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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第5章

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第6話 繋ぐ人


「テオもおうちにくればいいのに」


リーゼの声が、夕食の席に落ちた。


スープの匙を持ったまま、私の手が止まった。


「えんそくもいっしょにいけるのに。あのね、テオはね、むしをつかまえるのがじょうずなの。ちょうちょをね、こうやってね──」


リーゼが両手で蝶を捕まえる仕草をした。匙がスープの中に沈んだ。マルタが「リーゼ様、お匙」と言ったが、リーゼは聞いていなかった。


「テオがおうちにいたら、おにわのちょうちょもつかまえられるのに」


ニコラウスが黙ってスープを飲んでいた。表情は変わらない。けれど匙を口に運ぶ速度が、ほんの少しだけ遅くなった気がした。


「──リーゼ。テオは学園にいるのよ」


「しってる。でも、おやすみのときはくればいいのに」


リーゼはそれだけ言って、沈んだ匙を引き上げ、スープを飲んだ。何でもないことのように。蝶を捕まえるのと同じくらい、簡単なことのように。


テオもおうちにくればいい。


──ああ。


この子は、いつもそうだ。


大人が計算して、数字を並べて、制度の壁を測って、政治の力学を読んで、それでも動けない場所に、リーゼは一言で立つ。あの春の日、ニコラウスの手を引いて「おとうさまになった!」と叫んだ時と同じだ。


この子にとっては、テオが家に来ることも、ニコラウスが父になることも、蝶を捕まえることも、全部同じ重さなのだ。



夕食の後、書斎に一人で座った。


蝋燭を一本だけ灯して、窓を閉めた。秋の夜気が冷たい。


リーゼの一言が、まだ耳に残っていた。


テオもおうちにくればいい。


──本当に?


本当に、テオをこの家に迎えたいのか。


テオはルートヴィヒの子だ。あの男の子だ。十年間「出張」と嘘をつき続けた男の、嘘の先にできた子だ。


私はテオのために制度を変えようとしている。特別認知の法的設計。貴族院への提案。ブルクハルトとの攻防。──それは本当に、テオのためなのか。


(……ルートヴィヒへの怒りの、代償ではないのか)


あの男が十年間放置した子供を救うことで、あの男の不作為を証明しようとしているのではないか。テオを助けることが、ルートヴィヒを裁くことの延長になっていないか。


自問した。


答えが出なかった。


蝋燭の炎が揺れた。書斎の隅に、エーリヒからの手紙が置いてあった。今日届いたもの。まだ読んでいなかった。封を切った。


『母上。


テオの近況をお伝えします。


テオは最近、植物図鑑を自分で買いました。お小遣いを貯めて。誰にも頼まれていないのに。


食堂で隣に座った時に見せてくれました。頁の端に、小さな字で書き込みがしてあります。「この花は蜂蜜の匂いがする」「この葉は堤防の土手に生えていた」。自分で歩いて、自分で見て、自分で書いている。


あの子は自分で道を見つけ始めています。


僕が通称使用の先例を見つけた時、テオは「ありがとう」と言いました。でも、それきりでした。あの子は助けてもらうことに慣れていません。だから自分で買って、自分で書く。


母上。テオは強い子です。でも、強い子が一人で歩かなくてもいい場所を作るのが、大人の仕事だと僕は思います。


──うまく言えません。でも、そう思います。』


便箋を膝に置いた。


「強い子が一人で歩かなくてもいい場所を作るのが、大人の仕事だと僕は思います」


──十三歳が、こんなことを書く。


この子はいつからこんな言葉を使うようになったのだろう。法律書を読んで、条文の中に道を探して、それでもなお「うまく言えません」と書く。うまく言えないことがあるのは大人になるということだと、私は返事に書いた。あの子はまだ練習中だ。


けれどこの手紙は、大人の私に向けて書かれた言葉として、十分すぎるほど正確だった。


テオのためか、怒りの代償か。


──その問いに、エーリヒの手紙が答えていた。


テオは自分で道を見つけ始めている。植物図鑑を買い、頁の端に書き込みをし、自分の足で歩いている。あの子は誰かの怒りの道具ではない。あの子はあの子自身だ。


そしてリーゼは言った。テオもおうちにくればいい、と。


蝶を捕まえるのと同じ声で。


(──ああ。そうだ)


テオのためだ。


ルートヴィヒへの怒りとは、もう関係がない。あの男の不作為を証明するためではない。テオが自分の名前で立てる場所を作るためだ。


「強い子が一人で歩かなくてもいい場所」を作るためだ。


手紙を閉じた。立ち上がった。



翌朝。作業場。


ニコラウスが図面を広げていた。私は向かいの椅子に座り、改正案の最終版に取りかかった。


リーゼが廊下からぱたぱたと走ってきて、作業場の扉から顔を覗かせた。


「ニコラウス、あのね──」


「リーゼ」


ニコラウスが図面から顔を上げた。


「一つ聞きたいのだが」


「なに?」


「テオはどんな花が好きか、知っているか」


リーゼは目を丸くした。


「しらなーい!」


即答だった。


「てがみできくー!」


リーゼは廊下に飛び出していった。手紙を書きに行ったのだ。十歳の子が、便箋と羽ペンを引っ張り出して、「テオへ。すきなおはなはなに? リーゼより」と書くのだろう。


ニコラウスは何も言わず、図面に目を戻した。


(──花壇の計画かしら)


リーゼの花壇。堤防の脇に作った小さな花壇。ニコラウスが「リーゼの花壇を守るための小さな堤防を作りませんか」と言ったのは、もう一年以上前のことだ。あの花壇にテオの好きな花を植えるつもりなのだろう。


「改正案の最終版、今日中に仕上げます」


「ええ」


ニコラウスが頷いた。


ペンを取った。


表題を書いた。


『旧領地住民の法的保護に関する特別認知制度の設立について』


条約第七条。百八十年前の先例。ルートヴィヒの血縁情報。エーリヒの調査。ニコラウスの論理構造図。クラウスの帳簿。──全てを、この一冊に込める。


ペンが走った。


数字を書く手だ。帳簿を書く手だ。十年間、一人で領地の全てを書き続けた手だ。


今度は、テオのために書く。


全ての子供が自分の名前で立てる制度を。名前のない卒業を、もう誰にもさせないために。


最後の一行を書き終えた時、窓から風が入った。


秋の風。まだ方角の定まらない風。


けれど、少しだけ──追い風に近い。

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