第7話 堤防のある場所
「技師としてではなく」──この人がこう言う時は、いつも、心臓の準備が追いつかない。
作業場。午前の光が図面の上に落ちている。ニコラウスが椅子から立ち上がっていた。いつもは座ったまま報告を始める人が、今日は立っている。図面に目を落とさず、私を見ている。
馬車の中で「答えは急ぎません」と言ってから、数日が経っていた。その間、ニコラウスはいつも通りだった。十時に来て、技術の報告をして、数字を確認して帰る。答えを探している様子は──少なくとも、表面には出なかった。
今朝も、いつも通りに来ると思っていた。
「技師としてなら、答えは出ています。合同管理体制が最も合理的で、定期巡回の頻度と経路も設計済みです」
声が安定していた。数値を報告する時の、あの低音。──けれど、次の一息で変わった。
「技師としてではなく」
沈黙。
数秒。
この人が言葉を探している時の沈黙を、私はもう知っている。計算式がない場所に立った時の、あの間。三日前の馬車の中でも、同じ間があった。
「堤防のある場所に、いたい」
声が、低かった。いつもの安定した低音ではない。もっと不安定で、もっと──剥き出しの。
「カタリーナのいる場所に、堤防がある」
息が止まった。
堤防のある場所にいたい。カタリーナのいる場所に堤防がある。
──だから、カタリーナのいる場所にいたい。
三段の論理。技師の論理だ。AはBに等しい。BはCに等しい。故にAはCに等しい。
けれどその三段の間に挟まっているのは、数字ではなかった。
(この人は──)
あの日の言葉を思い出した。「感情的な理由で常駐を選ぶべきではない」。感情を計算に入れなかった人。計算式のない問題を持ち込むのが怖いと言った人。
その人が今──感情を、設計に組み込んだ。
堤防のある場所にいたい。それは技師の言葉だ。
カタリーナのいる場所に堤防がある。それは──技師の言葉ではない。
あの衝突がなければ、この言葉は出なかった。「正しいだけでは足りない」と言われなければ。「間違えた」と認めなければ。「努力します」と約束しなければ。
全部、繋がっている。
「……では」
声が出た。自分の声が、思ったより穏やかだったことに驚いた。
「どこにでも堤防を作ればいいですね」
ニコラウスの目が──見開かれた。
一拍。
それから、口元が緩んだ。あの不器用な笑い方だ。大きく笑わない。けれど目が緩む。
「設計は任せてください」
「施工は二人で」
「リーゼの監督が入りますが」
「あの子の監督はクラウスより厳しいですからね」
笑った。二人で。作業場の朝の光の中で。
──あの椅子が、まだ一センチ近い位置にあった。
帰任要請を受けた日に動かしたのだと、今なら分かる。離れたくないと、計算式のない方法で言っていたのだと。
あの日から──この人はずっと、答えを探していた。技師の言葉ではない言葉を。計算式のない場所に立つ方法を。
見つけたのだ。
堤防という──技師の語彙で。
◇
合同管理体制の設計を始めた。
図面を広げて、二人で線を引く。いつもの作業だ。けれど今日は、いつもと線の意味が違った。
「リンデン伯爵領を本拠とし、旧辺境伯領への定期巡回を月二回。一回の滞在は五日から七日。緊急時はクラウスが初動対応し、早馬で二日以内に連絡」
「公国側の技術支援は、条約に基づく合同点検として年四回。うち二回はリンデン伯爵領、二回は旧辺境伯領で実施」
「ニコラウスの駐在先は──」
「リンデン伯爵領。本拠が同じであれば、巡回と合同点検の効率が最大化します」
本拠が同じ。
つまり──一緒にいる、ということだ。
技師の言葉で。設計図の上で。恋愛の問題を、得意な「設計」の方法で解決している。──この人らしい。私たちらしい。
「公国側の承認が必要です」
「提案書は既に送付済みです。公国河川局長宛に」
「……いつ」
「馬車の中で、カタリーナが『答えは急ぎません』と言った日の夜に」
答えを急がないと言ったのは私だ。けれどこの人は、その夜のうちに提案書を書いていた。
「答えが出ていなかったのではないのですか」
「答えは──技師としては出ていました。技師としてではない方の答えが、まだだっただけです」
(この人は──)
技師としての判断と、技師ではない感情を、別々に持っていた。技師の判断は即座に下した。提案書を書き、公国に送り、制度の枠組みを整えた。
感情の方は──数日かかった。
「堤防のある場所にいたい」という一言を見つけるのに。
不器用だ。どうしようもなく。
(けれど──嘘はない)
この人の設計図に、嘘がないように。
◇
午後。マルタが手紙を持ってきた。
エーリヒからだ。封を切った。
『母上
ご報告します。テオの通称使用が学園長に承認されました。
申請書に先例の記録二件を添付し、テオの状況が要件に該当することを具体的に示しました。母上のご助言通り、要件との対応を箇条書きにしたのが効いたようです。学園長は申請書を読んで、十分もかからず承認してくれました。
テオは「ありがとう」と言いました。あの子がそう言ったのは初めてです。「エーリヒさんがいなければ、ずっと黙って蜂蜜パンを食べていた」と。
ここまでは報告です。
ここからは──報告ではありません。
テオが通称を認められた日、あの子は泣きました。教室の隅で、声を殺して。僕はそれを見て──なぜか、父上のことを思い出しました。
怒りではなく。
あの子が泣いているのを見た時、僕の中に浮かんだのは怒りではありませんでした。何だったのか、うまく言えません。
法律書には答えがあります。制度の中に道があります。でも、テオが泣いている理由は──制度では説明できません。あの子は姓が変わったから泣いたのではない。誰かが動いてくれたから泣いたのだと思います。
うまく言えません。
母上なら分かるでしょうか。
エーリヒ』
手紙を膝の上に置いた。
「うまく言えません」。
エーリヒがそう書くのは──初めてだった。
この子はいつも明確に、論理的に、条文のように書いてきた。法律書を読む子だ。証拠を揃えて、要件を満たして、結論を出す。感情を論理に変換するのが、この子の背骨だった。
その子が──「うまく言えません」と書いた。
テオの涙を見て、法律書では処理できない何かに触れた。怒りではない。悲しみでもない。名前のつかない感情。
(この子は──大人になっている)
大人になるということは、名前のつかない感情を抱えることだ。十年間、私がそうだった。ルートヴィヒの不在に名前をつけられなかった。「寂しい」とも「怒っている」とも違う、もっと複雑な何かを、帳簿の数字に埋めて暮らしていた。
エーリヒが、同じ場所に立ち始めている。
ペンを取った。
返信を書く。数字ではない言葉で。条文ではない言葉で。
『エーリヒ
通称使用の承認、おめでとう。あなたの調査と申請書が実を結んだこと、お母さまは誇りに思います。おじいさまにもお礼を言いなさい。
テオが「ありがとう」と言ったこと──大切にしなさい。誰かに動いてもらった経験は、あの子の中に残ります。あなたが法律書から道を見つけたように、あの子もいつか、誰かのために道を見つけるかもしれない。
「うまく言えない」ことについて。
うまく言えないことがあるのは、大人になるということです。法律書には答えがあります。帳簿にも数字があります。でも、人が泣いている理由は──数字では書けないことがあります。
お母さまも、まだ練習中です。
夏休みの薬草採り、楽しみにしています。
母より』
書き終えて、封をした。
「まだ練習中」。
嘘ではなかった。三日前、ニコラウスに「先に言ってほしかった」と伝えた時、私も「うまく言えない」感情の中にいた。怒りでもなく、悲しみでもなく、寂しさの変形のような何か。数字では片付かないもの。
数字では片付かないものを、数字では片付かない言葉で伝える練習。
──まだ、途中だ。
◇
夕暮れ。
作業場で、図面を広げたまま二人で座っていた。
合同管理体制の設計図。巡回スケジュール。合同点検の日程。全て、午後いっぱいかけて書き込んだ。図面の上に、二人のペンの跡が交差している。
窓の外で、クレン河が夕日を映していた。水面が橙色に光っている。導流堤の石積みが、夏の夕暮れの中で影を落としている。
言葉はなかった。
ニコラウスが隣に座っている。半歩後ろではなく、同じ高さで。椅子が一センチ近い位置にあるから、肘が時折触れる。
図面の上に目を落とした。合同管理体制の設計図。私たちの──これからの設計図。
公国の承認は、まだ来ていない。提案書は送った。けれど、公国の政治判断がどう出るかは分からない。
分からないまま──図面を見つめていた。
「公国の返事は、早ければ来月です」
ニコラウスが言った。技師の声だった。けれど、目は窓の外を見ていた。
「待ちましょう」
私はそう答えた。
待つことは、もう怖くない。
十年間、一人で待っていた頃とは違う。
隣に──いる人がいる。
図面の余白に、小さな文字が並んでいた。ニコラウスの筆跡。「二人の堤防──リーゼの花壇、石積み点検記録」。その横に、今日書き足された一行。
『合同管理体制設計──本拠:リンデン伯爵領(カタリーナの紅茶に蜂蜜半匙)』
──紅茶に蜂蜜半匙。
この人は。
設計図の余白に、蜂蜜の分量を書く人が、どこにいるのか。
いるのだ。ここに。
笑った。声は出さなかった。唇だけが弧を描いた。
窓の外で、夕日が沈んでいく。
合同管理体制の道筋がついた。テオの問題が解決した。エーリヒが大人になっている。
まだ確定ではない。公国の承認が要る。
けれど──図面の上に、道は引かれている。
二人で引いた道だ。
夕暮れの光が、作業場の中に長い影を落としていた。図面の上の線が、橙色に染まっている。
蝋燭はまだ灯さなかった。
もう少しだけ、この光の中にいたかった。




