第3話 蝋の長さ
王家の朱印が押された委託書を、私は机の上に置いた。
重い羊皮紙。正式な書式。文面は簡潔だったが、一字一字に公的な重みがあった。
『リンデン伯爵家顧問カタリーナ・フォン・リンデンを、旧辺境伯領グラーフェンベルクの復興顧問に任ずる。治水事業を中心とした領地復興の計画立案および実施を委託する』
復興顧問。
旧辺境伯領──かつて私が十年間暮らした領地。堤防を直し、帳簿をつけ、識字教室を開き、交易路を拓いた場所。ルートヴィヒの名前で報告されていた仕事を、十年間やり続けた場所。
爵位剥奪の後、王家直轄領に編入された。けれど直轄管理の維持コストが高く、復興は進んでいない。堤防は応急処置のまま。交易路は寸断されたまま。
その復興を──私の名前で、任される。
委託書の署名欄の上に、活字で刻まれた名前。「カタリーナ・フォン・リンデン」。条約文書に続いて、二度目の公式文書だ。
ルートヴィヒの名前は、どこにもない。
(復讐のつもりはない。一度も)
そう思いながら、指先で朱印をなぞった。蝋の凹凸が、かすかに指に伝わる。
──この文書も、消えない。
◇
委託書と同じ日に、クラウスからの報告書が届いた。
旧辺境伯領の筆頭家臣。四十五年あの領地にいた男だ。ルートヴィヒの爵位剥奪の後も、王家直轄領の管理官として留任している。あの領地に、あの人がいてくれたことが──今になって、どれほど大きかったか分かる。
報告書を開いた。
数字が並んでいた。堤防の損傷箇所の一覧。応急処置の状態。増水期までの残り期間。必要な資材の見積もり。
読み進めるにつれて、指先が冷たくなった。
堤防の損傷は、予想より深刻だった。
南東の屈曲部──引き継ぎ資料の三十二頁目に書いた箇所。毎年春に水圧が集中する場所。冬のうちに裏込め材を補充しなければ持たないと、図面を添えて記した場所。
完全に崩壊していた。
応急処置として土嚢と丸太で仮の護岸が組まれているが、次の増水期に耐える強度ではない。設計からやり直す必要がある。
それだけではなかった。
崩壊箇所の下流に、二次的な浸食が広がっていた。水流が変わり、護岸の基礎部分が削られている。放置すれば、次の春に堤防ごと持っていかれる。
増水期まで、数ヶ月。
報告書を閉じた。
机の上に、委託書と報告書が並んでいる。右に、復興顧問の任命。左に、復興の困難を示す数字の列。
(……やれるだろうか)
一瞬、その問いが頭をよぎった。
七年間かけて築いた堤防が、三ヶ月で壊れた。応急処置すら十分ではなく、損傷は広がり続けている。設計からやり直すとなれば、流域の再測量から始めなければならない。資材の手配、作業員の確保、工程の策定。あの領地で十年間やってきた仕事を、遠隔で。しかも増水期という期限つきで。
(一人では──無理だ)
一人では。
そう思った瞬間、不思議と胸が軽くなった。
十年前の私なら、「一人でやるしかない」と歯を食いしばっていた。誰にも頼れず、誰にも名前を呼ばれず、毎朝五時に泥の中に入って。
今は違う。
フリッツがいる。クラウスがいる。父がいる。マルタがいる。
そして──ニコラウスがいる。
「やれる」
声に出した。机の上の報告書に向かって。
「今度は、一人ではない」
◇
作業場に入ると、椅子が窓際に寄せてあった。午前の光がちょうど背中に当たる位置。
(……今朝も)
気づいてはいた。半年前から、毎朝この椅子は同じ位置に動いている。エーリヒに暴露されるまで、掃除のついでだと思っていた。掃除は午後だと知った今も、ニコラウスは何も言わない。私も何も言わない。椅子は毎朝、黙って日当たりの良い場所にある。
座った。日差しが温かい。
十時に、扉が叩かれた。
「カタリーナ殿。旧辺境伯領の件で参りました」
ニコラウスの声。一分も違わない。
「どうぞ」
扉が開く。飾り気のない外套。日に焼けた手に、鞄と──大判の紙の筒。図面だ。
「公国河川局に、旧辺境伯領の流域データが保管されています。堤防決壊時の下流域影響調査で取得したものです。お持ちしました」
会議机の上に図面を広げた。旧辺境伯領のラウシュ河流域。精緻な等高線と、流速の注記。二年前の調査データだが、地形の基礎情報としては十分使える。
「クラウスの報告書です。損傷箇所の一覧と、応急処置の状態」
報告書を隣に並べた。図面の上に、損傷箇所を書き込んでいく。南東の屈曲部。下流の二次浸食。合流点の護岸劣化。
ニコラウスのペンが、図面の上を走った。損傷箇所の周辺に、流速の推定値を書き込んでいく。
「この屈曲部──引き継ぎ資料に書かれていた箇所ですね」
「はい。三十二頁目です」
声に出して、少しだけ胸が軋んだ。あの資料の三十二頁目。図面も添えた。補修に必要な資材の量と、発注先の石材商の名前まで書いた。
読まれなかった。実行されなかった。
「設計からやり直す必要があります。応急処置の上に本工事を載せるのは危険です」
ニコラウスの声は、いつもの技術報告の調子だった。感情を挟まない。数字と事実だけ。
「同意です。流域の再測量は──現地に入らないと難しいですか」
「データの照合はここでもできますが、崩壊箇所の正確な状況は目視が要ります。特に二次浸食の範囲は、現場を見ないと設計に落とせない」
「つまり──現地入りが必要、ということですね」
「はい」
ニコラウスが図面から目を上げた。
「二人で行きましょう」
──二人で。
あの領地に。私が十年間暮らした場所に。堤防を築いた場所に。ニコラウスと二人で。
「ええ。──二人で行きましょう」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
図面の上を、二人のペンが行き来した。損傷箇所の優先順位。資材の概算。工程の粗いスケジュール。増水期まで数ヶ月。厳しい期限だ。
けれど──手が動く。ペンが走る。数字が並んでいく。
一人ではない。
それだけで、数字の列が怖くなかった。
◇
夜。
書斎で報告書の整理をしていた。
クラウスへの返信の下書き。復興計画の骨子。増水期までの工程表の叩き台。委託書を受け取ったその日のうちに、ここまで組み上げるのは──十年間の癖だ。仕事を溜めない。先に動く。資材の手配は一日遅れると工期が一週間延びる。
ペンを走らせる手が止まった。
蝋燭が──明るい。
妙に明るかった。いつもなら、この時間にはもう少し暗い。芯が短くなって、火が揺れ始める頃だ。
蝋燭を見た。
新品だった。
昼に作業場で仕事をして、夕食を済ませて書斎に戻ってきた時には、もう新しい蝋燭が立っていた。昨日使い切ったはずの蝋燭が、今日も新品に替わっている。
(……マルタが替えたのだろう)
そう思った。侍女が蝋燭の管理をするのは当然のことだ。
けれど──いつ?
夕食の後、マルタはリーゼの入浴の付き添いをしていた。その前は厨房にいた。書斎に入る時間がなかったはずだ。
翌朝。朝食の席で、何気なく聞いた。
「マルタ。書斎の蝋燭、毎晩替えてくれているのね。ありがとう」
マルタがきょとんとした。
「いいえ、奥様。蝋燭は旦那様が替えておられますよ」
紅茶のカップが、唇の手前で止まった。
「夕食の後、お書斎に入られて。蝋燭の残りを確認して、短くなっていたら新しいものに替えておられます。毎晩」
毎晩。
ニコラウスは朝食の席で、パンを千切っていた。何の表情も変えずに。エーリヒが法律書を読んでいるのを横目に見ながら、いつも通りの顔で。
(この人は──)
朝は椅子を動かし、夜は蝋燭を替えている。
言葉では何も言わない。椅子のことを聞かれれば「換気の確認」と答え、蝋燭のことは自分からは一言も触れない。
言葉ではなく、蝋の長さで気遣う人だ。
(直接言ったら、この人はまた「仕事の効率のため」とか何か言うのでしょうね)
だから──直接は言わなかった。
紅茶を淹れる時に、ニコラウスの分だけ蜂蜜を半匙多く入れた。
カップを渡した。ニコラウスが一口飲んで、ほんの一瞬──眉がわずかに動いた。甘さの違いに気づいたのだろう。
何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
リーゼが「ニコラウスのおちゃ、あまいのー?」と聞いた。
「いつもと同じだ」
ニコラウスが平静な声で答えた。
嘘だった。いつもより半匙甘い。
けれど──この人が「いつもと同じ」と言ったのなら、明日からこれが「いつも」になる。
蝋燭を一本。蜂蜜を半匙。
言葉にしない気遣いの応酬が、朝食の席の隅で、静かに積み重なっていく。
◇
午後、改めて復興計画の工程表に向かった。
クラウスの報告書。ニコラウスの流域データ。委託書の写し。全て机の上に並べて、数字を組んでいく。
堤防の設計。資材の調達。作業員の確保。現地入りの日程。増水期までの逆算。
数字を書く。数字を読む。数字を計算する。
──三箇所の間違いは、もうしない。
あの夜──ダールベルクの提案を断った夜に計算を間違えた、あの夜から。ニコラウスに「明日やり直しましょう」と言われた、あの夜から。
数字は裏切らない。頭が冷えていれば、正確な計算ができる。
工程表の末尾に、日付を入れた。現地入りの予定日。来月の初め。
旧辺境伯領に──戻る。
復興顧問として。カタリーナ・フォン・リンデンの名前で。
そして──隣に、ニコラウスがいる。
窓の外で、春の夕暮れがクレン河を橙色に染めていた。導流堤の石積みが、低い光に浮かんでいる。
書斎の蝋燭は──今夜もまた、新品に替わっているだろう。
あの人が、黙って。




