2話
よろしくお願いします
文化祭を控えた教室は普段よりも物があちらこちらに散乱している。一応はきちんと片付けられてはいるのだが、それもある程度までで、それ以上は諦めたのであろう。折り紙で作った輪の飾りなどが段ボールから飛び出していた
本来であれば、準備に時間を割くため、授業が短縮されるのだが、愛理の通う学校は進学校ということもあり、授業の短縮はされない。その為、文化祭の準備に使える時間は限られている。先日も授業が終わるとクラスの皆が集まり文化祭の準備をいそいそと行った
教室では先生が教壇に立ち、黒板にチョークを立てる音だけが響いていた。愛理はその内容を熱心にノートに書き写す
—ヴヴヴヴヴヴ……
ポケットにしまってある携帯が振動する。振動している時間はごくわずかだった。それだけで愛理は着信が意味する事を理解する。——任務だ
愛理は小さくため息をつくと、今日も文化祭の手伝いができないということをクラスメートになんて言い訳をしようかと思案するのだった
「ただいま」
誰もいない家の中に向かって愛理は言う。当然、誰からの返事もない。いつもの日常で、いつもの孤独だった。だが、それもつい先日までの事だ
愛理が靴を脱ぎ二階へと続く階段を見上げると、そこには下を覗き込むようにこちらを見るコーギーの顔があった
「ただいま! ポテト!」
近くの公園で拾ったコーギーが愛理の帰りを出迎えてくれる。帰りを持ってくれる誰かがいるという事がこんなにも幸せなのだという事を愛理は初めて知った
「今、行くから待っててね」
リビングに入り、鞄をテーブルに置くと愛理は足早に2階へと上がって行った
「いい子にしてた?」
目に飛び込んでくるポテトに話しかける。ポテトは愛理がつけた名前だ。茶色の毛並みと、ずんぐりむっくりな愛らしい体から、じゃがいもを連想してつけた
「まだ、時間は大丈夫よね。少し遊んであげられるかな」
時計を確認し、愛理は呟く。昼過ぎに連絡があった任務は夕方からの開始だ
「おいで!」
後ろにいるポテトに愛理は声をかける。少しでもポテトと触れ合う時間を作り、仲良くなりたかった。ポテトはとても大人しい犬で、頭もいい。だが、どこか余所余所しさも感じるのだ。恐らく以前に飼われていた飼い主から虐待を受けて捨てられたのだろう
心の中では人間を怖がっているのだ。だからこそ、ああして、少し離れたところからこちらを伺うように見ているのだ
そんな心を少しでも癒してあげたい
部屋に入り、ベッドに寄りかかるように座る。それに続いて、のそのそとポテトが部屋に入ってくる
「ボールで遊ぼっか」
父が買ってきてくれた手のひらサイズの柔らかいボールを手に持つ。八畳程度の狭い部屋だが、端から端に投げればそれなりに距離はある
「それ!」
ポーンっとボールを部屋の隅に投げると、壁に当たり跳ねた。柔らかい素材で、申し訳ない程度の空気しか入っていないので、そこまで弾まない。その代わり、物にぶつかっても安心だ
愛理とポテトはボールが弾む様子をじっと見つめていた
「え……っと」
本来、犬という動物はボール遊びが好きなのではないだろうか? テレビで見た犬はボールに飛びついて楽しそうだったのを見たことがあった。だが、ポテトは興味がないといった様子でボールを見つめていた
「ボールは好きじゃなかったかな? う〜ん、どうしよう」
ボール遊びをすれば少しは心を開いてくれるかもしれない。そう考えていた愛理は期待はずれの結果に困った顔をし、首を傾げる
——ッドダダダ!!
突如、ポテトがボールに向かって走りだす。時間差をつけての猛ダッシュに愛理は驚く
ボールをくわえたポテトはそのまま首を左右に振り、ボールにじゃれついていた
「あはは、すごいすごい。持っておいで!」
愛理が手を広げると、ポテトはまるで言葉が通じるかのようにボールを持ってくる。それを受け取った愛理は驚きながらもポテトを褒め、再びボールを投げる
今まで一人だった時間は、気がつけばとても満たされた時間へと変貌していた
ひとしきり遊び終わり、時計を見ると夕方に差し掛かっていた。楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去ってしまう
「あ、そろそろ行かないと……」
任務があるのだ。その準備をしようと立ち上がると、ポテトが見上げるようにこちらを見ていた
「ごめんね。出かけなくちゃいけないの。帰ってきたらまた遊ぼうね」
なにか言いたげに上目遣いをするポテトをぎゅっと抱き締めると、愛理は準備をするためにリビングへと降りていった
「少々狭いが、中々便利な物が揃っているな」
アシュリーはそう言いながら、部屋の中を興味津々といった様子で眺めている。公園で暮らすこと数日、気がつけば俺は女子高生の家に居候することになっていた
かつての吹きさらしで砂の地面とは打って変わり、今では冷暖房完備のふわふわベッドでの生活だ。なんという幸運。素晴らしい。あとなんかすごくいい匂いがする
当初、両親に反対されて、また公園生活に戻るというのも想像していたのだが、思った以上に愛理パパと愛理ママは俺を可愛がってくれていた
先日なんか、誰にも頼まれていないのに、愛理パパがホームセンターで大量のペット用品を購入してきたのだ
ペットフード、トイレ用品、散歩道具に遊び道具と既に一式揃っている
俺が住むことになったのは、俺を拾ってくれた愛理の部屋だ。すごくいい匂いがするし、美少女高校生と一緒に住めるのは嬉しいのだが、正直な話、外が良かった
理由は一つだ。女子高生の部屋で用を足すのはものすごく勇気がいるのだ。もちろん、朝と夜に散歩に連れて行ってくれているので、今の所、部屋の中で用を足したくなったことは一度もない。だが、これから先はわからない
年端もいかない少女の室内を自分の糞の匂いで充満させ、さらにはその後片付けまでしてもらう光景を眺めている自分を想像して欲しい
……無理無理。そういう趣味のある人ならご褒美なのかもしれないが、それはごく少数だろう
そんな俺の願いは届くことはなく、こうして愛理の部屋にいるわけだが……やはりというか、アシュリーがうるさくて仕方ない。見るものすべてが気になるらしく、あれはなんだ、これはなんだとしつこいのだ
最初はドヤ顔で教えてあげていたんだが、部屋にあるもの全部を聞かれると、さすがに面倒になってくる
「おい、ユーイチ。これはなんだ?」
ほらきた。とはいえ、無視するのは可哀想なので、仕方なく立ち上がる
「ただいま」
玄関が、がちゃりと鳴り、可愛らしい少女の声が聞こえた。愛理が帰宅したのだ
「む? 帰ってきたか?」
(出迎えるか!)
アシュリーの興味が愛理に移った今がチャンスだ。また、他に興味が移る前に俺は廊下へと出て階段へと向かう
この家の階段はL字の中折れ階段だ。その為、階段を降りなくても下が覗き込める
俺からすればかなりの高さなので下を覗き込むのは少々怖いのだが。
恐る恐る下を覗き込むと、ちょうど靴を脱いだ愛理と目があった
「ただいま! ポテト! 今行くから待っててね」
笑顔で俺に声をかけてくる。こんな可愛い女子高生に飼ってもらえるなんて、俺はなんて幸運なのだろうか。名前は正直、微妙ではあるが……
ポテトは俺の新しい名前だ。愛理ママ曰く、じゃがいもみたいだそうだ
「ポテト……呼んでるぞ……くっくっく」
当初、意味がわからなかったアシュリーだが、その曰くを聞いてツボに入ったらしい。俺の名前が呼ばれるたびに腹を抱えて笑っているのだ。くそが。俺のことを馬鹿にするのは良い。だが、じゃがいもを馬鹿にするな
別にそこまで、じゃがいもに思入れがあるわけではないが。
リビングに荷物を置いた愛理が階段を上がってくる。俺は三歩ほど下がってそれを待った
というのも、今時の女子高生はスカートが短すぎるのだ。足元に行こうものなら、モロ見えだ。モロ見え
「おいで」
愛理が部屋に入るので、俺も続けて入る。すると愛理がおもむろにボールを持ってそれを放り投げた
突然の愛理の行動に驚きながらもボールの軌道を目で追う。なにをしているのだろうか? あれか? 友達がいないから、ああして一人遊びをしている子なのだろうか?
それは幾ら何でも悲しすぎるだろう
「ボールは好きじゃなかったかな? う〜ん、どうしよう」
え? 俺に投げたのか。ああ、そうか犬だったな。犬って言えばボール遊びだよな。まじかよ
目の前の可愛い少女が悲しそうな表情をする。そこで俺はハッとする
祐一、お前は自分のプライドの為に目の前の恩人を見捨てるのか? そんな事が許されるわけがない。お前は犬だ。祐一。そう俺は犬なのだ
恥じらいも外見も犬には関係ない。いや、ぶっちゃけ、いい大人があんなボール遊びに夢中になるってどうなのよという考えは捨てきれない。俺はその葛藤を押し込め、野生の本能に忠実になる決心をした
——ッドダダダ!!
ボールに一直線に走ると滑り込むようにボールへとかぶりつく。そして、そのボールを愛理の元へと持って行った。愛理は嬉しそうに俺の頭を撫でてくれた。喜んで貰えてなによりだ
「ほら!」
再び愛理がボールを投げる。俺は間髪入れずに駆け出してボールを追った
ここで、俺はとある事実に気がついた。先ほどはボールが止まっていたので、噛み付くのは簡単だったのだが、今回は違った。ボールが跳ねているのでうまく噛みつけないのだ
そう、止まっている物を噛み付くのは誰でもできる。だが、動いている物を噛み付くのは技術が必要なのだ
これはいい修行になるのではないだろうか?
確かに現実世界ともなれば、かつていたアクアホルンほど危険は少ないように見える。だが、いざという時に動けないのは危険だ
ボールが跳ね上がり、落ちてくる。俺の目線に落ちてきた時が勝負だ
(オラァァァ!!!)
俺の噛みつきは空を切った。なるほど、一筋縄ではいかないということか。ならば、もう一度……いや、待てよ? なにもピンポイントを狙う必要はないのではないだろうか? 動いているのであれば、動かなくし、確実に息の根を止めるのだ
俺は確信を持って愛理にボールを渡す。——次は仕留める
愛理の手に持たれたボールをじっと見つめ、その一挙手一投足を観る。見るのではなく観るのだ
いつでも駆け出せるように、体を揺らしその時を待つ
そしてその時は来る
愛理の手から放たれたボールは曲線を描き、俺の背後へと投げられた。あの放り方と角度……さっきと同じだ
俺はボールを見ずに振り返り、一直線に駆ける。先ほどと同じ距離にボールが投げられたと理解しているからだ。勝負はすでに始まっている
全力には遠く及ばない程度の力で駆ける。落ちる場所はすでに把握している。それを踏まえた上でのダッシュだ。すると計算通りに俺の前方に上からボールが落ちてきた
——ビンゴだ
問題はここからだ、ピンポイントで噛み付くのは技術がいる。俺はそこまで天才肌ではない。ならば、確実に仕留める方法でいく——
(いまだ!!)
俺は前足を伸ばし、対象へと飛びつく。そう、動く物体への噛みつきが難しいのであれば、動かなくすればいいのだ
昔の偉い人も言っていた
「動くなら、動くの止めよう、あのボール」
なんつって笑
(ほぉああああ!!)
——ドスン
ここで想定外の出来事が起きる。掴む前に俺の鼻にボールが当たり、軌道が変わったのだ。なんと言う不運
運命までもが、俺を否定するのか
そう、決して俺の手足が短いと言うわけではないのだ
ボールは俺をあざ笑うように、俺の手をすり抜けていく。まるで叶わない夢のように。
だが、俺は諦めない、諦めたらそれで終わりだ
俺は何度も何度も跳ねるボールに飛びつく
——ッガシ
時はきた。俺の前足に収まったボールは先ほどまでの勢いをなくし、うなだれている
(手間ぁかけさせやがって……ここが年貢の納め時だ)
——ッブンブン!!
噛み付くだけではダメだ。息の根を止めるのだ。俺はボールに噛み付いたまま顔を左右に振る。これは生きるか死ぬかの勝負なのだ
そしてボールはピクリとも動かなくなる
——勝利
「すごいすごい。はい! 持っておいで!」
愛理が俺の勇姿に賞賛の拍手を送ってくる
「楽しそうだな。遊んでもらえてよかったな。ポテト……ぷぷっ!」
そんな俺をアシュリーがにやにやと見つめてきた。違う、楽しいんじゃない。これは修行なんだ——
「帰ってきたら、また遊ぼうね」
ああ、そうだな。遊びじゃなくて、修行だけどな




