表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が十年間「出張」と言い張った先に、もうひとつの家庭がありました  作者: 秋月 もみじ
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/63

第4話 門の内と外


王都学園の門は、思っていたよりも大きかった。


鉄格子と石柱。門柱の上に、王家の紋章を戴いた鷲の彫刻。秋の朝日を受けて、冷たい金属が鈍く光っている。門の向こうに、赤煉瓦の校舎が見える。手入れの行き届いた芝の庭。等間隔に植えられた菩提樹の並木。


一年半前、エーリヒの入学手続きでこの学園に来た。あの時は事務棟の受付で書類を出しただけだった。門の奥までは入っていない。


今日は、入る。


保護者として。


「母上。制服の襟、曲がっていませんか」


エーリヒが門の前で立ち止まり、自分の襟元に手をやった。濃紺の制服は新品で、肩の線がまだ硬い。十一歳になった長男は、この半年でまた背が伸びた。


「曲がっていないわ。──堂々としなさい」


「堂々としています」


言い返しながら、指先が襟を直す仕草を三度繰り返していた。この子は動揺すると手が動く。法律書を握る時もそうだ。


ニコラウスが私の隣に立っていた。今日は公国の紺色の正装ではなく、飾り気のない、けれど清潔な上着。名誉技術顧問の称号を持つ公国の功労者として、保護者席に座る資格がある。


髪は──少しだけ撫でつけてあった。いつもの癖のある黒髪を、無理やり後ろに流した跡がある。朝、鏡の前で格闘したのだろう。


(この人なりの、精一杯なのだわ)


門をくぐった。



入学式は、大講堂で行われた。


高い天井。磨かれた石の床。正面の壇上に学園長と教官たちが並び、半円形の保護者席が講堂の後方を占めている。新入生たちは中央の長椅子に座っていた。濃紺の制服が揃って並ぶ様は壮観だ。


保護者席に着いた。隣にニコラウス。


周囲に、見知らぬ顔が並んでいる。王都の貴族たち。仕立ての良い外套、整った髪、値踏みの入った微笑み。社交界の空気だ。十年間、辺境伯領にいた私にとって、この空気は少しだけ──遠い。


「リンデン殿ですか」


隣の席の婦人が、声をかけてきた。四十代半ばだろうか。穏やかな顔立ちに、観察力のある目をしている。


「はい。カタリーナ・フォン・リンデンです」


「ああ、やはり。──条約の共同設計者の」


息が、一瞬止まった。


「主人が貴族院の末席におりまして、公聴会の話は伺っておりますわ。治水の条約を設計なさったとか。素晴らしいことですわね」


条約のリンデン殿。


──逃げ帰った妻、ではなく。


「恐れ入ります。多くの方のお力添えがあってのことです」


社交辞令を返しながら、胸の奥で何かが静かに震えた。名前が変わっていた。王都の社交界で、私の名前に付く言葉が。


婦人の向こうに座っていた男性が、こちらに目礼した。別の保護者も。一人、また一人。


知っている。この人たちは知っている。貴族院の公報で。条約の署名で。公聴会の記録で。


カタリーナ・フォン・リンデンという名前を。


(十年間──誰にも名前を呼ばれなかった仕事が)


今、名前と共に知られている。


壇上で学園長が式辞を述べ始めた。新入生たちが姿勢を正す。その中に、エーリヒの背中が見える。まっすぐだった。肩に力が入っていない。襟元を気にする仕草も消えている。


あの子は──自分の場所に立っている。


学園長の声が講堂に響く。歓迎の辞。学園の規律。勉学への期待。


聞きながら、私は新入生の列を目で追っていた。濃紺の制服が並ぶ中に──


いた。


列の端。少し小柄な少年。栗色の髪。横顔が──


(テオ)


あの子だ。一年半前、王都の街路で辻馬車に乗り込む姿を見た少年。馬車の窓からほんの数秒、車輪を眺めていた無邪気な横顔。


十歳になっている。エーリヒより一つ下。平民枠で、メルツの姓で、ここにいる。


制服を着ている。他の子供たちと同じ濃紺の制服。列の中にいる。端ではあるが──列の中だ。


テオは前を向いていた。学園長の話を聞いている。少しだけ背伸びをするように顎を上げて。


(あの子は──ここにいる)


親の事情に振り回されて、姓を変えて、平民枠で試験を受けて。それでもここに立っている。


視線を戻した。エーリヒの背中を見た。


この子も、ここにいる。



式が終わった。


新入生たちが講堂から出てくる。保護者たちが廊下で待ち受け、子供の肩を叩いたり、制服の皺を直したりしている。秋の光が、校舎の窓から廊下に差し込んでいた。


エーリヒが歩いてきた。制服の襟はもう気にしていない。


「母上。式は滞りなく終わりました」


「ええ。立派だったわ」


「母上のその『立派だったわ』、もう数えていません」


口元だけ笑って、私の隣のニコラウスに目を向けた。


背筋を伸ばした。


「ヴェーバー先生」


「はい」


「保証人の欄、先生の名前で書きました」


知っている。朝食の席で聞いた。けれどエーリヒは改めて──学園の廊下で、保護者たちの視線の中で、もう一度言った。


「ありがとうございます」


深いお辞儀だった。


ニコラウスの耳が、赤くなった。


答えようとしている。口を開いて──閉じた。もう一度開いて。この人は感情を言葉にする能力が極端に低い。技術の話なら何時間でもできるのに。


「……こちらこそ」


それだけだった。それだけしか出てこなかった。


けれどお辞儀を返す動作が丁寧で、エーリヒの目をまっすぐ見ていた。半年前の初夏、庭で同じように頭を下げたあの日と──同じだ。あの日から、何も変わっていない。変わっていないことが、この人の誠実さだった。


エーリヒが顔を上げた。


視線が──廊下の向こうに向いた。


新入生の列から少し離れた場所に、一人の少年が立っていた。


テオだった。


壁際に寄るようにして、保護者の群れを避けている。迎えに来た大人が──いない。周りの子供たちには父親や母親が寄り添っているのに、テオの傍には誰もいなかった。


エーリヒの目が、テオを捉えた。


私の体が、わずかに強張った。


(この子は──どうする)


エーリヒが私を見た。


まっすぐに。あの目で。全部を見ている、容赦のない、けれど──今日は、それだけではない何かが混じった目。


「母上。あの子に声をかけてきます」


止めなかった。


止める理由がなかった。


エーリヒが廊下を歩いていく。濃紺の制服の背中が、人波の間を抜けていく。保護者たちの隙間を縫って、壁際のテオに近づいていく。


テオがエーリヒに気づいた。


体がこわばった。顔が強張っている。──知っているのだろう。エーリヒが誰の息子か。自分が誰の息子か。その二つがどういう関係にあるか。十歳の子供は、知っている。


エーリヒが足を止めた。テオの前に。


距離があって声は聞こえない。けれどエーリヒの口が動いた。短い言葉だった。


テオの顔が──変わった。


こわばりが解けたのではない。驚きに変わったのだ。目が見開かれ、口が半分開いて、何か言おうとして言えずにいる。


エーリヒがもう一度、口を動かした。今度はほんの少し長い。


テオが──頷いた。小さく。


二人の間の空気が変わるのが、遠目にも分かった。緊張が消えたのではない。緊張は残っている。けれどその上に、何か──子供同士の、名前のない何かが載った。


エーリヒが踵を返して戻ってきた。


「何と言ったの」


「『ここでは名前で呼び合おう』と」


──名前で。


グラーフェンベルクでもリンデンでもメルツでもなく。エーリヒとテオ。名前で。


家門の因縁を、十一歳の少年が一言で棚に上げた。棚に上げたのであって、なかったことにしたのではない。因縁はある。あるけれど──この場所では、名前で呼び合う。それだけ。


「……お見事ね」


「母上のその──」


「もう数えていないのでしょう。知っています」


エーリヒが──笑った。少しだけ。


ニコラウスが、私の隣で微かに息を吐いた。安堵だったのかもしれない。私にも、正確なところは分からなかった。



帰り道。学園の門を出て、馬車に向かう道すがら。


秋の午後の光が、街路樹の葉を透かしている。金と赤の葉が石畳に散り敷いて、風が吹くたびにかさかさと音を立てた。


「母上。一つだけ」


エーリヒが馬車に乗り込む前に、振り返った。


「あの子──テオは、笑うと父上に似ています」


胸の奥で、何かがちりと痛んだ。


「けれど笑い方は違います。──父上より、明るかった」


それだけ言って、エーリヒは馬車に乗り込んだ。


私は門の方を振り返った。鉄格子と石柱。門の向こうに、学園の赤煉瓦。


門の内側に、二人の少年がいる。名前で呼び合う約束をした、二人の少年が。


馬車に乗った。扉が閉まる。車輪が動き出す。


ニコラウスが隣に座っていた。何も言わなかった。ただ──手が、座席の上で私の手のすぐ近くにあった。触れてはいない。半指分の距離。


その距離のまま、馬車は王都の街路を走っていった。



──同じ日の朝。学園の門の外。


門は、中からしか開かない。


当たり前のことだ。入学式の日、保護者は受付で名前を確認されて門をくぐる。招待状と身分証明。爵位保有者か、貴族院に登録された家門の者か、特別な功労者か。


俺は、どれにも該当しない。


門の前に立っていた。石柱の横の、街路樹の影に。朝の光がまだ低くて、門の鉄格子に長い影が伸びている。


保護者たちの馬車が次々と門をくぐっていく。上等な馬車。仕立ての良い外套を着た男女。子供の肩を抱いて、晴れやかな顔で門の向こうに消えていく。


俺だけが、外にいる。


テオは朝早くに一人で学園に入った。平民枠の入学生は、保護者同伴の義務がない。──義務がないのではなく、保護者が来られない者も多いから、そういう制度になっている。


テオは何も言わなかった。「行ってきます」と言って、俺の顔を見て、笑った。


あの笑い方は、誰に似たのだろう。


俺には似ていない。ロゼッタにも似ていない。テオだけの笑い方だ。


門の向こうで、式典の鐘が鳴った。始まるのだろう。


鉄格子の隙間から、赤煉瓦の校舎が見える。芝の庭。菩提樹の並木。濃紺の制服を着た子供たちが講堂に入っていく。その中に──テオの後ろ姿があった。


小さかった。


列の端を歩いている。少し背伸びをするように顎を上げて、前を向いている。周りの子供たちは保護者に手を振ったり、笑い合ったりしている。テオは振り返らなかった。


(──振り返るな)


心の中で、そう思った。振り返ったら、門の外に立っている男が見える。入る資格のない男が。


テオは振り返らなかった。


講堂の扉が閉まった。


門の外に、俺一人が残された。秋の風が、落ち葉を石畳の上で転がしていく。


しばらく立っていた。


何分経ったか、分からない。門の向こうから、学園長の声がかすかに漏れ聞こえてくる。歓迎の辞。規律。勉学への期待。──俺には関係のない言葉ばかりだ。


帰ろうとした。


足が、動かなかった。


あの引き継ぎ資料を思い出していた。三百二十四頁。カタリーナが書いた、あの資料。全頁が妻の手書きで、俺の筆跡は一文字もなかった。


テオの入学申請書も、俺は書けなかった。


爵位がない。保護者としての権限がない。認知の手続きは放置した。面倒だったから。──面倒だったから。


面倒を先延ばしにする癖が、十年分の堤防を壊し、妻を失い、爵位を奪い、今──十歳の息子を一人で門の中に送り込んだ。


門柱に背をもたれた。石が冷たかった。


テオは今、あの中にいる。メルツの姓で。平民枠で。けれど──あの中にいる。試験に受かって、自分の力で。


俺が何もしなかったから、あの子は自分でやるしかなかった。


(……エーリヒもそうだったのか)


カタリーナが毎朝五時に堤防に行っていた間、エーリヒは窓から見ていた。母親が泥の中に入っていくのを、九つの目で。


テオも見ていたのだろうか。父親が門の外に立っているのを。


鐘が鳴った。式が終わったのだ。


門の向こうから、子供たちの声が聞こえてくる。笑い声。呼び合う声。保護者に駆け寄る声。


その中に──テオの声は、聞こえなかった。


俺は門の外に立ったまま、しばらく聞いていた。


それから、踵を返した。


来た道を戻る。街路樹の落ち葉を踏みながら。秋の光が低くて、自分の影が長く伸びている。


──あの子は、門の外に俺がいたことを知っているだろうか。


知っていてほしいような、知らないでいてほしいような。


どちらが正しいのか、俺には──まだ、分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ