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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第5章

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第7話 もう一つの帳簿


ダールベルク伯爵の書簡は、封蝋が重かった。


赤い蝋にダールベルク家の紋章がくっきりと押してある。安い紙に封蝋なしで届いたルートヴィヒの書簡とは、何もかもが違う。紙も厚い。インクも濃い。──権力の匂いがする手紙だ。


封を切った。


『カタリーナ・フォン・リンデン殿


旧辺境伯領の件で、一つお伝えすることがあります。


私は先日、独自の判断で旧辺境伯領を視察しました。あなたに頼まれたからではありません。私自身の目で確かめたいことがあったからです。


筆頭家臣クラウス殿から、農地の売買記録について説明を受けました。詳細はここには書きません。書簡で書くべき内容ではない。


一つだけ申し上げます。


新しい前例を作るべき時が、また来たようです。


ヘルマン・フォン・ダールベルク』


手紙を読み終えた。


もう一度、読んだ。


「私は自分の判断で動いています。あなたに頼まれたからではありません」


──この一行が、全てだった。


あの男は変わった。かつてカタリーナの能力を「資源」と呼び、婚姻同盟で利用しようとした男が。「人間として認めさせていただく」と一礼した日から、この男は少しずつ、違う場所に立ち始めていた。


そしてこの手紙は、頼まれたからではなく、自分の信念で書かれている。


(──味方が、増えた)


書簡を机に置いた。同じ日の朝に届いたもう一通の手紙──貴族院からの通知書を、もう一度確認した。


『法制委員会における改正案の再審議は、十一月十四日に決定。提案者の出席を求める。』


一ヶ月後。



作業場の扉を開けると、ニコラウスが巡回から戻ったところだった。


外套に秋雨の匂いが残っている。髪の先から水滴が一つ、図面の端に落ちた。ニコラウスはそれを指で拭い、何事もなかったように椅子に座った。


「巡回の報告を」


「クレン河下流域、異常なし。水位は例年並み。堤防の接合部に微細な亀裂がありましたが、冬季補修で対応可能です」


いつもの報告。いつもの声。低く、簡潔で、数字に裏打ちされた声。


「──それと」


ニコラウスが外套のポケットから紙を一枚出した。


「巡回中に、ダールベルク伯爵の馬車とすれ違いました。旧辺境伯領の方角から戻る途中のようでした」


「ダールベルクから書簡が届いています」


私はダールベルクの手紙を差し出した。ニコラウスが受け取り、読んだ。読み終えると、手紙をそっと机に戻した。


「自発的に動いている」


「ええ。頼んでいません」


「……強い」


ニコラウスの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。感嘆ではない。信頼だ。この人は、自分の意志で動く人間を信じる。


「審議は一ヶ月後です。十一月十四日」


「準備は」


「改正案は仕上がっています。先例の資料もエーリヒが整えてくれました。条約の論理構造はあなたの図式がある。ルートヴィヒの血縁情報も揃っている」


「農地の記録は」


「──まだ、使わない」


ニコラウスが頷いた。


「使い方が決まっていない武器を持ち込むべきではない。それは同意します」


沈黙が落ちた。


作業場の窓から、秋雨の音が細く聞こえていた。ニコラウスの外套がまだ濡れている。着替えればいいのに、と思ったが、この人は仕事が終わるまで着替えない。巡回の報告を済ませるまでは、巡回の格好のままでいる。技師の矜持だ。


「カタリーナ」


「はい」


「一ヶ月あります。もう一度、条文の論理構造を精査しましょう。ブルクハルトの反論を全て想定して、一つずつ潰す」


「……ええ」


ニコラウスが図面を広げた。条約の論理構造図。あの矢印と枠の図。


私も椅子を引いて座った。二人の間に図面がある。ニコラウスの指が条文の枠を追い、私の指がその隣に数字を書き込む。


──その時だった。


ニコラウスの手が、動いた。


図面の上を滑った手が、私の手のそばで──止まった。


指先が、私の小指に触れそうになっていた。一センチもない隙間。紙一枚分の距離。


ニコラウスの手が、引かれた。


図面の反対側に。まるで何もなかったように。


「……第七条の適用条件を、もう一度確認します」


声は平静だった。図面に目を落としている。


私は気づいていた。


気づいていて、何も言わなかった。


(──この人は、審議の前だから)


仕事の途中に感情を持ち込まない。計算式のない行動を、段取りが済む前にはしない。この人はそういう人だ。堤防の設計が終わる前に石を積まない。審議に勝つ前に──


──前に、何を。


(……何を考えているの、私は)


図面に目を戻した。ニコラウスの手は、もう図面の向こう側にあった。遠い。さっきまで一センチだった距離が、図面一枚分になっている。


けれど、指先に残っている。触れなかった温度が。紙一枚分の、触れなかった熱が。


「第七条の『住民』の定義から始めましょう」


「……ええ。始めましょう」


秋雨が、窓を叩いていた。



旧辺境伯領の丘は、雨上がりの匂いがした。


ヘルマン・フォン・ダールベルク伯爵は、馬車を降りて丘の上に立っていた。供は御者だけ。伯爵が一人で辺境を視察するのは異例だが、今日は公務ではない。


眼下に、旧辺境伯領が広がっている。


新しい堤防が河に沿って伸びている。銘板が嵌め込まれているはずだが、ここからでは読めない。読めなくていい。誰の名前が刻まれているかは、知っている。


視線を南東に向けた。


五つの区画が見える。休耕地だったはずの農地。今は──誰かが耕している。堤防が完成し、水害の心配がなくなったから、領民が戻り始めたのだろう。


あの五区画を、相場の三割以下で買い叩いた男がいる。


クラウスの説明は簡潔だった。日付。金額。買主名義。帳簿の数字は正確で、整合していて、嘘をつかなかった。


「ブルクハルト」


ダールベルクは、その名前を声に出した。風が運び去った。


法制委員会の委員長。「前例がない」を武器にする男。あの男が旧辺境伯領の農地を買い叩いていた事実は、ダールベルクの中で一つの像を結んでいた。


──あの男が庶子認知の制度改革を阻んでいるのは、「法の安定性」のためではない。旧辺境伯領に関わる全ての法的変更を止めたいのだ。制度が動けば、過去の取引に目が向く。帳簿が開かれる。数字が語り始める。


それが怖いのだ。


丘の上から、もう一つ見えるものがあった。


堤防の脇に、小さな花壇。花は秋の終わりで枯れかけているが、石積みだけはしっかり残っている。あの女が──カタリーナが、子供たちと作った花壇だろう。


(あの女は道具ではなかった)


ダールベルクは目を細めた。


かつて、あの女の能力を「資源」と呼んだ。婚姻同盟で手に入れようとした。断られた時、内心で「もったいない」と思った。──人間を、もったいないと思った。


その借りを、まだ返していない。


「新しい前例を作るべきだ」


声に出した。風が持ち去った。聞いているのは御者だけだ。


あの男──ブルクハルトは、動き始めるだろう。審議の日程が決まった以上、対策を練っているはずだ。法の知識が深い男だ。条文の解釈で押し返してくる。


だが、帳簿の数字は消えない。


ダールベルクは丘を降り始めた。馬車が待っている。王都に戻る。貴族院に行く。やることがある。


頼まれたからではない。


自分の目で見たからだ。自分の判断で動く。それが──あの女に対する、遅すぎる返礼だ。



夜。


作業場で、一人で改正案の最終確認をしていた。


ダールベルクの書簡を、もう一度読み返した。


「新しい前例を作るべき時が、また来たようです」


──あの男が動いている。頼んでもいないのに。自分の足で旧辺境伯領に行き、自分の目で見て、自分の判断で書簡を寄越した。


審議まで一ヶ月。


ブルクハルトは対策を練っているだろう。あの男は法の知識が深い。条文の隙間を知り尽くしている。正面から崩すのは難しい。


けれど。


味方がいる。エーリヒが先例を見つけた。ニコラウスが論理構造を描いた。クラウスが帳簿を守っている。ダールベルクが自分の意志で動いている。父が方角を示した。リーゼが答えを出した。


──そして、ニコラウスの手が。


あの一センチの距離が。


触れなかった指先が。


(……待っている)


何を待っているのか、自分でもわかっている。わかっていて、言わない。この人が段取りを済ませるまで、待つ。技師が石を積む順番を決めるまで、待つ。


審議の後に。


全てが終わった後に。


──あの手が、今度は引かれないことを。


窓の外で、秋雨が止んでいた。雲の切れ間から、星が一つ見えた。

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