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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第7話 堤防のある場所


「技師としてではなく」──この人がこう言う時は、いつも、心臓の準備が追いつかない。


作業場。午前の光が図面の上に落ちている。ニコラウスが椅子から立ち上がっていた。いつもは座ったまま報告を始める人が、今日は立っている。図面に目を落とさず、私を見ている。


馬車の中で「答えは急ぎません」と言ってから、数日が経っていた。その間、ニコラウスはいつも通りだった。十時に来て、技術の報告をして、数字を確認して帰る。答えを探している様子は──少なくとも、表面には出なかった。


今朝も、いつも通りに来ると思っていた。


「技師としてなら、答えは出ています。合同管理体制が最も合理的で、定期巡回の頻度と経路も設計済みです」


声が安定していた。数値を報告する時の、あの低音。──けれど、次の一息で変わった。


「技師としてではなく」


沈黙。


数秒。


この人が言葉を探している時の沈黙を、私はもう知っている。計算式がない場所に立った時の、あの間。三日前の馬車の中でも、同じ間があった。


「堤防のある場所に、いたい」


声が、低かった。いつもの安定した低音ではない。もっと不安定で、もっと──剥き出しの。


「カタリーナのいる場所に、堤防がある」


息が止まった。


堤防のある場所にいたい。カタリーナのいる場所に堤防がある。


──だから、カタリーナのいる場所にいたい。


三段の論理。技師の論理だ。AはBに等しい。BはCに等しい。故にAはCに等しい。


けれどその三段の間に挟まっているのは、数字ではなかった。


(この人は──)


あの日の言葉を思い出した。「感情的な理由で常駐を選ぶべきではない」。感情を計算に入れなかった人。計算式のない問題を持ち込むのが怖いと言った人。


その人が今──感情を、設計に組み込んだ。


堤防のある場所にいたい。それは技師の言葉だ。


カタリーナのいる場所に堤防がある。それは──技師の言葉ではない。


あの衝突がなければ、この言葉は出なかった。「正しいだけでは足りない」と言われなければ。「間違えた」と認めなければ。「努力します」と約束しなければ。


全部、繋がっている。


「……では」


声が出た。自分の声が、思ったより穏やかだったことに驚いた。


「どこにでも堤防を作ればいいですね」


ニコラウスの目が──見開かれた。


一拍。


それから、口元が緩んだ。あの不器用な笑い方だ。大きく笑わない。けれど目が緩む。


「設計は任せてください」


「施工は二人で」


「リーゼの監督が入りますが」


「あの子の監督はクラウスより厳しいですからね」


笑った。二人で。作業場の朝の光の中で。


──あの椅子が、まだ一センチ近い位置にあった。


帰任要請を受けた日に動かしたのだと、今なら分かる。離れたくないと、計算式のない方法で言っていたのだと。


あの日から──この人はずっと、答えを探していた。技師の言葉ではない言葉を。計算式のない場所に立つ方法を。


見つけたのだ。


堤防という──技師の語彙で。



合同管理体制の設計を始めた。


図面を広げて、二人で線を引く。いつもの作業だ。けれど今日は、いつもと線の意味が違った。


「リンデン伯爵領を本拠とし、旧辺境伯領への定期巡回を月二回。一回の滞在は五日から七日。緊急時はクラウスが初動対応し、早馬で二日以内に連絡」


「公国側の技術支援は、条約に基づく合同点検として年四回。うち二回はリンデン伯爵領、二回は旧辺境伯領で実施」


「ニコラウスの駐在先は──」


「リンデン伯爵領。本拠が同じであれば、巡回と合同点検の効率が最大化します」


本拠が同じ。


つまり──一緒にいる、ということだ。


技師の言葉で。設計図の上で。恋愛の問題を、得意な「設計」の方法で解決している。──この人らしい。私たちらしい。


「公国側の承認が必要です」


「提案書は既に送付済みです。公国河川局長宛に」


「……いつ」


「馬車の中で、カタリーナが『答えは急ぎません』と言った日の夜に」


答えを急がないと言ったのは私だ。けれどこの人は、その夜のうちに提案書を書いていた。


「答えが出ていなかったのではないのですか」


「答えは──技師としては出ていました。技師としてではない方の答えが、まだだっただけです」


(この人は──)


技師としての判断と、技師ではない感情を、別々に持っていた。技師の判断は即座に下した。提案書を書き、公国に送り、制度の枠組みを整えた。


感情の方は──数日かかった。


「堤防のある場所にいたい」という一言を見つけるのに。


不器用だ。どうしようもなく。


(けれど──嘘はない)


この人の設計図に、嘘がないように。



午後。マルタが手紙を持ってきた。


エーリヒからだ。封を切った。


『母上


ご報告します。テオの通称使用が学園長に承認されました。


申請書に先例の記録二件を添付し、テオの状況が要件に該当することを具体的に示しました。母上のご助言通り、要件との対応を箇条書きにしたのが効いたようです。学園長は申請書を読んで、十分もかからず承認してくれました。


テオは「ありがとう」と言いました。あの子がそう言ったのは初めてです。「エーリヒさんがいなければ、ずっと黙って蜂蜜パンを食べていた」と。


ここまでは報告です。


ここからは──報告ではありません。


テオが通称を認められた日、あの子は泣きました。教室の隅で、声を殺して。僕はそれを見て──なぜか、父上のことを思い出しました。


怒りではなく。


あの子が泣いているのを見た時、僕の中に浮かんだのは怒りではありませんでした。何だったのか、うまく言えません。


法律書には答えがあります。制度の中に道があります。でも、テオが泣いている理由は──制度では説明できません。あの子は姓が変わったから泣いたのではない。誰かが動いてくれたから泣いたのだと思います。


うまく言えません。


母上なら分かるでしょうか。


エーリヒ』


手紙を膝の上に置いた。


「うまく言えません」。


エーリヒがそう書くのは──初めてだった。


この子はいつも明確に、論理的に、条文のように書いてきた。法律書を読む子だ。証拠を揃えて、要件を満たして、結論を出す。感情を論理に変換するのが、この子の背骨だった。


その子が──「うまく言えません」と書いた。


テオの涙を見て、法律書では処理できない何かに触れた。怒りではない。悲しみでもない。名前のつかない感情。


(この子は──大人になっている)


大人になるということは、名前のつかない感情を抱えることだ。十年間、私がそうだった。ルートヴィヒの不在に名前をつけられなかった。「寂しい」とも「怒っている」とも違う、もっと複雑な何かを、帳簿の数字に埋めて暮らしていた。


エーリヒが、同じ場所に立ち始めている。


ペンを取った。


返信を書く。数字ではない言葉で。条文ではない言葉で。


『エーリヒ


通称使用の承認、おめでとう。あなたの調査と申請書が実を結んだこと、お母さまは誇りに思います。おじいさまにもお礼を言いなさい。


テオが「ありがとう」と言ったこと──大切にしなさい。誰かに動いてもらった経験は、あの子の中に残ります。あなたが法律書から道を見つけたように、あの子もいつか、誰かのために道を見つけるかもしれない。


「うまく言えない」ことについて。


うまく言えないことがあるのは、大人になるということです。法律書には答えがあります。帳簿にも数字があります。でも、人が泣いている理由は──数字では書けないことがあります。


お母さまも、まだ練習中です。


夏休みの薬草採り、楽しみにしています。


母より』


書き終えて、封をした。


「まだ練習中」。


嘘ではなかった。三日前、ニコラウスに「先に言ってほしかった」と伝えた時、私も「うまく言えない」感情の中にいた。怒りでもなく、悲しみでもなく、寂しさの変形のような何か。数字では片付かないもの。


数字では片付かないものを、数字では片付かない言葉で伝える練習。


──まだ、途中だ。



夕暮れ。


作業場で、図面を広げたまま二人で座っていた。


合同管理体制の設計図。巡回スケジュール。合同点検の日程。全て、午後いっぱいかけて書き込んだ。図面の上に、二人のペンの跡が交差している。


窓の外で、クレン河が夕日を映していた。水面が橙色に光っている。導流堤の石積みが、夏の夕暮れの中で影を落としている。


言葉はなかった。


ニコラウスが隣に座っている。半歩後ろではなく、同じ高さで。椅子が一センチ近い位置にあるから、肘が時折触れる。


図面の上に目を落とした。合同管理体制の設計図。私たちの──これからの設計図。


公国の承認は、まだ来ていない。提案書は送った。けれど、公国の政治判断がどう出るかは分からない。


分からないまま──図面を見つめていた。


「公国の返事は、早ければ来月です」


ニコラウスが言った。技師の声だった。けれど、目は窓の外を見ていた。


「待ちましょう」


私はそう答えた。


待つことは、もう怖くない。


十年間、一人で待っていた頃とは違う。


隣に──いる人がいる。


図面の余白に、小さな文字が並んでいた。ニコラウスの筆跡。「二人の堤防──リーゼの花壇、石積み点検記録」。その横に、今日書き足された一行。


『合同管理体制設計──本拠:リンデン伯爵領(カタリーナの紅茶に蜂蜜半匙)』


──紅茶に蜂蜜半匙。


この人は。


設計図の余白に、蜂蜜の分量を書く人が、どこにいるのか。


いるのだ。ここに。


笑った。声は出さなかった。唇だけが弧を描いた。


窓の外で、夕日が沈んでいく。


合同管理体制の道筋がついた。テオの問題が解決した。エーリヒが大人になっている。


まだ確定ではない。公国の承認が要る。


けれど──図面の上に、道は引かれている。


二人で引いた道だ。


夕暮れの光が、作業場の中に長い影を落としていた。図面の上の線が、橙色に染まっている。


蝋燭はまだ灯さなかった。


もう少しだけ、この光の中にいたかった。

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