第4話 三百二十四頁の返答
安い紙の匂いは、蜂蜜ではなかった。
昨夜、机の端に置いたまま眠った書簡を、朝の光の中で手に取った。写字生が使う端切れの紙。封蝋がないから、指で端を裂くだけで開く。
中身は三枚だった。
一枚目。テオ・メルツの出生記録の写し。出生日、出生地、洗礼を受けた教会名。旧辺境伯領の聖ミヒャエル教会。字は丁寧だった。書き慣れた手が、正確に、一文字の省略もなく記している。
二枚目。母ロゼッタ・メルツの出自証明の写し。生まれ、洗礼、両親の名前。そしてグラーフェンベルク家の家系図の抜粋。ルートヴィヒの名前から一本の線がテオに繋がっている。血縁を示す線。たった一本の、まっすぐな線。
三枚目。
本文だった。
一文だけ。
『これが必要だと思います。』
それだけだった。
「頼む」とは書いていない。「許してくれ」とも書いていない。挨拶もない。前置きもない。署名はあった。「ルートヴィヒ・グラーフェンベルク」。やはり「フォン」はない。
三枚の紙を、机の上に並べた。
出生記録。出自証明。家系図。──庶子認知に必要な書類の全てだ。
(……この男が)
こういう書類を、書けたのか。
あの十年間、この男は何も書かなかった。私が帳簿を書き、堤防の補修計画を書き、識字教室の教材を書き、交易路の申請書を書いていた間、この男は何一つ書かなかった。三百二十四頁の引き継ぎ資料を渡した時も、ルートヴィヒはそれを受け取っただけだった。
その男が。
三枚を書いた。
──三枚。
三百二十四頁と、三枚。その差が、十年の差だ。
(罪滅ぼしのつもりだろうか)
おそらく、そうだ。十年間何も書かなかった男が、テオのために三枚だけ書いた。遅い。遅すぎる。けれど──
「これが必要だと思います」の一文には、余計なものが何もなかった。
懇願がない。弁解がない。感情がない。あるのは、テオの認知に必要な情報だけ。
まるで引き継ぎ資料のようだった。
(……まさか)
三百二十四頁の引き継ぎ資料を受け取った男が、今度は自分から情報を「引き継いだ」のだろうか。──私に。テオのために。
不愉快だった。この男の書類を認めたくなかった。けれど、不愉快であることと、書類が正確であることは別の話だ。
出生記録の日付を確認した。洗礼教会名を確認した。家系図の血縁線を確認した。
全て、整合している。
帳簿は嘘をつかない。この書類も、嘘をつかないだろう。嘘をつく必要がない。事実しか書かれていない。
三枚の紙を、提案書の束に重ねた。
──使う。この男の書類を、使う。テオのために。
◇
夜の作業場は、蝋燭の光で狭く見える。
ニコラウスが条約の論理構造図を広げたまま、黙って座っていた。私は向かいの椅子に座り、ルートヴィヒの書簡の内容を伝えた。
「テオの血縁情報が全て揃いました。出生記録、出自証明、家系図」
ニコラウスは頷いた。
「特別認知の申請に必要な要件のうち、血縁の証明はこれで満たせます」
「ええ。あとは制度そのものを作らないといけない」
ブルクハルトの壁。議事進行権。「受理する段階にない」。
沈黙が落ちた。
蝋燭の芯がぱちりと爆ぜた。
「──カタリーナ」
ニコラウスが言った。殿なし。あの秋の日に初めて呼んでくれた呼び方。まだ慣れない。慣れないけれど、嫌ではない。
「はい」
「テオのことで、一つ話しておきたいことがあります」
ニコラウスの声が、いつもと少し違った。低いのは同じだが、設計図を読み上げる時の声ではない。もっと──奥の方から出てくる声。
「私には父がいませんでした」
私の手が止まった。
「母が一人で育ててくれました。ザールフェルトの町はずれの、小さな家で。母は洗濯の仕事をしていました」
ニコラウスは蝋燭の炎を見ていた。私を見ていなかった。
「名前を呼んでくれる人が、いなかった時期があります」
「──名前を」
「母は名前で呼んでくれました。でも、外では。学校では。近所では。『ヴェーバーの息子』か、『あの洗濯女の子』でした。名前で呼ばれるようになったのは、技師の資格を取ってからです」
蝋燭がまた爆ぜた。
「テオの状況は、私の幼少期と似ています」
ニコラウスがようやく私を見た。
「名前のない子供がどういうものか、知っています。だから──」
言葉が途切れた。
ニコラウスは言葉を探していた。計算式のない言葉を。あの不器用な手が、設計図の余白ではなく空気の中に何かを描こうとしている。
「──だから、テオのために設計を始めたいと思った。それだけです」
設計。
あの時の「設計」は、治水事業のスケジュールではなかった。
テオのための設計だった。
(……この人は)
ずっと前から、テオのことを考えていたのだ。図面を広げながら。条約の構造を図式化しながら。ニコラウスはずっと、テオの将来を設計しようとしていた。
「名前を呼んでくれる人がいなかった」。
その言葉が、胸の奥に落ちた。旧辺境伯領で、私もそうだった。「辺境伯夫人」とは呼ばれた。けれど「カタリーナ」と呼ばれることは、十年間、一度もなかった。
この人は、それを知っている。知っているから、テオの名前にこだわる。
──私は手を伸ばした。
ニコラウスの手は、机の上にあった。図面のそばに。いつもそうだ。この人の手はいつも図面のそばにある。
その手に、私の手を重ねた。
あの河岸で、ニコラウスが五年間の想いを告げた夜。あの時は、ニコラウスの告白を私が受け止めた。今度は、逆だ。この人の過去を、私が受け止める番だ。
ニコラウスの手が、少しだけ震えた。
「……計算式がない話をして、すみません」
「計算式はいりません」
私の声は、自分で思ったより静かだった。
「あなたが教えてくれたことに、計算式は必要ありません」
ニコラウスの手が、震えるのをやめた。
蝋燭の光が揺れていた。二人の手の影が、机の上で重なっていた。
◇
安宿の部屋は寒かった。
俺は机──と呼ぶには粗末すぎる板の上に、書簡の写しを広げていた。
テオの出生記録。ロゼッタの出自証明。家系図の抜粋。全て写しを取ってから送った。写字生としての仕事で覚えた技術が、ここで役に立つとは思わなかった。
必要な情報は全て渡した。
これ以上、俺にできることはない。
(……ないのだ)
認知申請の資格がない。爵位がない。「フォン」もない。窓口で門前払いを食らった男に、何ができる。
──手紙を書くことだけは、できる。
テオへの手紙を書いた。八通目。出せなかった七通の上に、一通を重ねる。
『テオへ。
父は、お前のためにできることをした。少ないが。
学校は楽しいか。友達はいるか。──この二つは前にも聞いた。同じことしか聞けない父を、許してくれとは言わない。
蜂蜜パンは好きか。これは初めて聞く。
ルートヴィヒ・グラーフェンベルク』
ペンを置いた。
窓の外は暗かった。安宿の窓からは丘が見えない。堤防も見えない。銘板も見えない。
俺の名前は、どこにもない。
それでいい。
テオの名前が、どこかに刻まれるなら。
手紙を封じた。明日、出す。今度こそ出す。七通分の沈黙を、八通目で破る。
◇
翌朝。
エーリヒからの手紙が届いた。短い手紙。いつもの便箋二枚。
近況報告の間に、一行だけ、テオの言葉が挟まれていた。
『テオが昨日、僕にこう聞きました。
「僕の名前は、誰が決めるのですか」
僕は答えられませんでした。母上、僕はこの質問に、なんと答えればよかったのでしょう。』
便箋を膝の上に置いた。
僕の名前は、誰が決めるのですか。
──お前だ、テオ。
お前が決める。お前の名前は、お前のものだ。
それを可能にする制度を、私が作る。




