表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
番外編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/63

第7話 エーリヒの本棚


 僕の本棚には、法律書が並んでいる。


 王国貴族法概論。王国学制要覧。庶子認知に関する判例集。河川法の逐条解説。管理者の功績認定に関する先例集。背表紙が日に焼けて、角が丸くなっている本もある。何十回も開いたからだ。


 全部に付箋が貼ってある。


 最初の一枚は、ヴェーバー先生──今はニコラウスと呼ぶ──が貼ったものだ。野帳の切れ端。端が少し汚れている。現場のメモ帳を破って書いたのだろう。


「この条文は領地経営の法的根拠として参照できる。特に第三節の『管理者の功績認定』に注目のこと」


 あの付箋から全部始まった。



 九つの時。応接室で父に言った。


「母上が堤防を直していた時、どこにいらしたのですか」


 言ってしまってから、胸が痛かった。正しかったのかどうか分からない。正しいとか正しくないとかではなく──言わずにいられなかった。体の中から勝手に出てきた言葉だった。


 毎朝五時。窓から母の背中を見ていた。


 まだ暗い。空が紺色で、東の端だけが少しだけ明るくなっている。その薄明かりの中を、母が長靴を履いて出ていく。小さな背中。華奢なのに、曲がらない背中。


 帰ってきたら泥だらけの長靴を玄関で脱いで、子供たちに「おはよう」と微笑む。泥の匂いがする。河の匂いがする。冷たい朝の匂いがする。それが、母の匂いだった。


 九年間。毎朝。窓から見ていた。


 父はいなかった。いないことが普通だった。普通だったから、おかしいとは思わなかった。


 、普通が、普通じゃなかったのだと気づいたのは、母が引き継ぎ資料を書き始めてからだ。毎晩、書斎の灯りが消えなくなった。蝋燭の蝋が机の上に溜まっていくのを、朝の掃除の時に見た。三ヶ月間。


 三百二十四頁。


 僕はあの数字を数えていた。母が資料を重ねるたびに、頁が増えていくのを。数えることしかできなかった。九つの僕には。



 法律書を読み始めたのは、感情では何も変わらないと思ったからだ。


 父に「どこにいたのですか」と聞いても、答えは返ってこなかった。父は何も言わず、応接室を出ていった。足音が遠ざかった。玄関の扉が閉まった。馬車が動いた。


 それだけだった。


 怒っても泣いても、堤防は壊れたままだ。母の十年間は返ってこない。父の不在は取り消せない。


 けれど制度なら、変えられるかもしれない。


 条文の中に答えがある。誰の功績が誰に帰属するか。認知の手続き。入学の資格。爵位剥奪の要件。全部、文字で書いてある。


 文字で書いてあるものは、嘘をつかない。


 母が帳簿でそう教えてくれた。数字は裏切らない。条文も裏切らない。帳簿の数字と法律の条文は、同じものだ。正確で、嘘がなく、感情に左右されない。


 本棚に最初の法律書を並べた日から、僕の武器は法律になった。



 テオの教科書を机の真ん中に寄せた日。


 迷った。正直に言えば。


 あの子は父の息子だ。父と、あの女性の。母が十年間一人で堤防を直していた間、父が王都で暮らしていた、あの家の子。


 憎むべきなのかもしれない。


(、でも、あの子が何をした?)


 何もしていない。生まれただけだ。父と母を選べなかっただけだ。僕だって選べなかった。誰も、親を選べない。


 教室で、テオが教科書を探しているのが分かった。鞄の中を何度も探って、顔が青くなっていくのが見えた。忘れたのだ。


 、僕なら、教科書を忘れた日に隣の席が「異母弟」だったら、どう思うか。


 地獄だと思う。


 教科書を机の真ん中に寄せた。


「見えますか」


 テオがほんの一瞬、目を見開いた。驚きと、警戒と、少しだけ安堵が混じった目。それから小さく頷いた。


 あの頷きが、妙に胸に残った。



 ある日、廊下の窓際で。夕日が石畳を赤く染めている時間。


「怒ってないの」


 テオが聞いた。声が小さかった。けれど逃げない目だった。怖がりながら、正面から聞いてくる目。


「何に」


「僕が、いることに」


 沈黙。窓の外で学園の鐘が鳴った。


「君は何も悪くない」


 言った。声が硬くなった。自分でも分かった。感情を制御しようとすると、声が硬くなる。母に似ている。帳簿をつける時の母の声に。


「問題は制度だ。手続きをしなかった人間がいて、制度がそれを許した。君に罪はない」


 、怒りがないわけではない。ある。あるけれど。


「怒る相手を間違えたくない」


 テオが、黙った。


 しばらく、二人とも黙っていた。夕日が窓から差し込んで、廊下に二つの影が伸びていた。



 ニコラウスの名前で保証人欄を書いた日。三日かけて考えた。法律書では出てこない答えを。


 母上は「あなたが決めていい」と言ってくれた。ニコラウスは「押しつけるつもりはない」と言った。二人とも、僕に決定権を預けた。


 おじいさまの名前にしなかったのは、おじいさまが嫌だからではない。ニコラウスの名前にしたかったからだ。


「先生は、母上の仕事を名前で呼んでくれた人です。僕の入学書類にも、先生の名前があっていいと思いました」


 ニコラウスが口を開いて、閉じた。また開いて、声にならなかった。


 


(……不器用な人だ。けれどだから信じられる)


 不器用で、言葉が少なくて、嘘が体に出る人。そういう人は嘘をつかない。銀食器みたいに光る笑顔を、持っていないから。



 本棚を見る。


 付箋だらけの法律書。ニコラウスの一枚から始まって、今は何十枚にもなっている。


 僕の手で貼った付箋。僕の字で書いたメモ。条文の引用。判例の要約。テオの認知に関する条項。管理者の功績認定。入学資格の要件。


 、母上のような人が、正当に評価される世の中にしたい。


 あの日、さらりと言った言葉が、今も本棚の背骨になっている。


 法律を学ぶ。条文を読む。制度を知る。


 感情では何も変わらない。でも、法は、変えられる。


 本棚の一番端に、まだ付箋を貼っていない本が一冊ある。昨日、おじいさまの書庫から借りてきた。


 『国際条約と国内法の接続に関する論考』。


 母上が署名した条約、あの条約が、国内の法制度にどう影響するのか。治水の専門家が国家間で認められた先例が、他の分野にも適用できるのか。


 付箋を貼る場所を探している。ニコラウスの一枚目から始まった道は、まだ、続いている。


 テオの窓から見える星と、僕の本棚に並ぶ背表紙は、同じ夜空の下にある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ