第10話 風が渡る
新しい堤防の上を、風が渡る。
春の風だった。冬を越えた草が芽吹き、水面が光り、石積みの目地に苔が厚くなっている。去年の春よりも、苔は濃い。根を張ったのだ。動かない石に、しっかりと。
──けれど今朝、最初に目に入ったのは、その堤防ではなかった。
◇
庭の花壇の前に、石が積んであった。
三段。膝の高さほど。河原の石を選んで、目地を詰めて、排水の隙間を一箇所だけ残した小さな堤防。設計図はない。二人で積んだ。一つ目の石をニコラウスが置き、二つ目を私が置き、三つ目はリーゼが「ここ!」と指差した場所に据えた。
その石の上に、今朝、花が載っていた。
黄色い花。名前は──リーゼに聞かないと分からない。ニコラウスが教えた花の一つだろう。花弁が小さくて、茎がまっすぐで、朝露に濡れて光っている。
リーゼが石の堤防の前にしゃがみ込んで、花の位置を調整していた。
「もうちょっと右。──右ったら右!」
誰に言っているのかと思ったら、フリッツだった。若い家臣が、花壇の向こう側で膝をついて、リーゼの指示通りに花の鉢を動かしている。
「カタリーナ様、助けてください……」
フリッツの目が救いを求めていた。堤防点検は一人でこなせるようになったが、九歳の少女の園芸監督には耐えられないらしい。
「リーゼ。朝ごはんの前に、あと何鉢?」
「三つ!」
「一つにしなさい。パンが冷めるわ」
「二つ!」
「一つ」
「……一つと半分!」
半分とは何だ。
結局リーゼは二鉢を並べ終えてから、泥だらけの手のまま朝食の席に飛び込んできた。マルタが「手を洗いなさい!」と追いかけた。
◇
朝食の席に、日が差していた。
紅茶の湯気が、窓から入る光に透けている。パンは今朝焼いたもので、まだ温かい。蜂蜜の瓶がリーゼの手の届く位置にある。──届きすぎている。マルタが瓶を少し遠ざけた。リーゼが不満そうな顔をした。
ニコラウスが向かいの席で紅茶を飲んでいた。いつもより半匙甘い紅茶を、何も言わずに。
父は庭に面した椅子で、朝の新聞を読んでいた。正確にはリンデン伯爵領の週報だが、父は「新聞」と呼ぶ。老眼が進んだのか、紙を腕の長さまで離している。
「マルタ。今朝の郵便は」
「はい、奥様。二通ございます。一通はクラウスより定例報告。もう一通は──」
マルタがわずかに微笑んだ。
「エーリヒ様からです」
封書を受け取った。学園の消印。日付は十日前。エーリヒの筆跡は、一年前よりずっと安定していた。もう幼さは残っていない。法律書を読み込んだ指が書く、正確な文字。
封を切った。
『母上
学園の一年目が終わります。法律の試験は上位でした。歴史は中位ですが、教官に「論述が正確すぎて面白みがない」と言われたので、来年は少し文章に色をつけてみます。ヴェーバー先生の付箋のせいで、僕の文章は条文に似ているらしいです。
テオのことをご報告します。
先日、学園の庭で少し話しました。あの子は一年間で友達が増えました。寮の商家の息子だけでなく、同じ授業の貴族子弟とも普通に話しています。姓のことを聞かれると「メルツだ」とだけ答えて、それ以上は何も言わないそうです。
あの子に会いました。
強い子です。
母上に似ていると思いました。
笑い方は父上に似ています。でも、笑っている理由が違います。父上は人前で笑うのが上手な人でした。テオは──嬉しい時に笑います。それだけです。嬉しくない時は笑いません。その正直さが、僕には少し眩しいです。
堤防のこと、式典のこと、ダールベルク伯爵のこと、全部マルタから聞きました。母上はきっと「大したことではない」と言うでしょう。大したことです。
それから、一つお願いがあります。
母上。来年の夏、ヴェーバー先生と一緒に薬草を採りに行く約束をしていたでしょう。
僕も連れて行ってください。
エーリヒ』
手紙を膝の上に置いた。
──来年の夏に、採りに行きましょうか。
あの日の声が、耳の奥で聞こえた。クレン河の合流点で、ニコラウスが声を嗄らしながら筆談で書いた言葉。冬の風邪で声が出なくて、紙の上に「来年の夏に薬草を」と書いて、私が「はい」と答えた。
あの約束を、エーリヒが覚えていた。マルタから聞いたのか、それとも──あの子は、何でも見ている。
「どうしました」
ニコラウスが、紅茶のカップ越しに私を見ていた。
「エーリヒが、薬草採りに行きたいと」
「……薬草」
「来年の夏に。三人で」
ニコラウスの手が──止まった。カップが唇の手前で浮いている。
「覚えて──いたのか」
「あの子は忘れませんよ。法律書に書いてあることも、書いてないことも」
ニコラウスがカップを置いた。耳が赤い。
「……三人は多い。薬草の採取は静かな方がいい」
「リーゼも行きたいと言いますよ」
「四人は──」
「マルタもついてきます」
「五人は──もう遠足です」
「遠足でいいではありませんか」
ニコラウスが──笑った。口元だけの、あの不器用な笑い方。
リーゼが「えんそくー!」と叫んだ。蜂蜜の瓶に手を伸ばした。マルタが「まず手紙を読み終えてからです!」と瓶を退避させた。父が週報の向こうから「騒がしいな」と言った。声は穏やかだった。
手紙を畳んで、封筒に戻した。
エーリヒの文字。テオのこと。薬草の約束。
──強い子です。母上に似ていると思いました。
(似ていない。あの子は私より、ずっと正直だわ)
◇
朝食の後、堤防の点検に出た。
クレン河の河川敷。朝の空気がまだ冷たい。春とはいえ、水辺には冬の名残がある。長靴の革は──もう足に馴染んでいた。一年半前に買った長靴。硬かった革が、毎朝の点検で、足の形になっている。
石積みの護岸に手を触れた。苔が指先にざらりと触れる。目地に異常はない。排水口も正常。導流堤の接合部を確認して、手帳に記録する。
──この作業を、昨日はフリッツが一人でやった。報告は正確だった。手帳の字は癖があるが、情報は過不足ない。
引き継ぎが、できている。
一人で抱え込まない。
ニコラウスが隣を歩いていた。同じ歩幅で。半歩後ろではなく。
手を繋いでいた。日に焼けた手。節の太い指。蝋燭を替え、椅子を動かし、銘板を刻み、花壇の石を積む手。
「水位、先月比で二センチ低下。安定しています」
「ああ。今年は雪解けが穏やかだった」
仕事の話だった。手を繋いだまま、水位の話をしている。
──おかしくはない。これが、私たちの日常だ。
後ろから、足音が聞こえた。
「待ってー!」
リーゼの声だった。堤防の草の上を走ってくる。花壇から持ち出した黄色い花を一輪、手に握って。
「走ると転びますよ!」
マルタの声が追いかけてくる。
リーゼが走り抜けていった。ニコラウスの外套の裾を掴んで、「お花、堤防にも飾る!」と宣言した。
「堤防に花は──」
「飾る!」
ニコラウスが私を見た。助けを求める目。堤防の設計はできても、九歳の花の配置には勝てない。
「一輪だけね、リーゼ」
「二輪!」
「一輪」
「……一輪と半分!」
また半分だ。
リーゼが堤防の石の隙間に花を挿した。黄色い花弁が、朝日に揺れている。石積みの灰色の中で、一輪だけが色を持っている。
──不思議と、悪くなかった。
庭に目をやると、父が縁側の椅子で本を読んでいた。週報ではない。何かの小説らしい。日差しが父の白髪に落ちて、銀木犀の影が揺れている。
マルタが縁側で父にお茶を出していた。父が「ありがとう」と言って、マルタが頭を下げた。いつもの光景だった。
エーリヒはここにいない。学園にいる。けれど手紙がある。来年の夏の約束がある。薬草を採りに行く。五人で。遠足のように。
テオは──あの子も、学園にいる。メルツの姓で。嬉しい時だけ笑う、正直な子。
ルートヴィヒは──
(どこにいるのだろう)
ふと、そう思った。一瞬だけ。
分からなかった。分からなくて──構わなかった。
あの人がどこにいるかを、私はもう知る必要がない。堤防の上にも、条約の中にも、この家の朝食の席にも、あの人の名前はない。忘れたのではない。覚える必要が、なくなったのだ。
風が吹いた。
春の風だった。堤防の草を揺らし、水面に波紋を作り、リーゼが挿した花を揺らしていく。髪が乱れる。ニコラウスの外套の裾が、同じ風になびいている。
手を繋いだまま、堤防の上に立っていた。
後ろでリーゼが笑っている。マルタが何か言っている。父が本を閉じて空を見上げている。
──子供たちのために。
十年間、そう言い聞かせてきた。堤防を直すのも、帳簿をつけるのも、離縁を決めたのも。全部、子供たちのために。
今は──違う。
子供たちは自分の足で立っている。エーリヒは法律書を読み、テオに声をかけ、薬草採りに行きたいと手紙を書く。リーゼは花壇を仕切り、堤防に花を飾り、蜂蜜を際限なく要求する。
私がいなくても、あの子たちは大丈夫だ。
だから──今、ここで笑っているのは、子供たちのためではない。
風が気持ちよかった。
隣に人がいた。
後ろで子供たちが笑っていた。
それだけで──笑えた。
誰のためでもない笑顔だった。
堤防の上を、風が渡っていく。




