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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第5話 門の外の手紙


 部屋に、もう一人の息遣いがない。


 目を開けた。天井の染みが見える。安宿の天井は低くて、雨が降るたびに新しい染みが増える。右端の染みは先月からあった。左端のは──知らない。ロゼッタがいた頃は、天井の染みなど数えなかった。


 寝台の右半分が冷たい。もう三週間、あちら側に誰も寝ていない。


 ロゼッタは「もう疲れました」と言った。


 荷物をまとめる手つきは落ち着いていた。泣かなかった。怒りもしなかった。十年間、俺の傍にいた女が、最後に見せた顔は──諦めだった。


 扉の前で振り返った。


「私のことも、あの方のことも、テオのことも──貴方はいつも、何もしなかったのですね」


 否定できなかった。


 否定する言葉が、口の中で形にならなかった。何もしなかった? そんなことはない。ロゼッタのために王都に別邸を借りた。テオを育てる金を工面した。カタリーナにばれないように十年間──


(ばれないようにしていたことが、「何かをした」ことになるのか)


 ならない。


 分かっている。今なら、分かる。


 ロゼッタは実家に帰った。メルツ家は王都の外れの、小さな商家だ。ロゼッタはそこの娘で、未亡人を名乗っていたが実際には嫁いだことすらなかった。社交界で「遠縁の未亡人」と名乗り、貴族夫人たちに取り入り、噂を流し──全部、俺が黙認していた。


 あの女がいなくなって、部屋は静かになった。


 静かで、広くて、何もない。



 机の上に、封書が一通。


 学園の消印。宛名は「テオ・メルツの保護者殿」。


 グラーフェンベルクではない。メルツだ。学園の記録上、テオの姓はメルツのままだ。認知が済んでいないから──正確には、俺が済ませなかったから。


 封を切った。


 学園事務局からの通知。二学期に入り、テオが上級生から嫌がらせを受けている旨の報告。「姓を理由とした言動が確認されており、学園としても注視しております」。事務的な文面。必要最低限の情報。


(テオが──)


 封書を机に置いた。


 認知の手続きを、調べたことがある。爵位剥奪の直後に一度、そして復権嘆願が却下された後にもう一度。二度とも、同じ壁にぶつかった。


 庶子認知申請書。提出資格は「爵位を有する当主」に限られる。


 俺はもう爵位を持たない。グラーフェンベルク辺境伯の名は剥奪された。領地は王家直轄に編入された。貴族院に書類を出す資格すらない。


 代替手段を探した。平民としての認知手続き。──ない。この国の法制度では、庶子認知は貴族の家制度の中にしか存在しない。平民の子は生まれた時点で母の姓を名乗る。父が名乗らせたければ、婚姻するか、爵位を持って認知するか。


 婚姻はできない。離縁は成立している。ロゼッタとの婚姻も──ロゼッタはもういない。


 爵位はない。


 金もない。安宿の家賃を払うのがやっとだ。


 人脈は──残っていない。王都の旧友は全て離れた。クラウスにも拒まれた。父ヘルムートは隠居所に引きこもったまま、手紙にも返事をよこさない。


 全ての道が、塞がれている。


 二年前のエーリヒの入学式を思い出した。学園の門の前に立って、中に入れなかった。爵位のない人間は、門の中には入れない。門をくぐる権利は、中にいる人間だけが持っている。


 ──制度の門は、中からしか開かない。


 俺は、外に立っている。



 便箋を引き出しから出した。


 安宿の備え付けの、薄い紙。王都の文具店で買えるような上等なものではない。けれど──テオに手紙を書くのに、上等な紙は要らない。


 ペンを取った。


 書き出しが、浮かばない。


「テオへ」。


 それだけ書いて、止まった。


 この子に、何を書けばいい。


 十年間──テオが生まれてから今日まで、俺はこの子に手紙を書いたことがなかった。同じ屋根の下にいたから、必要がなかった。別邸で朝食を取り、庭で遊ぶのを見て、夕方になれば辺境伯領に戻る支度をした。手紙を書く場面がなかった。


 場面がなかったのではない。──書こうとしなかったのだ。


「学校は楽しいか」


 書いた。消した。


 また書いた。


「元気にしているか。もう少しかかる。体に気をつけて」


 ──これは。


 ペンが止まった。


 十年間、カタリーナに送っていた手紙と同じだった。三行。「元気にしている。もう少しかかる。体に気をつけて」。月の半分を王都で過ごしながら、辺境伯領にいる妻に送った定型文。あの三行を、カタリーナは十年間、本棚に並べていたらしい。


 同じことを書いている。


 同じ三行で、今度は息子をあしらおうとしている。


 便箋を破った。


 二枚目を引いた。


「テオへ。学校はどうだ」


 破った。


 三枚目。


「テオへ」


 ペンを置いた。


 指先が震えていた。何を書けばいいか分からない。十歳の息子に、父親が書く手紙。当たり前のことだ。当たり前のことが、書けない。


 ──カタリーナは三百二十四頁を書いた。


 十年分の仕事を、三ヶ月で。農地の作付け計画。水利権の契約一覧。堤防の補修記録。識字教室の教材。交易商ごとの取引条件。領民百十二世帯の事情メモ。


 一頁一頁が、あの女の十年間だった。


 あの引き継ぎ資料を渡された日、俺は「冗談だろう」と笑った。笑って、頁をめくって──青ざめた。


 三百二十四頁。あの分量を前にして、初めて理解した。この領地を回していたのは、俺ではなかった。


(ロゼッタは「何もしなかった」と言った)


(カタリーナは──三百二十四頁を書いた)


 何もしなかった男と、三百二十四頁を書いた女。


 俺が渡したものは何だ。カタリーナに。ロゼッタに。テオに。エーリヒに。リーゼに。


 何も、渡していない。


 三行の手紙と、嘘と、不在だけだ。


 ペンを取り直した。


 三枚目の便箋。「テオへ」の二文字の下に、ゆっくりと書いた。


「学校は楽しいか。友達はいるか」


 それだけ。


 当たり前のことだ。親が子に聞く、当たり前の質問。九年間、一度も聞かなかった質問。


「父より」


 署名を入れた。封をした。


 宛先は「王都学園寮 テオ・メルツ殿」。グラーフェンベルクではない。メルツだ。──俺が認知しなかったから、この子はメルツのままだ。


 手紙を出しに階下へ降りた。安宿の受付に託す。明日の便で学園に届くだろう。


 部屋に戻った。


 窓の外を見た。


 王都の街並みが見える。かつて社交界を闊歩した街だ。貴族院の尖塔が、午後の陽光に白く光っている。あの建物の中で条約が結ばれ、査察の結果が読み上げられ、俺の爵位が剥奪された。


 今は──他人の街だ。


 便箋の残りを引き出しにしまった。薄い紙が三枚、破ったものと、一枚、書き損じ。


 返事が来るかどうか、分からない。十歳の子供が、突然届いた父親の手紙にどう反応するか。読まずに捨てるかもしれない。当然だ。九年間、一度も手紙を書かなかった父親からの、唐突な二行。


 それでも──書いた。


 ロゼッタに言われたからではない。カタリーナに教わったからでもない。カタリーナは何も教えてくれなかった。教える義理がないのだから、当然だ。


 俺が、自分で書いた。


 それだけのことだ。それだけの、小さなことだ。


 窓を閉めた。部屋はまた静かになった。天井の染みが増えている。右端の古いのと、左端の新しいの。


 ──返事が来るまで、ここにいる。


 他に行く場所もないが、今はそれでいい。

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