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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
番外編

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第8話 蜂蜜の匂い


 あたしはリーゼ。九さい。


 すきなものは蜂蜜と、お花と、おかあさまと、ニコラウス。きらいなものは、おとうさまの「おとなしくしなさい」と、蜂蜜が足りないパンと、おかあさまの嘘の微笑み。



 むかしのおうちには、おとうさまがいた。


 でもおとうさまはあんまりいなくて、いるときは「リーゼ、おとなしくしなさい」ってゆった。おとうさまのこえはすこしこわかった。よゆうがあるのに、つめたい声。笑っているのに、目がわらっていない声。


 おかあさまは「父上はお仕事で忙しいのよ」っていつも言った。忙しいって何だろうと思っていた。忙しいってことは、あたしよりだいじなことがあるってこと?


 ──大きくなってから分かった。忙しいんじゃなかった。いなかったんだ。べつの場所に。べつの人と。


 でもそれは、もうちょっと先の話。



 ニコラウスがきたのは、おじいさまのおうちに来てから、すこしたってからだった。


 おおきい人だった。せがたかくて、手がおおきくて、かみの毛が黒くてくせがある。服がちょっとよれてる。おとうさまはいつもぴしっとした服を着ていたから、ニコラウスの服はなんだかほっとした。


 ニコラウスの声は、ひくい。こわくはない。花のなまえをおしえてくれた。


「リーゼ嬢。それは何の花ですか」


「わかんない。でもきれい!」


「アカツメクサですね。蜜が甘い花です」


「えー! なめていいの?」


「……それは、お母上に聞いてください」


 こまった顔がおもしろかった。おとうさまはこまった顔をしなかった。いつもよゆうの顔だった。ニコラウスはよくこまる。あたしがはなしかけると、首のうしろまで赤くなる。


(なんで赤くなるんだろう。あたしなにか変なこと言った?)


 あたしはニコラウスの手をつかんだ。


「先生の手、大きいね。父上の手より大きい」


 ニコラウスの首のうしろが赤くなった。もっと赤くなった。


 大きい手だった。ごつごつして、日にやけてて。指の節がふとい。爪のよこに泥がすこし入っている。おとうさまの手はきれいだった。白くてつるつるで。でもニコラウスの手は、あったかかった。


 つめたい手よりも、あったかい手のほうがいい。あたりまえでしょ。



 ある朝、おかあさまがないていた。


 ──ないてなかった。おかあさまはなかない。でも目がちょっとだけ赤かった。


「おかあさま、だいじょうぶ?」


「なんでもないわ、リーゼ」


 微笑んだ。おしごとの顔。領民の前でうかべるあの顔。


(ほんとうは、なんでもなくない)


 あたしは九さいだけど、おかあさまの「なんでもない」がほんとうじゃないのは、わかる。


 おかあさまには二つの顔がある。おしごとの微笑みと、ほんとうの笑顔。おしごとの微笑みは、くちびるだけがうごく。目はうごかない。きれいだけど、つめたい。銀食器みたい──っておもったけど、銀食器ってなんだろう。マルタが前に言っていた。


 ほんとうの笑顔は、目がやわらかくなって、くちびるが自然にうごいて、ほっぺがすこしだけ赤くなる。あの顔は、


 ニコラウスがいるときだけ。



 けっこんしきの日。


 銀木犀のしたで、おかあさまとニコラウスがならんでた。あまいにおいがした。蜂蜜草みたいな、やわらかいにおい。


 おかあさまが笑っていた。ほんとうの笑顔で。


「ニコラウスがおとうさまになった!」


 あたしは叫んだ。おにわに声がひびいた。鳥がとんだ。おじいさまが咳払いした。


「リーゼ、もう少し小さい声で、」


「だっておとうさまでしょ!」


 だって、おとうさまでしょ。


 花のなまえをおしえてくれて。頭の葉っぱをとってくれて。朝ごはんに蜂蜜をたしてくれて。こまった顔をして。みみが赤くなって。それでもにげないで、そばにいてくれる人。


 それは、おとうさまでしょ。


 むかしのおとうさまは「おとなしくしなさい」って言った。ニコラウスは「それは何の花ですか」って聞いてくれた。


 「おとなしくしなさい」より「何の花ですか」のほうが、ずっとうれしい。


 ニコラウスがひざをついた。あたしとおなじ目のたかさになった。おおきい人がちいさくなる。あたしに合わせて。


「……よろしくお願いします」


 こえがかすれてた。ニコラウスはなくのがへたくそだ。なきそうな顔をしても、なかない。おかあさまとおなじ。


「よろしくー!」


 走った。だって嬉しかったから。嬉しいときは走るのがいちばんいい。マルタが「走ると転びますよ!」って追いかけてきたけど、あたしのほうが速い。



 テオがきた日。


 花冠をつくった。水仙と蜂蜜草で。ぶかっこう。花のむきがそろってない。くきが一本とびでてる。でも蜂蜜草のいいにおいがした。あたしのすきなにおい。


「テオのぶんもつくったー!」


 テオは、ゆっくり手をのばした。花冠をうけとって、両手でもって、みつめた。蜂蜜草のにおいをかいだのだとおもう。鼻がちょっとだけうごいた。


 テオが笑った。


 ちいさな笑い。くちびるの端がほんのすこしだけあがって、目がほそくなる。おおげさじゃない。ちいさい。でもほんもの。


(ほんものの笑いだ)


 あたしは九さいだけど、ほんものの笑いとそうじゃない笑いのちがいは、わかる。


 おかあさまのおしごとの微笑みと、ほんとうの笑顔のちがいを、ずっと見てきたから。


 テオの笑いは、ほんもの。嬉しいときだけ笑う子。蜂蜜草のにおいで笑う子。


 、あたしのすきなにおいで、笑ってくれた。


 それだけで、この子はいい子だとおもった。


 蜂蜜の匂いがした。あたしのすきな匂い。



 よるになった。ベッドに入った。


 おかあさまが髪をすいてくれた。やさしい手。ニコラウスの手とは違う。おかあさまの手はほそくて、インクのあとがついていて、でもやさしい。


「おかあさま」


「なあに、リーゼ」


「ニコラウスは、おかあさまのことすきだよね」


 おかあさまの手が、とまった。髪をすく手が、一瞬だけ。


「……どうしてそう思うの?」


「だって、ニコラウスはおかあさまがいるとき、首のうしろが赤くなるもん」


 おかあさまがすこしだけ笑った。ほんとうの笑顔。目がやわらかくなる笑顔。


「……そうね」


「あたしのことも、すき?」


「ええ。、きっと」


「きっとじゃなくて、ぜったい!」


 おかあさまがまた笑った。


「そうね。ぜったいね」


 、あたしは九さいだけど、わかることがある。


 ほんものの笑顔と、おしごとの微笑みの違い。あったかい手と、つめたい手の違い。「おとなしくしなさい」と「何の花ですか」の違い。


 むずかしいことは、エーリヒが法律の本で調べればいい。


 あたしは、笑顔のほんものとにせものを、見分けるだけでいい。


 蜂蜜草のにおいがまだ、まくらについていた。

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