第6話 繋ぐ人
「テオもおうちにくればいいのに」
リーゼの声が、夕食の席に落ちた。
スープの匙を持ったまま、私の手が止まった。
「えんそくもいっしょにいけるのに。あのね、テオはね、むしをつかまえるのがじょうずなの。ちょうちょをね、こうやってね──」
リーゼが両手で蝶を捕まえる仕草をした。匙がスープの中に沈んだ。マルタが「リーゼ様、お匙」と言ったが、リーゼは聞いていなかった。
「テオがおうちにいたら、おにわのちょうちょもつかまえられるのに」
ニコラウスが黙ってスープを飲んでいた。表情は変わらない。けれど匙を口に運ぶ速度が、ほんの少しだけ遅くなった気がした。
「──リーゼ。テオは学園にいるのよ」
「しってる。でも、おやすみのときはくればいいのに」
リーゼはそれだけ言って、沈んだ匙を引き上げ、スープを飲んだ。何でもないことのように。蝶を捕まえるのと同じくらい、簡単なことのように。
テオもおうちにくればいい。
──ああ。
この子は、いつもそうだ。
大人が計算して、数字を並べて、制度の壁を測って、政治の力学を読んで、それでも動けない場所に、リーゼは一言で立つ。あの春の日、ニコラウスの手を引いて「おとうさまになった!」と叫んだ時と同じだ。
この子にとっては、テオが家に来ることも、ニコラウスが父になることも、蝶を捕まえることも、全部同じ重さなのだ。
◇
夕食の後、書斎に一人で座った。
蝋燭を一本だけ灯して、窓を閉めた。秋の夜気が冷たい。
リーゼの一言が、まだ耳に残っていた。
テオもおうちにくればいい。
──本当に?
本当に、テオをこの家に迎えたいのか。
テオはルートヴィヒの子だ。あの男の子だ。十年間「出張」と嘘をつき続けた男の、嘘の先にできた子だ。
私はテオのために制度を変えようとしている。特別認知の法的設計。貴族院への提案。ブルクハルトとの攻防。──それは本当に、テオのためなのか。
(……ルートヴィヒへの怒りの、代償ではないのか)
あの男が十年間放置した子供を救うことで、あの男の不作為を証明しようとしているのではないか。テオを助けることが、ルートヴィヒを裁くことの延長になっていないか。
自問した。
答えが出なかった。
蝋燭の炎が揺れた。書斎の隅に、エーリヒからの手紙が置いてあった。今日届いたもの。まだ読んでいなかった。封を切った。
『母上。
テオの近況をお伝えします。
テオは最近、植物図鑑を自分で買いました。お小遣いを貯めて。誰にも頼まれていないのに。
食堂で隣に座った時に見せてくれました。頁の端に、小さな字で書き込みがしてあります。「この花は蜂蜜の匂いがする」「この葉は堤防の土手に生えていた」。自分で歩いて、自分で見て、自分で書いている。
あの子は自分で道を見つけ始めています。
僕が通称使用の先例を見つけた時、テオは「ありがとう」と言いました。でも、それきりでした。あの子は助けてもらうことに慣れていません。だから自分で買って、自分で書く。
母上。テオは強い子です。でも、強い子が一人で歩かなくてもいい場所を作るのが、大人の仕事だと僕は思います。
──うまく言えません。でも、そう思います。』
便箋を膝に置いた。
「強い子が一人で歩かなくてもいい場所を作るのが、大人の仕事だと僕は思います」
──十三歳が、こんなことを書く。
この子はいつからこんな言葉を使うようになったのだろう。法律書を読んで、条文の中に道を探して、それでもなお「うまく言えません」と書く。うまく言えないことがあるのは大人になるということだと、私は返事に書いた。あの子はまだ練習中だ。
けれどこの手紙は、大人の私に向けて書かれた言葉として、十分すぎるほど正確だった。
テオのためか、怒りの代償か。
──その問いに、エーリヒの手紙が答えていた。
テオは自分で道を見つけ始めている。植物図鑑を買い、頁の端に書き込みをし、自分の足で歩いている。あの子は誰かの怒りの道具ではない。あの子はあの子自身だ。
そしてリーゼは言った。テオもおうちにくればいい、と。
蝶を捕まえるのと同じ声で。
(──ああ。そうだ)
テオのためだ。
ルートヴィヒへの怒りとは、もう関係がない。あの男の不作為を証明するためではない。テオが自分の名前で立てる場所を作るためだ。
「強い子が一人で歩かなくてもいい場所」を作るためだ。
手紙を閉じた。立ち上がった。
◇
翌朝。作業場。
ニコラウスが図面を広げていた。私は向かいの椅子に座り、改正案の最終版に取りかかった。
リーゼが廊下からぱたぱたと走ってきて、作業場の扉から顔を覗かせた。
「ニコラウス、あのね──」
「リーゼ」
ニコラウスが図面から顔を上げた。
「一つ聞きたいのだが」
「なに?」
「テオはどんな花が好きか、知っているか」
リーゼは目を丸くした。
「しらなーい!」
即答だった。
「てがみできくー!」
リーゼは廊下に飛び出していった。手紙を書きに行ったのだ。十歳の子が、便箋と羽ペンを引っ張り出して、「テオへ。すきなおはなはなに? リーゼより」と書くのだろう。
ニコラウスは何も言わず、図面に目を戻した。
(──花壇の計画かしら)
リーゼの花壇。堤防の脇に作った小さな花壇。ニコラウスが「リーゼの花壇を守るための小さな堤防を作りませんか」と言ったのは、もう一年以上前のことだ。あの花壇にテオの好きな花を植えるつもりなのだろう。
「改正案の最終版、今日中に仕上げます」
「ええ」
ニコラウスが頷いた。
ペンを取った。
表題を書いた。
『旧領地住民の法的保護に関する特別認知制度の設立について』
条約第七条。百八十年前の先例。ルートヴィヒの血縁情報。エーリヒの調査。ニコラウスの論理構造図。クラウスの帳簿。──全てを、この一冊に込める。
ペンが走った。
数字を書く手だ。帳簿を書く手だ。十年間、一人で領地の全てを書き続けた手だ。
今度は、テオのために書く。
全ての子供が自分の名前で立てる制度を。名前のない卒業を、もう誰にもさせないために。
最後の一行を書き終えた時、窓から風が入った。
秋の風。まだ方角の定まらない風。
けれど、少しだけ──追い風に近い。




