまえをおしえてくれて。頭の葉っぱをとってくれて。朝ごはんに蜂蜜をたしてくれて。こまった顔をして。みみが赤くなって。それでもにげないで、そばにいてくれる人。
それは、おとうさまでしょ。
むかしのおとうさまは「おとなしくしなさい」って言った。ニコラウスは「それは何の花ですか」って聞いてくれた。
「おとなしくしなさい」より「何の花ですか」のほうが、ずっとうれしい。
ニコラウスがひざをついた。あたしとおなじ目のたかさになった。おおきい人がちいさくなる。あたしに合わせて。
「……よろしくお願いします」
こえがかすれてた。ニコラウスはなくのがへたくそだ。なきそうな顔をしても、なかない。おかあさまとおなじ。
「よろしくー!」
走った。だって嬉しかったから。嬉しいときは走るのがいちばんいい。マルタが「走ると転びますよ!」って追いかけてきたけど、あたしのほうが速い。
◇
テオがきた日。
花冠をつくった。水仙と蜂蜜草で。ぶかっこう。花のむきがそろってない。くきが一本とびでてる。でも蜂蜜草のいいにおいがした。あたしのすきなにおい。
「テオのぶんもつくったー!」
テオは、ゆっくり手をのばした。花冠をうけとって、両手でもって、みつめた。蜂蜜草のにおいをかいだのだとおもう。鼻がちょっとだけうごいた。
テオが笑った。
ちいさな笑い。くちびるの端がほんのすこしだけあがって、目がほそくなる。おおげさじゃない。ちいさい。でもほんもの。
(ほんものの笑いだ)
あたしは九さいだけど、ほんものの笑いとそうじゃない笑いのちがいは、わかる。
おかあさまのおしごとの微笑みと、ほんとうの笑顔のちがいを、ずっと見てきたから。
テオの笑いは、ほんもの。嬉しいときだけ笑う子。蜂蜜草のにおいで笑う子。
、あたしのすきなにおいで、笑ってくれた。
それだけで、この子はいい子だとおもった。
蜂蜜の匂いがした。あたしのすきな匂い。
◇
よるになった。ベッドに入った。
おかあさまが髪をすいてくれた。やさしい手。ニコラウスの手とは違う。おかあさまの手はほそくて、インクのあとがついていて、でもやさしい。
「おかあさま」
「なあに、リーゼ」
「ニコラウスは、おかあさまのことすきだよね」
おかあさまの手が、とまった。髪をすく手が、一瞬だけ。
「……どうしてそう思うの?」
「だって、ニコラウスはおかあさまがいるとき、首のうしろが赤くなるもん」
おかあさまがすこしだけ笑った。ほんとうの笑顔。目がやわらかくなる笑顔。
「……そうね」
「あたしのことも、すき?」
「ええ。、きっと」
「きっとじゃなくて、ぜったい!」
おかあさまがまた笑った。
「そうね。ぜったいね」
、あたしは九さいだけど、わかることがある。
ほんものの笑顔と、おしごとの微笑みの違い。あったかい手と、つめたい手の違い。「おとなしくしなさい」と「何の花ですか」の違い。
むずかしいことは、エーリヒが法律の本で調べればいい。
あたしは、笑顔のほんものとにせものを、見分けるだけでいい。
蜂蜜草のにおいがまだ、まくらについていた。




