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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第6話 数字で証明する


「定期巡回制の法的根拠について、ご説明申し上げます」──帳簿をつける時の声で、貴族院の壇上に立った。


王都の貴族院、東棟の審議室。条約の締結式が行われたのと同じ部屋だ。あの日は二通の羊皮紙に署名をした。今日は──管理権の審議に、提案者として立っている。


席には十二名の議員。財務官が一名。書記官が二名。傍聴席の端に、父アルブレヒトが座っていた。表情は動かない。いつもの父だ。


ニコラウスは傍聴席の反対側にいた。公国の技術顧問として同席を許可されている。外套を脱いで正装に着替えていたが、手だけはいつも通りだった。日に焼けた、節の太い手。あの手が膝の上で組まれている。


「旧辺境伯領の管理権委託にあたり、王家は『常駐管理者の配置』を条件として提示されました。本日はこの条件を『定期巡回制』に変更する提案と、その法的根拠をご説明いたします」


手元の資料を開いた。三十頁。条約の条文、復興実績データ、現地管理体制の報告書、流域図面の抜粋。二週間かけて整えた書類だ。数字は全て検算済み。一箇所の間違いもない。


「根拠は三点です」


声が安定しているのを、自分で確認した。帳簿をつける声。数字を読み上げる声。十年間、毎晩蝋燭の下で鍛えた声。


「第一に、クレン河流域治水協力条約の第七条。『共同管理の枠組みを維持する』とあり、管理の具体的方法は限定されていません。常駐も定期巡回も、条約上の要件を等しく満たし得ます」


頁をめくった。


「第二に、現地管理体制の実績です。旧辺境伯領には筆頭家臣クラウスを中心とする五名の管理チームが稼働しており、堤防の定期点検、水門の運用、護岸の維持管理を独立して遂行しています。直近半年の点検記録を添付いたしました」


フリッツの手帳から転記した数字が、頁の上に並んでいる。水位、流速、護岸の状態。あの若い家臣が毎朝五時に記録した数字が、今、貴族院の審議資料になっている。


「第三に、管理権者が定期的に巡回することで、常駐と同等の管理密度を維持できることを、シミュレーションにより示します」


ニコラウスの提案書から引いた数字を示した。巡回頻度、滞在日数、緊急対応までの所要時間。全て、条約の枠組みの中で成立する。


「以上をもちまして、定期巡回制への変更をご審議いただきたく──」


「待たれよ」


声が割り込んだ。


財務官だった。五十がらみの痩せた男。眼鏡の奥の目が細い。


「管理権を持つ者が常駐しなければ、責任の所在が曖昧になる。緊急時に管理者が不在であれば、誰が判断を下すのか」


「緊急時の判断権限は、現地管理責任者クラウスに委任する規定を設けます。管理権者への報告は早馬で二日以内に──」


「前例がない」


財務官が遮った。


「王家直轄領の管理権委託において、管理者が常駐しない形態は前例がない。前例のない制度を、この場で承認するわけにはいかん」


前例がない。


数字でも、条文でも、実績でも覆せない言葉だ。


議場がざわめいた。十二名の議員が顔を見合わせている。財務官の発言は重い。直轄領の管理に関しては、財務官の意見が審議の方向を左右する。


議長が口を開いた。


「定期巡回制の提案について、採決を行います」


挙手。


否決。


賛成四、反対六、棄権二。


──落ちた。


手元の資料を握る指に力が入った。三十頁。二週間。条約第七条。フリッツの点検記録。ニコラウスの提案書。全部揃えて、全部正しくて──通らなかった。


(計算は合っている。合っているのに)


数字が正しくても、政治の場では通らないことがある。帳簿の数字とは違う。帳簿なら、数字が合えば合格だ。貴族院では──数字の外側に、別の力学がある。


息を吐いた。吸った。壇上に立ったまま、視線を議場に戻した。


父が──微動だにしていなかった。否決を聞いても、表情が変わらない。この人は、もう少し先を見ている。


「──発言をお許しいただきたい」


声が響いた。


傍聴席の後方。立ち上がった人物を見て、議場が静まった。


ヘルマン・フォン・ダールベルク伯爵。


銀の混じった髪。仕立ての良い外套。鋭いが、冷たくはない目。旧辺境伯領の隣接領主であり、貴族院での発言力がある男。


──かつて、私に婚姻を持ちかけた男だ。


「議長のお許しがあれば、隣接領主として意見を述べたい」


議長が頷いた。ダールベルクが傍聴席から議場の中央に進み出た。


「諸卿にお尋ねする」


落ち着いた声だった。社交の場で何十年も磨かれた声。けれど──復興式典の日に「人間として認めさせていただく」と言った時の、あの声に近かった。


「旧辺境伯領を十年維持したのは、誰か」


沈黙。


「十年間の帳簿。堤防の補修記録。水利権の契約一覧。識字教室の運営。交易路の開拓。──全て、一人の女性の手で行われていた。そのことを、王家の査察が認定し、この貴族院が承認した」


ダールベルクの視線が、議場を一巡した。


「その女性が今、管理権を引き受けると言っている。十年の実績と、条約に基づく法的根拠を携えて。──我々がすべきは、前例がないと退けることか。それとも、実績を根拠に新しい前例を作ることか」


議場が──動いた。


空気が変わった。財務官が眼鏡を外して拭いている。議員たちの視線が、資料に戻っていく。


(あの男が──)


ダールベルク伯爵。かつて私を道具として見ていた男。私の能力を「資源」として組み込み、旧辺境伯領の管理権を手に入れようとした男。


その男が、今──功績者として私を推している。


皮肉だった。


けれど、それが効いた。


議長が再度、採決を呼びかけた。


「修正提案として、旧辺境伯領の管理権を定期巡回制のもとでカタリーナ・フォン・リンデン殿に委託する件について、再度採決を行います」


挙手。


賛成八、反対三、棄権一。


──承認。


壇上で、資料を胸に抱えた。


承認された。


管理権が──私の名前で。


貴族院の議事録に、「カタリーナ・フォン・リンデン」の名前が刻まれる。定期巡回制という新しい前例と共に。


元辺境伯の名前は──議事録のどこにも、出なかった。



 馬車が王都の門を出た。


 石畳から土の道に変わると、車輪の音が柔らかくなる。幌の中に夏の風が入り込んで、書類の端を揺らした。


 隣に、ニコラウスが座っていた。


 傍聴席からずっと黙っていた。否決の時も、ダールベルクの発言の時も、承認の時も。一言も発しなかった。


 馬車が街道に出て、速度が上がった。


「ニコラウス」


 敬称をつけなかった。仕事の時間は終わった。


「はい」


「あなたは、どうしたいですか」


 沈黙。


 馬車の車輪が、道の石を一つ越えた。


 ニコラウスの横顔を見た。窓の外の景色が流れていく中で、この人の顔だけが動かない。顎の線が硬い。唇が引き結ばれている。


「……技師として答えたくない」


 低い声だった。


「技師としてなら、答えは明確です。合同管理体制の提案書に書いた通り、定期巡回制が最も合理的で、駐在延長の根拠も十分にある」


 言葉が途切れた。


「けれど──技師として、ではなく」


 それ以上は、出てこなかった。


 口を開いて、閉じた。もう一度開いて──閉じた。


(この人は──)


 感情を言葉にする訓練を、してこなかった人だ。数字なら何時間でも語れる。設計図なら何十頁でも書ける。けれど「どうしたいか」と聞かれると──計算式がない。


 三日前の作業場を思い出した。「解決できない状態で不安を伝えるのが怖かった」と言った声。計算式のない問題を持ち込む怖さを、初めて言葉にした声。


 今日もまた、計算式のない場所に立っている。


「答えは、急ぎません」


 そう言った。


 ニコラウスが──少しだけ、肩の力を抜いた。


「ただ、答える時は──技師としてではなく、お願いします」


 馬車が揺れた。道の窪みを越えた拍子に、肩が触れた。ニコラウスの肩。外套越しの体温。


 触れただけだ。それだけで──今日一日の緊張が、少しだけほどけた。


 窓の外で、夏の空が広がっていた。王都の尖塔が遠ざかっていく。


 管理権は承認された。定期巡回制で。私の名前で。


 ニコラウスの答えは、まだない。


 けれど──「どうしたいか」と聞けた。


 今までは、ニコラウスが聞く側だった。「カタリーナ殿はどうされたいですか」と。いつも。


 今日、初めて──私が聞いた。


 馬車がリンデン伯爵領に向かって走っている。車輪の音が規則正しい。日が傾き始めている。


 帰ったら、フリッツの点検報告を確認する。管理権の正式な委託書の準備を始める。秋までに──やることは山ほどある。


 隣で、ニコラウスが窓の外を見ていた。何を考えているのかは分からない。


 分からなくていい。


 答えは急がない。この人が計算式のない言葉を見つけるまで、待つ。


 ──待てる自分が、十年前とは違う。あの頃は「もうすぐ帰ってくる」と言い聞かせながら、ずっと待っていた。待つことしかできなかった。


 今は、待ちながら、自分の仕事をする。管理権の手続き。巡回制度の設計。クラウスとの連携。


 待っている間も、止まらない。


 馬車の窓から、夕暮れの空が見えた。雲が橙色に染まっている。


 リンデン伯爵領まで、あと半日。

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