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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第5章

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第3話 前例のない壁


貴族院法制委員会の部屋は、審議室より狭く、天井が低かった。


長机が一つ。その奥に委員長席。左右に委員の席が三つずつ並び、手前に提案者の席が一脚だけ、ぽつんと置かれている。


私は提案者の席に座った。膝の上に、提案書の束。ニコラウスが図式化した条約の論理構造、エーリヒが見つけた百八十年前の先例の写し、そしてテオの出生記録と通称使用承認書の一式。


ニコラウスは傍聴席にいる。マルタも。傍聴席は壁際の長椅子で、三人が座れる程度の幅しかなかった。


委員長席に、男が座った。


フリードリヒ・フォン・ブルクハルト男爵。六十歳。白髪を撫でつけ、法服の襟を正している。目が細い。帳簿を読む時の私の目に似ている──と思ったが、すぐに打ち消した。似ていない。この人の目は、数字を読む目ではない。前例を探す目だ。そして、前例がないことを確認する目だ。


「本日の審議は、リンデン伯爵家カタリーナ・フォン・リンデンより提出された『旧領地住民の法的保護に関する特別認知制度の設立について』の提案書に関するものです」


ブルクハルトの声は低く、一語一語を丁寧に区切る話し方だった。法律の条文を読み上げるように。


「提案者、説明を」


私は立ち上がった。


「旧辺境伯領の管理地域に生まれた住民のうち、庶子認知を受けられないまま成人を迎える子供がいます」


声を出した。帳簿と同じ声。感情を乗せない。数字を読むように、事実を並べる。


「現行制度では、庶子認知の申請資格は爵位を有する当主にのみ認められています。旧辺境伯の爵位は剥奪済みであり、血縁上の父に申請資格がありません。結果として、子供は法的な姓を得る手段を持たないまま社会に出ることになります」


委員の一人が、手元の提案書をめくった。


「本提案は、クレン河流域治水協力条約第七条──管理地域の住民の法的保護──を根拠に、爵位剥奪後の旧当主の血縁者について、王家が直接認知を行う特別認知制度の設立を求めるものです」


ここまでは、数字。


「先例があります」


ここからが、刃。


「百八十年前。ヴェルデンフェルス伯爵の爵位剥奪後、伯爵の庶子が王家の特別認知を受けた記録が、貴族院の認知記録第十一冊に残されています」


提案書の該当箇所を示した。エーリヒの字で引用された一行。埃の匂いのする図書室で、十三歳の手が見つけた一行。


部屋が、少し静かになった。


ブルクハルト男爵が口を開いた。


「前例と仰るが」


声は変わらなかった。低く、区切りのある話し方。


「ヴェルデンフェルスの件は戦時特例として処理されたものです。内乱という非常事態下で、やむを得ず王家の裁量で行った措置に過ぎない。これを平時に援用するのは──」


男爵の目が、私を見た。


「──法の濫用です」


法の濫用。


重い言葉だった。法制委員会の委員長がその言葉を使えば、提案そのものの正当性が疑われる。


(──来ると思った)


「戦時特例」の壁。エーリヒも手紙に書いていた。平時に援用できるかはわからない、と。


けれど。


「男爵」


私は提案書の二枚目を開いた。


「条約第七条を、もう一度お読みいただけますか」


ブルクハルトの目が細くなった。


「第七条。『管理地域の住民の法的保護は、管理体制の存続期間を通じて、関係当事者の義務とする』」


声に出して読んだ。ニコラウスが図式化した論理構造が、頭の中で組み上がっている。


「『管理体制の存続期間を通じて』。この条文に『戦時に限る』という留保はありません。管理体制が存続する限り、住民の法的保護は平時の義務です」


部屋の空気が、ほんの僅かだけ動いた。


ブルクハルトの唇が──閉じた。


一瞬。


ほんの一瞬だけ、次の言葉が出なかった。目が、手元の提案書に落ちた。条約の条文を探すように。


(──詰まった)


私は見逃さなかった。


けれど、一瞬だった。


ブルクハルト男爵は顔を上げた。表情は元に戻っていた。法服の襟を正すように、声も整えた。


「提案者の論旨は承知しました」


穏やかな声だった。


「しかし、本件は条約の拡大解釈を前提としており、法制委員会として受理する段階にはありません。提案書は記録に留め、次回以降の審議課題として──」


「──留保ですか」


「議事進行は委員長の権限です」


そうだ。議事進行権。論理で勝っても、議事の段取りを握っているのはこの男だ。


受理しない。審議もしない。記録に留める。──棚に戻す。百八十年前の先例が埃の下に眠っていたように、私の提案書も棚の奥に押し込まれる。


「本日の審議は以上とします」


ブルクハルト男爵が閉会を宣言した。


委員たちが席を立つ。七人のうち二人が、私の提案書をもう一度ちらりと見てから立ち上がった。見ていた。読んでいた。


──全員が、ブルクハルトに賛成しているわけではない。



帰りの馬車は、揺れていた。


秋の王都の石畳は、夏より硬い。車輪が小石を拾うたびに、座席が跳ねる。


ニコラウスは窓の外を見ていた。何も言わない。


私も何も言わなかった。


正論が通らなかった。数字は正しい。条文は正しい。先例もある。それでも、議事進行権という壁の前で止められた。


(……数字で殴れない壁がある)


ままならない。


沈黙が馬車の中を満たしていた。車輪の音だけが、ごとごとと規則正しく響いている。


マルタが口を開いた。


「あの男爵、目が泳いでいましたね」


ニコラウスが窓から視線を戻した。私もマルタを見た。


「目?」


「ええ。カタリーナ様が条約の条文を読み上げた時です。あの方、一瞬だけ手元の書類を見ました。条文を確認したのではないと思います」


「……どういうこと」


「条文は暗記していらっしゃるはずです。法制委員会の委員長ですもの。手元を見たのは、条文を探すためではなく──」


マルタは窓の外に目を向けた。


「──目を逸らしたかったのだと、私は思いました」


馬車が石を拾って跳ねた。


マルタのその一言を、私は黙って飲み込んだ。ニコラウスも黙っていた。けれどその沈黙は、行きの沈黙とは少し違う重さを持っていた。


目が泳いだ。条文を暗記しているはずの男が、目を逸らした。


──なぜ。


「保守的な法解釈」だけが理由なら、目を逸らす必要はない。自分の信念に基づいて却下するなら、真っ直ぐこちらを見ればいい。


見られなかった。一瞬だけ。


(……何かある)


まだわからない。けれど、数字は正しい。条文は正しい。先例はある。


「次の手を打ちます」


声に出した。馬車の中で、ニコラウスとマルタに聞こえるだけの声で。


ニコラウスが、小さく頷いた。



リンデン伯爵邸に戻ると、マルタが玄関で一通の書簡を受け取っていた。


「カタリーナ様宛です」


差し出された書簡を見た。


封蝋がない。安い紙。便箋というより、写字生が使う端切れに近い。宛名の字は丁寧だが、インクが薄い。高価なインクではない。


差出人の名前を読んだ。


ルートヴィヒ・グラーフェンベルク。


「フォン」がない。当然だ。あの男にはもう、「フォン」を名乗る資格がない。


作業場に入った。机の上にニコラウスの図面が広げたままになっている。条約の論理構造図。その脇に、椅子が二脚。


書簡を机の端に置いて、外套を脱いだ。


「──また動いていますよ、旦那様の椅子」


マルタの声が、廊下の向こうから聞こえた。独り言のような声。掃除の途中なのだろう。


聞こえなかった。


正確には、聞こえていたが、耳に入らなかった。私の目は机の端の、安い紙の書簡に吸い寄せられていた。


ルートヴィヒからの手紙。


あの男が私に手紙を寄越すのは、離縁の後では初めてだった。マルタが「辺境伯夫人はおりません」と二度返した手紙は、全てルートヴィヒから私宛ではなく、「辺境伯夫人」宛だった。


これは違う。「カタリーナ・フォン・リンデン」宛。


安い紙。封蝋なし。


(何を書いてきたのだろう)


書簡を手に取った。軽かった。紙が一枚か二枚。あの三百二十四頁の引き継ぎ資料を渡した男からの手紙が、こんなに軽い。


封を──


指が止まった。


今日はもう、疲れた。ブルクハルトの壁。議事進行権。正論が通らなかった一日。この上にルートヴィヒの手紙を開けるだけの体力が、今の私にはあるだろうか。


書簡を机の端に戻した。


明日にしよう。


窓の外で、秋の風が枯葉を払っていた。追い風ではない。横風だ。まだ方角が定まらない風。


──数字は正しい。次の手を打つ。


けれど今夜は、この安い紙の重さだけを机の端に置いて、眠る。

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