第5話 門の外の手紙
部屋に、もう一人の息遣いがない。
目を開けた。天井の染みが見える。安宿の天井は低くて、雨が降るたびに新しい染みが増える。右端の染みは先月からあった。左端のは──知らない。ロゼッタがいた頃は、天井の染みなど数えなかった。
寝台の右半分が冷たい。もう三週間、あちら側に誰も寝ていない。
ロゼッタは「もう疲れました」と言った。
荷物をまとめる手つきは落ち着いていた。泣かなかった。怒りもしなかった。十年間、俺の傍にいた女が、最後に見せた顔は──諦めだった。
扉の前で振り返った。
「私のことも、あの方のことも、テオのことも──貴方はいつも、何もしなかったのですね」
否定できなかった。
否定する言葉が、口の中で形にならなかった。何もしなかった? そんなことはない。ロゼッタのために王都に別邸を借りた。テオを育てる金を工面した。カタリーナにばれないように十年間──
(ばれないようにしていたことが、「何かをした」ことになるのか)
ならない。
分かっている。今なら、分かる。
ロゼッタは実家に帰った。メルツ家は王都の外れの、小さな商家だ。ロゼッタはそこの娘で、未亡人を名乗っていたが実際には嫁いだことすらなかった。社交界で「遠縁の未亡人」と名乗り、貴族夫人たちに取り入り、噂を流し──全部、俺が黙認していた。
あの女がいなくなって、部屋は静かになった。
静かで、広くて、何もない。
◇
机の上に、封書が一通。
学園の消印。宛名は「テオ・メルツの保護者殿」。
グラーフェンベルクではない。メルツだ。学園の記録上、テオの姓はメルツのままだ。認知が済んでいないから──正確には、俺が済ませなかったから。
封を切った。
学園事務局からの通知。二学期に入り、テオが上級生から嫌がらせを受けている旨の報告。「姓を理由とした言動が確認されており、学園としても注視しております」。事務的な文面。必要最低限の情報。
(テオが──)
封書を机に置いた。
認知の手続きを、調べたことがある。爵位剥奪の直後に一度、そして復権嘆願が却下された後にもう一度。二度とも、同じ壁にぶつかった。
庶子認知申請書。提出資格は「爵位を有する当主」に限られる。
俺はもう爵位を持たない。グラーフェンベルク辺境伯の名は剥奪された。領地は王家直轄に編入された。貴族院に書類を出す資格すらない。
代替手段を探した。平民としての認知手続き。──ない。この国の法制度では、庶子認知は貴族の家制度の中にしか存在しない。平民の子は生まれた時点で母の姓を名乗る。父が名乗らせたければ、婚姻するか、爵位を持って認知するか。
婚姻はできない。離縁は成立している。ロゼッタとの婚姻も──ロゼッタはもういない。
爵位はない。
金もない。安宿の家賃を払うのがやっとだ。
人脈は──残っていない。王都の旧友は全て離れた。クラウスにも拒まれた。父ヘルムートは隠居所に引きこもったまま、手紙にも返事をよこさない。
全ての道が、塞がれている。
二年前のエーリヒの入学式を思い出した。学園の門の前に立って、中に入れなかった。爵位のない人間は、門の中には入れない。門をくぐる権利は、中にいる人間だけが持っている。
──制度の門は、中からしか開かない。
俺は、外に立っている。
◇
便箋を引き出しから出した。
安宿の備え付けの、薄い紙。王都の文具店で買えるような上等なものではない。けれど──テオに手紙を書くのに、上等な紙は要らない。
ペンを取った。
書き出しが、浮かばない。
「テオへ」。
それだけ書いて、止まった。
この子に、何を書けばいい。
十年間──テオが生まれてから今日まで、俺はこの子に手紙を書いたことがなかった。同じ屋根の下にいたから、必要がなかった。別邸で朝食を取り、庭で遊ぶのを見て、夕方になれば辺境伯領に戻る支度をした。手紙を書く場面がなかった。
場面がなかったのではない。──書こうとしなかったのだ。
「学校は楽しいか」
書いた。消した。
また書いた。
「元気にしているか。もう少しかかる。体に気をつけて」
──これは。
ペンが止まった。
十年間、カタリーナに送っていた手紙と同じだった。三行。「元気にしている。もう少しかかる。体に気をつけて」。月の半分を王都で過ごしながら、辺境伯領にいる妻に送った定型文。あの三行を、カタリーナは十年間、本棚に並べていたらしい。
同じことを書いている。
同じ三行で、今度は息子をあしらおうとしている。
便箋を破った。
二枚目を引いた。
「テオへ。学校はどうだ」
破った。
三枚目。
「テオへ」
ペンを置いた。
指先が震えていた。何を書けばいいか分からない。十歳の息子に、父親が書く手紙。当たり前のことだ。当たり前のことが、書けない。
──カタリーナは三百二十四頁を書いた。
十年分の仕事を、三ヶ月で。農地の作付け計画。水利権の契約一覧。堤防の補修記録。識字教室の教材。交易商ごとの取引条件。領民百十二世帯の事情メモ。
一頁一頁が、あの女の十年間だった。
あの引き継ぎ資料を渡された日、俺は「冗談だろう」と笑った。笑って、頁をめくって──青ざめた。
三百二十四頁。あの分量を前にして、初めて理解した。この領地を回していたのは、俺ではなかった。
(ロゼッタは「何もしなかった」と言った)
(カタリーナは──三百二十四頁を書いた)
何もしなかった男と、三百二十四頁を書いた女。
俺が渡したものは何だ。カタリーナに。ロゼッタに。テオに。エーリヒに。リーゼに。
何も、渡していない。
三行の手紙と、嘘と、不在だけだ。
ペンを取り直した。
三枚目の便箋。「テオへ」の二文字の下に、ゆっくりと書いた。
「学校は楽しいか。友達はいるか」
それだけ。
当たり前のことだ。親が子に聞く、当たり前の質問。九年間、一度も聞かなかった質問。
「父より」
署名を入れた。封をした。
宛先は「王都学園寮 テオ・メルツ殿」。グラーフェンベルクではない。メルツだ。──俺が認知しなかったから、この子はメルツのままだ。
手紙を出しに階下へ降りた。安宿の受付に託す。明日の便で学園に届くだろう。
部屋に戻った。
窓の外を見た。
王都の街並みが見える。かつて社交界を闊歩した街だ。貴族院の尖塔が、午後の陽光に白く光っている。あの建物の中で条約が結ばれ、査察の結果が読み上げられ、俺の爵位が剥奪された。
今は──他人の街だ。
便箋の残りを引き出しにしまった。薄い紙が三枚、破ったものと、一枚、書き損じ。
返事が来るかどうか、分からない。十歳の子供が、突然届いた父親の手紙にどう反応するか。読まずに捨てるかもしれない。当然だ。九年間、一度も手紙を書かなかった父親からの、唐突な二行。
それでも──書いた。
ロゼッタに言われたからではない。カタリーナに教わったからでもない。カタリーナは何も教えてくれなかった。教える義理がないのだから、当然だ。
俺が、自分で書いた。
それだけのことだ。それだけの、小さなことだ。
窓を閉めた。部屋はまた静かになった。天井の染みが増えている。右端の古いのと、左端の新しいの。
──返事が来るまで、ここにいる。
他に行く場所もないが、今はそれでいい。




