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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第5章

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第2話 二百年の記録


学園の図書室は埃の匂いがする、とエーリヒは書いていた。


『母上。


調査を始めました。貴族院の認知記録の写しが、学園の法制資料室に保管されています。過去二百年分。棚にして十四本。一段に帳面が二十冊ほど入っていますから、全部で──数えるのをやめました。数えると怯みそうなので。


一冊目から順に見ています。


認知の申請者は全て、爵位を有する当主です。例外は、今のところ見つかっていません。』


手紙の日付は、九日前。


二通目が同じ封筒に入っていた。日付は五日前。


『母上。


七冊目まで終わりました。腕が疲れます。帳面が重いのと、字が古くて読みづらいのと、埃で目が痒いのと。


テオが時々、図書室に来ます。何も聞きません。ただ隣に座って、自分の本を読んでいます。植物図鑑です。自分のお小遣いで買ったそうです。


テオは何も言いません。でも、隣にいます。


まだ例外は見つかっていません。でも、棚はあと七本あります。』


便箋を膝の上に置いた。


十四本の棚。二百年分の記録。十三歳の息子が、埃の匂いのする部屋で、一冊ずつめくっている。腕が疲れると書きながら、やめるとは書いていない。


(あの子は、やめない)


知っている。エーリヒは一度決めたら棚の最後の一冊まで見る。保証人欄にニコラウスの名前を選んだ時も、通称使用の先例を見つけた時も、あの子は制度の中を歩いて道を探した。


──埃の匂いの中で。



作業場に入ると、ニコラウスが大きな紙を広げていた。


条約の全文。ただし、いつもの図面とは違う。条文の一つ一つが四角い枠で囲われ、枠と枠の間を矢印が繋いでいる。


「……これは」


「条約の論理構造です」


ニコラウスが矢印の一つを指で追った。


「第一条から第十二条まで、各条文の適用条件と効果範囲を整理しました。第七条はここです」


指が止まった場所に、赤い墨で囲われた枠があった。「管理地域の住民の法的保護」。


「条約の他の条文は全て、管理体制の運用──つまり治水や徴税や人員配置を定めています。第七条だけが、住民個人の法的地位に言及している」


「孤立した条文」


「そうです。他の条文との依存関係がない。つまり、第七条の適用は管理体制の運用状況に左右されない」


ニコラウスの指が、矢印のない空白を示した。繋がっていないことが、逆に強みになる。独立した条文は、独立した根拠になり得る。


「テオが旧辺境伯領で生まれた住民である以上、第七条の保護範囲に入る可能性は──」


「あります」


私は頷いた。ニコラウスの図式は、数字と同じだ。感情を挟まない。構造だけを見せる。だから信じられる。


「ただし」


ニコラウスが言った。


「第七条の『法的保護』が庶子認知まで含むかどうかは、条文の解釈次第です。拡大解釈と言われる余地がある」


「拡大解釈を通すには」


「先例が必要です」


先例。


二百年分の棚を、エーリヒが一冊ずつめくっている。



三通目の手紙は、その夜に届いた。


早馬だった。エーリヒが早馬を使うことは、めったにない。学園の生徒が早馬を頼むには、教師の許可と追加の費用がいる。あの子がそれを払ったということは──


封を切った。


『母上。


見つけました。


十一冊目、百八十年前の記録です。ヴェルデンフェルス伯爵。内乱への加担により爵位を剥奪。その後、伯爵の庶子について王家が直接認知を行った記録があります。


「王家の特別認知」と記載されています。


ただし、備考欄に「戦時特例として処理」と付記されています。内乱という非常事態だったから認められた、という扱いです。


平時にこの先例を援用できるかは、わかりません。


でも、「前例がない」は嘘です。前例はあります。百八十年前に、一度だけ。


──道はあります。母上なら見つけられます。


追伸。テオの好きな花を聞きました。知らないと言っていました。花を好きになる余裕が、まだないのかもしれません。』


手紙を置いた。


指が震えていた。


(十一冊目)


二百年分の十一冊目。あの子は怯まなかった。七冊目で見つからなくても、八冊目を開けた。九冊目を開けた。十冊目を開けた。そして、十一冊目。


前例はある。


百八十年前に、一度だけ。「戦時特例」という枷が付いている。平時に援用できるかはわからない。けれど──


「前例がない」は嘘だ。


あるのだ。棚の奥に。埃の下に。百八十年、誰にも見つけられなかった一行が、十三歳の少年の指に触れた。



深夜。


作業場の机に条文を広げたまま、私は六時間目に入っていた。


「戦時特例」を平時に援用する論理を組み立てなければならない。条約第七条の「法的保護」の範囲を、庶子認知まで拡大する解釈。百八十年前の先例を、非常時の例外ではなく制度的な裁量権として読み替える筋道。


──頭が回らない。


蝋燭の芯が短くなっていた。あと半刻もたない。


(替えを取りに行かないと)


立ち上がろうとした時、机の端に気づいた。


薬湯だった。


湯気はもうない。少し冷めている。けれど、温かい。私が条文に没頭している間に、誰かが置いて、誰かが去った。蝋燭も──見れば、燭台の脇に新しい蝋燭が一本、無言で立てかけてある。


ニコラウスの気配は、もうなかった。


作業場の窓が、ほんの少しだけ開いている。夜風が入る程度に。


(……換気、か)


薬湯を飲んだ。薬草の苦みの奥に、ほんのり甘い。蜂蜜が一滴、入っている。


一滴だけ。


条文に目を戻した。さっきより、少しだけ頭が動く気がした。



翌朝。


薬湯のカップを洗いながら、台所でニコラウスとすれ違った。


「ありがとう。薬湯」


「換気の確認ついでに」


ニコラウスは紅茶の杯を手に、作業場へ向かった。振り返らなかった。


──換気の確認で、蝋燭は替えないだろう。薬湯も淹れないだろう。蜂蜜の一滴も、入れないだろう。


言わなかった。


カップを拭いて、棚に戻した。


先例はある。道はある。エーリヒが見つけた。ニコラウスが構造を描いた。


あとは──「戦時特例」の壁を、どう越えるか。


百八十年前の先例は、扉を開けた。けれど、その扉の向こうにもう一枚、壁がある。


エーリヒの手紙の最後の一行が、耳の奥で鳴っていた。


『道はあります。母上なら見つけられます。』


──ええ。見つける。


あの子が十一冊目まで手を伸ばしたのだ。私が止まるわけにはいかない。

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