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夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第5話 名前で呼ぶ


 あの領地の空気は、十年前と同じ匂いがした。


 馬車の幌を上げた瞬間、鼻腔に入り込んできた。土と、水と、枯れ草と、かすかに甘い何か。蜂蜜草だ。ラウシュ河の河川敷に自生する野草で、秋になると黄色い花をつける。あの花の匂いだけは、どこに行っても忘れなかった。


 旧辺境伯領グラーフェンベルク。


 馬車で三日。リンデン伯爵領から北西へ、街道を抜けて、丘を越えて。最後の峠を越えた時に見えた景色は──変わっていなかった。なだらかな丘陵地帯。遠くにラウシュ河の水面が光っている。畑の一部が休耕地になっているのが、ここからでも分かる。堤防決壊の傷跡だろう。


 けれど空は広かった。辺境の空は、いつも広い。


「カタリーナ殿。到着です」


 ニコラウスが幌の外から声をかけた。馬車の半日前から馬で先行し、クラウスとの連絡を済ませていたのだ。


 馬車を降りた。


 領地の入口──かつて辺境伯邸に続く街道の分岐点に、人が集まっていた。


 十人ほど。多くはない。朝の仕事を終えて集まったのだろう。農夫の格好をした男たち。頭巾を被った女たち。子供が二人、大人の脚の後ろに隠れてこちらを覗いている。


 知っている顔があった。


 水車小屋の老人。識字教室に通っていた若者。堤防工事の時に泥を運んでくれた農夫。


 ──みんな、まだいた。


 最初に口を開いたのは、水車小屋の老人だった。


「お帰りなさいませ、カタリーナ様」


 カタリーナ様。


 「お母さま」ではなかった。


 私の名前で──呼んだ。


「お帰りなさいませ」


 声が重なった。農夫が。若者が。子供の後ろに立つ母親が。


 全員が、「カタリーナ様」と言った。


(名前で──)


 かつてこの領地にいた頃、領民たちは私を「お母さま」と呼んだ。辺境伯夫人としてではなく、領地を守る母親のように。それが嬉しくて、それが重くて、それが十年間の日常だった。


 今日は違った。


 名前で呼んでいる。庇護者としてではなく、一人の人間として。


「……ただいま戻りました」


 声が、少しだけ震えた。振り絞ったのではない。勝手に震えた。


 頭を下げた。領民の前で。かつて辺境伯夫人としてこの場所を去った日にも、頭を下げた。あの日は「十年間、ありがとうございました」と言った。


 今日は──何も言えなかった。頭を下げただけだった。


 それで十分だった。



「お元気そうで何よりです、カタリーナ様」


 クラウスが、領主館──今は王家直轄領の管理事務所となった建物──の玄関で待っていた。


 五十近い筆頭家臣は、以前より少し痩せていた。白髪が増えている。けれど立ち姿は変わらない。この人はいつもまっすぐに立つ。四十五年この領地にいた男の、根が張ったような立ち方だ。


「クラウス。お変わりなく」


「変わりましたよ。白髪が倍になりました」


 冗談めかして言ったが、目が笑っていなかった。この一年半、直轄領の管理官として、崩壊した堤防と離散する領民を一人で支えてきたのだ。


「報告書に書いた通りです。──いや、報告書より酷いかもしれません。現場を、ご自身の目で」


「案内してください」


 長靴を履いた。新しい長靴。半年前に買った革の長靴は、もう足に馴染んでいた。



 ラウシュ河の堤防は──壊れていた。


 知っていた。報告書で読んでいた。数字で把握していた。


 けれど、目の前にすると数字が別のものになった。


 南東の屈曲部。引き継ぎ資料の三十二頁目に書いた箇所。毎年春に水圧が集中する場所。冬のうちに裏込め材を補充しなければ持たないと、図面を添えて記した場所。


 なかった。


 堤防そのものが、なかった。


 石積みの護岸が崩れ、土が流され、河川敷に瓦礫が散乱している。応急処置の土嚢と丸太が並んでいるが、増水期に耐えられる代物ではない。丸太の一本が、すでに傾いていた。


 その下流。二次浸食が広がっている。水流が変わったせいで、護岸の基礎が削られ、本来なら水面の下にあるべき地層が露出していた。


「……ここが、三十二頁目の箇所ですか」


 ニコラウスが隣に立っていた。声が低かった。技術報告の声ではない。


「はい」


「報告書の記載より──遥かに深刻です。基礎ごと持っていかれている。上から石を積み直すだけでは足りない。地盤の処理から始めないと」


 クラウスが頷いた。


「応急処置が精一杯でした。資材も人手も──」


「十分です、クラウス。よく持たせてくれました」


 私はそう言って、河川敷に降りた。


 長靴が泥に沈む。膝まではいかない。渇水期だからだ。増水期にここに立つことはできない。


 崩壊した護岸の残骸を、手で触れた。


 ──石積みが残っていた。


 崩壊した箇所の上流側。まだ原形を留めている護岸の一部。私が七年間かけて補修し、積み直し、毎年冬に目地を詰め直した石積み。


 指先で、石の表面をなぞった。


 苔がついている。安定の証だ。この部分は壊れなかった。七年前に積み直した石が、まだここにある。


「カタリーナ殿」


 ニコラウスが、私の隣に降りてきた。同じ石積みに手を触れている。


 指が──止まった。


「石の積み方が、上流と下流で違う」


 低い声だった。


「上流側は目地が粗い。石の選び方も不揃いです。けれど下流に行くにつれて、目地が均等になり、石のサイズが揃ってくる」


 指が、石積みの表面をゆっくりと辿っていく。上流から下流へ。年代の古い方から、新しい方へ。


「年ごとに技術が上がっている。最初の年と、七年目では──まるで別の人が積んだように見えるが、手の癖が同じだ。同じ人間が、毎年少しずつ上手くなっていった」


 ──石から、読んだ。


 この人は私の七年間を、石積みの目地と石のサイズから読み取った。


 最初の年。何も分からなかった頃。治水の専門書を取り寄せ、ニコラウスに書簡で質問を送り、見よう見まねで石を積んだ。不揃いで、粗くて、素人の仕事。


 七年目。堤防の補修計画を一人で立案し、石材商と価格交渉をし、作業員を指揮できるようになった年。目地を均等に詰め、石のサイズを揃え、水圧の方向を計算して配置した。


 その全部が──石に残っている。


「これを一人で七年──」


 ニコラウスの声が、途切れた。


 絶句していた。


 技師が言葉を失うのは珍しい。数字の話なら何時間でもできるこの人が、石積みの前で黙っている。


「……素人でしたから。最初の年は、ひどいものだったでしょう」


「ひどくない」


 即答だった。


「最初の年の石積みが、七年目まで持っている。素人の仕事なら、三年で崩れる。──持ったのは、毎年の点検と補修を欠かさなかったからです」


 石から手を離した。ニコラウスの手も。


 二人の手が泥で汚れていた。同じ泥。同じ石。同じ河川敷。


「新しい堤防を設計しましょう」


 ニコラウスが言った。声が戻っていた。技師の声に。


「今度は、二人で」


「ええ」


 立ち上がった。長靴の泥を気にせず、護岸の残骸を見渡した。崩壊した箇所。応急処置の土嚢。二次浸食の範囲。全部、頭の中に入れた。


「今度は引き継ぎ資料を作らなくても大丈夫なように、最初から複数人で管理する体制を組みます。クラウス、現地の作業員で信頼できる者を三名、選んでください」


「承知いたしました」


 クラウスの返事が──少しだけ震えていた。嬉しいのだろう。一人で支えてきた重荷を、ようやく分けられると。



 管理事務所に戻る道すがら、領地の集落を通った。


 かつて毎日歩いた道だ。パン屋。仕立屋。薬種屋。水車小屋。識字教室があった建物は、今は空き家になっている。窓が板で塞がれていた。


 パン屋の前で、足が止まった。


 店は開いていた。小さな看板。焼きたてのパンの匂い。十年間、毎朝この匂いを嗅ぎながら執務室に向かっていた。


 扉が開いて、おかみが出てきた。


 太った、陽気な女性。この人の店が傾きかけた時、交易路を組み替えて小麦の仕入れ値を下げる算段をしたのは──もう三年以上前のことだ。


「──カタリーナ様」


 おかみの目が、大きく見開かれた。


「カタリーナ様。本当に──本当に来てくださったんですね」


 声が詰まっている。目が潤んでいる。エプロンで手を拭きながら、店の前に駆け出てきた。


「お久しぶりです。──お店、続けてくださっていたのですね」


「ええ。ええ、なんとか。カタリーナ様が小麦の仕入れ先を見つけてくださったおかげで。あの取引条件が今も生きていて──」


 おかみが、はっと口を押さえた。


「あの──」


 言い淀んでいる。何かを言おうとして、言葉を選んでいる。


「前は──『お母さま』とお呼びしていましたね」


「ええ」


「今は名前で呼ばせてください」


 おかみの声が、変わった。涙声ではなくなっていた。まっすぐに私を見て、言った。


「もう、庇護していただく子供ではありませんから」


 ──ああ。


「この店は、カタリーナ様に助けていただいて、でもその後は自分で回してきました。堤防が壊れた時も、交易路が止まった時も。カタリーナ様がいなくても──なんとかやりました」


 おかみの目が、誇らしかった。


 涙ではなく、誇りで光っていた。


「だから。お母さまではなく、カタリーナ様と。名前で」


 胸が、じんと熱くなった。


「……ありがとう」


 それしか言えなかった。


 おかみがパンを一つ、布に包んで差し出した。焼きたての、丸い小麦パン。


「これ、お持ちください。お隣の技師の方にも」


(お隣の──)


 振り返ると、ニコラウスが三歩ほど後ろに立っていた。いつから見ていたのか分からない。表情はいつも通りだったが、目の奥が──少しだけ柔らかかった。


「ありがとうございます。──おいしそうだ」


 ニコラウスがパンを受け取った。おかみが「あら、良い声ね」と笑った。ニコラウスの耳が赤くなった。



 夕暮れ。管理事務所の一室で、復興計画の骨子を組んでいた。


 机の上に図面を広げ、ニコラウスと二人で崩壊箇所の設計方針を詰めていく。地盤処理の工法。護岸の構造。石材の選定基準。工程表。


 クラウスが選んだ作業員三名の名前が、メモに書かれている。明日から、この三人に堤防の基礎知識を教え始める。点検の方法。記録の取り方。異常の見分け方。


「一人では抱え込まない体制を最初から作る」


 声に出して、自分に確認した。


 ニコラウスが頷いた。何も付け足さなかった。付け足す必要がなかったのだろう。


 窓の外で、ラウシュ河の水面が夕日を映していた。壊れた堤防の残骸が、橙色の光の中に黒い影を落としている。


 あの堤防は壊れた。


 七年かけて、一人で築いた堤防は。


 けれど──石積みは残っていた。最初の年の不揃いな石から、七年目の均等な目地まで。全部残っていた。壊れたのは、手入れをやめた箇所だけだ。


(新しい堤防を作る。今度は壊れないように。──いや、壊れても直せるように)


 一人で直さなくてもいいように。


 ペンを取り、設計図面の一枚目に線を引き始めた。


 隣でニコラウスのペンも動いている。二本の線が、同じ図面の上を走っていく。


 秋の夕暮れが、旧辺境伯領の空を染めていた。蜂蜜草の匂いが、開けた窓から漂ってくる。


 十年前と同じ匂い。


 けれど──隣にいる人が、違う。

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