第7話 エーリヒの本棚
僕の本棚には、法律書が並んでいる。
王国貴族法概論。王国学制要覧。庶子認知に関する判例集。河川法の逐条解説。管理者の功績認定に関する先例集。背表紙が日に焼けて、角が丸くなっている本もある。何十回も開いたからだ。
全部に付箋が貼ってある。
最初の一枚は、ヴェーバー先生──今はニコラウスと呼ぶ──が貼ったものだ。野帳の切れ端。端が少し汚れている。現場のメモ帳を破って書いたのだろう。
「この条文は領地経営の法的根拠として参照できる。特に第三節の『管理者の功績認定』に注目のこと」
あの付箋から全部始まった。
◇
九つの時。応接室で父に言った。
「母上が堤防を直していた時、どこにいらしたのですか」
言ってしまってから、胸が痛かった。正しかったのかどうか分からない。正しいとか正しくないとかではなく──言わずにいられなかった。体の中から勝手に出てきた言葉だった。
毎朝五時。窓から母の背中を見ていた。
まだ暗い。空が紺色で、東の端だけが少しだけ明るくなっている。その薄明かりの中を、母が長靴を履いて出ていく。小さな背中。華奢なのに、曲がらない背中。
帰ってきたら泥だらけの長靴を玄関で脱いで、子供たちに「おはよう」と微笑む。泥の匂いがする。河の匂いがする。冷たい朝の匂いがする。それが、母の匂いだった。
九年間。毎朝。窓から見ていた。
父はいなかった。いないことが普通だった。普通だったから、おかしいとは思わなかった。
、普通が、普通じゃなかったのだと気づいたのは、母が引き継ぎ資料を書き始めてからだ。毎晩、書斎の灯りが消えなくなった。蝋燭の蝋が机の上に溜まっていくのを、朝の掃除の時に見た。三ヶ月間。
三百二十四頁。
僕はあの数字を数えていた。母が資料を重ねるたびに、頁が増えていくのを。数えることしかできなかった。九つの僕には。
◇
法律書を読み始めたのは、感情では何も変わらないと思ったからだ。
父に「どこにいたのですか」と聞いても、答えは返ってこなかった。父は何も言わず、応接室を出ていった。足音が遠ざかった。玄関の扉が閉まった。馬車が動いた。
それだけだった。
怒っても泣いても、堤防は壊れたままだ。母の十年間は返ってこない。父の不在は取り消せない。
けれど制度なら、変えられるかもしれない。
条文の中に答えがある。誰の功績が誰に帰属するか。認知の手続き。入学の資格。爵位剥奪の要件。全部、文字で書いてある。
文字で書いてあるものは、嘘をつかない。
母が帳簿でそう教えてくれた。数字は裏切らない。条文も裏切らない。帳簿の数字と法律の条文は、同じものだ。正確で、嘘がなく、感情に左右されない。
本棚に最初の法律書を並べた日から、僕の武器は法律になった。
◇
テオの教科書を机の真ん中に寄せた日。
迷った。正直に言えば。
あの子は父の息子だ。父と、あの女性の。母が十年間一人で堤防を直していた間、父が王都で暮らしていた、あの家の子。
憎むべきなのかもしれない。
(、でも、あの子が何をした?)
何もしていない。生まれただけだ。父と母を選べなかっただけだ。僕だって選べなかった。誰も、親を選べない。
教室で、テオが教科書を探しているのが分かった。鞄の中を何度も探って、顔が青くなっていくのが見えた。忘れたのだ。
、僕なら、教科書を忘れた日に隣の席が「異母弟」だったら、どう思うか。
地獄だと思う。
教科書を机の真ん中に寄せた。
「見えますか」
テオがほんの一瞬、目を見開いた。驚きと、警戒と、少しだけ安堵が混じった目。それから小さく頷いた。
あの頷きが、妙に胸に残った。
◇
ある日、廊下の窓際で。夕日が石畳を赤く染めている時間。
「怒ってないの」
テオが聞いた。声が小さかった。けれど逃げない目だった。怖がりながら、正面から聞いてくる目。
「何に」
「僕が、いることに」
沈黙。窓の外で学園の鐘が鳴った。
「君は何も悪くない」
言った。声が硬くなった。自分でも分かった。感情を制御しようとすると、声が硬くなる。母に似ている。帳簿をつける時の母の声に。
「問題は制度だ。手続きをしなかった人間がいて、制度がそれを許した。君に罪はない」
、怒りがないわけではない。ある。あるけれど。
「怒る相手を間違えたくない」
テオが、黙った。
しばらく、二人とも黙っていた。夕日が窓から差し込んで、廊下に二つの影が伸びていた。
◇
ニコラウスの名前で保証人欄を書いた日。三日かけて考えた。法律書では出てこない答えを。
母上は「あなたが決めていい」と言ってくれた。ニコラウスは「押しつけるつもりはない」と言った。二人とも、僕に決定権を預けた。
おじいさまの名前にしなかったのは、おじいさまが嫌だからではない。ニコラウスの名前にしたかったからだ。
「先生は、母上の仕事を名前で呼んでくれた人です。僕の入学書類にも、先生の名前があっていいと思いました」
ニコラウスが口を開いて、閉じた。また開いて、声にならなかった。
(……不器用な人だ。けれどだから信じられる)
不器用で、言葉が少なくて、嘘が体に出る人。そういう人は嘘をつかない。銀食器みたいに光る笑顔を、持っていないから。
◇
本棚を見る。
付箋だらけの法律書。ニコラウスの一枚から始まって、今は何十枚にもなっている。
僕の手で貼った付箋。僕の字で書いたメモ。条文の引用。判例の要約。テオの認知に関する条項。管理者の功績認定。入学資格の要件。
、母上のような人が、正当に評価される世の中にしたい。
あの日、さらりと言った言葉が、今も本棚の背骨になっている。
法律を学ぶ。条文を読む。制度を知る。
感情では何も変わらない。でも、法は、変えられる。
本棚の一番端に、まだ付箋を貼っていない本が一冊ある。昨日、おじいさまの書庫から借りてきた。
『国際条約と国内法の接続に関する論考』。
母上が署名した条約、あの条約が、国内の法制度にどう影響するのか。治水の専門家が国家間で認められた先例が、他の分野にも適用できるのか。
付箋を貼る場所を探している。ニコラウスの一枚目から始まった道は、まだ、続いている。
テオの窓から見える星と、僕の本棚に並ぶ背表紙は、同じ夜空の下にある。




