第9話 忘れられた名前
「旧辺境伯領の復興が完了したことを、ここに宣言いたします」
王家直轄領管理官の声が、広場に響いた。
初夏の朝だった。ラウシュ河の堤防に沿った広場に、仮設の壇が組まれている。壇上には管理官と、領地代行のクラウスと──私。
風が吹いていた。増水期を越えた川面は穏やかで、朝の光が水面に散らばっている。
壇の下に、領民たちが集まっていた。
百人には届かない。堤防決壊の後に離散した世帯もある。けれど残った人たちが、ここにいる。パン屋のおかみ。水車小屋の老人。堤防工事で泥を運んでくれた若い農夫。識字教室に通っていた子供たちは、少し背が伸びていた。
マルタが朝、ドレスの襟を直してくれた。「奥様、式典ですから」と言いながら、ブローチの位置を三度確認していた。三度目は明らかに不要だったが、あの人の手が震えていたのは緊張ではなく──たぶん、別のものだ。
「復興顧問、カタリーナ・フォン・リンデン殿より、ご挨拶をいただきます」
名前を呼ばれて、壇上の前に立った。
広場が見渡せる。領民たちの顔が見える。クラウスが壇の端に立っている。ニコラウスは──壇には上がらなかった。聴衆の端、堤防寄りの場所に立っている。いつもの飾り気のない外套。技師の立ち位置だ。
「──おはようございます」
声が、自分の耳に届いた。少し掠れていた。
「復興顧問として、ここに立たせていただいています。けれど、私がお話しすることは多くありません」
広場が静まった。
「この堤防は、皆さんと一緒に作りました」
パン屋のおかみが、エプロンの端を握っていた。
「設計はニコラウス・ヴェーバー技師と私の共同です。石材の手配はクラウスが。石を運んだのは、ここにいる皆さんです」
息を吸った。初夏の空気は軽い。冬の見張りの夜とは違う。
「かつて私は、一人で堤防を築きました。七年かけて。──あの堤防は壊れました」
静寂。
「皆で築いた堤防は、増水に耐えました」
それだけ言って、頭を下げた。
拍手が──来た。
最初に手を叩いたのが誰か、分からなかった。波のように広がって、広場を満たした。口笛はない。歓声もない。ただ手を叩いている。静かな、けれど途切れない拍手。
顔を上げた。
おかみが泣いていた。水車小屋の老人が帽子を取っていた。若い農夫がまっすぐに私を見ていた。
──誰も、あの名前を口にしなかった。
ルートヴィヒ・フォン・グラーフェンベルク。元辺境伯。かつてこの領地の当主だった男。
式典の案内状にも、管理官の挨拶にも、領民の口にも。
一度も、出なかった。
怒られたのではない。恨まれたのでもない。ただ──いなかった。最初から、この堤防の上に、あの名前はなかった。
(忘れられた、のではない。覚えるものが、なかったのだ)
十年間、この領地の堤防に足を運ばなかった人間の名前を、堤防が覚えているはずがない。
壇を降りた。
◇
式典の後、管理事務所で昼食を兼ねた小さな集まりがあった。
クラウスが用意したパンと干し肉と、領民が持ち寄った果実酒。質素だが、十分だった。復興が完了したばかりの領地に、豪華な祝宴は要らない。
パンを千切りながら、領民たちと言葉を交わした。堤防の使い勝手はどうか。排水口の位置は問題ないか。次の冬に向けて、点検の頻度を確認しておくこと。
仕事の話だった。式典の日でも、やることは変わらない。
「リンデン殿」
声をかけられて、振り返った。
見覚えのある顔だった。五十代半ば。仕立ての良い外套。鋭いが、冷たくはない目。
ダールベルク伯爵。
かつて──婚姻提案を持ちかけてきた男だ。長男フリードリヒとの縁談を通じて、旧辺境伯領の復興と領地経営の実権を手に入れようとした。カタリーナ・フォン・リンデンの能力を「資源」として利用するための、政治的な取引。
断った。あの夜、数字を分解して、提案の本質が「契約」であることを確認して、先送りにした。結果として、条約の締結とザールフェルト公国との合意が、ダールベルクの統合計画を無効にした。
以来、この人とは直接顔を合わせていない。
「式典にお越しいただいたのですか」
「招待状が届いたのでな」
短い声だった。この人はいつもこうだ。必要なことだけを、必要な量だけ言う。
ダールベルク伯爵が、広場の堤防に視線を向けた。新しい石積みが、午後の光に白く輝いている。銘板の銅が、青緑色に光っている。
「見事な堤防だ」
「ニコラウス・ヴェーバー技師との共同設計です」
「知っている」
ダールベルク伯爵が、視線を私に戻した。
「リンデン殿」
「はい」
「私の見る目は正しかった」
息が、一瞬止まった。
「あなたの能力は本物だ。──それは、あの提案の時にも分かっていた」
声が低くなった。けれど、傲慢さはなかった。
「ただ、使い方を間違えた」
沈黙。
「道具として使おうとした。それは──誤りだった」
ダールベルク伯爵の目が、まっすぐだった。損得を超えた何かが、あの鋭い目の奥にあった。
「人間として、認めさせていただく」
それだけ言って、一礼した。深い一礼だった。政治家の社交辞令ではない。
私は──何も言えなかった。
言えなかったのは、喉が詰まったからではない。この人が「道具」と「人間」の違いを口にしたこと、それ自体が──あの婚姻提案を断った日の私への、一つの答えだったからだ。
「……ありがとうございます」
ダールベルク伯爵は頷いて、踵を返した。随行の家臣が後に続く。馬車に乗り込む前に、もう一度だけ堤防を見上げていた。
◇
夕暮れ。
式典の片付けが終わり、領民たちが家路についた後。
管理事務所の裏手、堤防に続く小道をニコラウスと歩いていた。
西日がラウシュ河を橙色に染めている。増水期の痕跡は消え、水位は安全圏に落ち着いていた。新しい石積みが、夕日に温められて、ほんのりと色づいている。
ニコラウスが黙って歩いていた。式典の間もずっと聴衆の端にいて、拍手もせず、ただ堤防を見つめていた。
「今日は壇に上がらなかったのですね」
「私は設計者であって、顧問ではありません。壇上は──カタリーナ殿の場所です」
敬称がついている。まだ仕事の延長だと思っているのだろう。
「式典は終わりましたよ」
「……カタリーナ」
敬称が外れた。声が半音低くなった。
「一つ、提案があります」
「技師としての提案ですか」
「技師としてではなく」
──また、あの言葉だ。
水源の石を渡してくれた日。増水の前に銘板を嵌めた日。そして今日。
「もう一つ、堤防を作りませんか」
足が止まった。
「どこに」
「家の庭に」
「庭に──堤防を?」
「リーゼの花壇を守るための、小さな堤防です」
声が──掠れていた。いつもの技師の声ではなかった。
「大雨の時に花壇の土が流れるでしょう。石を三段ほど積めば防げます。リーゼが植えた花が倒れないように」
花壇の堤防。
国家間条約に基づく導流堤。旧辺境伯領の護岸復興。増水に耐えた新しい堤防。
──その全部の後に、庭の花壇の石積み。
三段。
「ニコラウス」
「はい」
「それは──設計図が要りますか」
「要りません。二人で積めばいい」
笑った。
笑ってしまった。堤防の上で、夕日の中で、声を出して。
ニコラウスの耳が赤い。けれど──口元が緩んでいた。あの不器用な笑い方だ。
「帰りましょう。リーゼが花壇の場所を決めたいと言っていたでしょう」
「ああ。──リーゼの指示は、クラウスより厳しい」
手を繋いだ。
日に焼けた手。節の太い指。堤防を設計し、銘板を刻み、蝋燭を替え、椅子を動かし、石を積む──その手が、私の手を包んでいる。
堤防の上を、夕暮れの風が渡っていく。
ラウシュ河が橙色に光っている。新しい石積みの上に、銘板の銅が夕日を受けている。私の名前と、ニコラウスの名前。
あの名前は、どこにもない。
条約にも。銘板にも。領民の口にも。式典の壇上にも。
忘れられたのではない。
──最初から、ここには、なかったのだ。




