或る密偵の祝福。
※密偵カラス視点となります。
緊張感に包まれていた屋敷の中に、大きな泣き声が響く。
木陰に潜みながら、室内の様子を窺っていたオレの耳にもソレは届いた。
無意識に声の方へと向けていた視線を、居室へと戻す。
目を離していたのは一瞬であったにも拘らず、さっきまでいたはずの人物の姿がそこにはない。この家の女主人の伴侶、レオンハルトは、目にも留まらぬ速さで駆けていったようだ。
少し遅れて、オレの護衛対象がその後を追う。
慌てたせいで躓いたのか、よろけながら部屋を出ていく後ろ姿は滑稽ですらある。何気ない仕草すら、優美さと威厳が漂う王太子殿下と同一人物とは、とても思えない。
しかし、それを見て笑う気は起こらなかった。
オレ自身も一瞬とはいえ、護衛対象の事が頭からすっぽ抜けていたのだから。
「生まれたのか」
零れ落ちた呟きは、まるで他人のもののようだった。
現実味がなく、何処か遠くの出来事のように感じる。壁を隔てた向こう側という意味ではない。もっと遠く、異国から流れてきた噂話のように。
だというのに何故か、胸が騒ぐ。
柔らかな筆先で胸の内側を擽られているような、温かな液体で隅々まで満たされていくような。なんとも不思議な、味わったことのない感覚。
酷く落ち着かないのに、嫌な気分ではなかった。
「男の子だって」
木の枝が僅かに軋む音と共に、隣に男が現れる。
いつも通りの神出鬼没。気配もなく、上から降ってきたのは、この家の密偵であるラーテだった。
「……夫よりも先に、オレに教えるなよ」
今さっき、部屋を飛び出していったばかりの旦那は、まだ我が子の性別を知らないだろう。ついでに、兄である王太子も。
「いいじゃない。カラスだって知りたかったでしょ?」
「……」
興味がないとは口が裂けても言えない。
無言で目を逸らすと、ラーテは喉を鳴らすように笑った。
「なんかオレ、凄い瞬間に立ち会っている気がする」
らしくもない穏やかな声で言うラーテを、反射的に見る。
しゃがんだ姿勢で頬杖をついた彼は、声と同じく柔らかな表情をしていた。
「……そうだな」
屋敷内の張り詰めた空気が消え、徐々に喜びが伝播していく。
いつもは淑やかな侍女達が頬を染め、満面の笑みで語り合い、忙しなく働いていたメイド達は手を取り合って、飛び跳ねている。庭師見習いの少年がソワソワと落ち着きない様子で屋敷の中を窺い、普段なら彼に雷を落とす庭師の頑固爺も上の空だ。
ここからでは見えないが、厨房や洗濯場でも同じような光景が広がっているのだろう。
そして、そろそろ対面を果たしたであろう父親や伯父も、全身で喜びを表しているに違いない。
ここまで、待ち望まれた子供は珍しい。
子供を育てる余裕のない貧民や平民だけでなく、裕福な家でも、喜ぶ人間の数と同じくらい、苦々しく思う人間がいるものだ。
正妻と愛人の確執や、傍系親族の野心、親族同士の足の引っ張り合いに派閥争い。喜ぶ側の人間だって、寿ぎながらも頭の中で、懐に入るコインの枚数を数えている。
ただ、ただ、祝い、喜び、愛される。
そんな風に生まれる命が、この世でどれだけいるのだろうか。
「本気でびっくりした」
ラーテは、ぽつりと零す。
視線を落とすと、彼は遠くを見るような目をしていた。
「オレが今まで生きてきた中で大切にしたいって思えたの、お嬢さんだけだったからさ」
否定はしなかった。
ラーテは姫さんだけでなく、プレリエ公爵家の人間や領民も守ろうとしている。しかし、それはラーテ自身が彼等を大切に思っているからではない。あくまで、『姫さんが大事にしているもの』だからだ。
「お嬢さんを損なう可能性のあるものを、大切にする自信がなかった。……もちろん、お嬢さんの大事な子供に危害を加えるつもりは端からなかったよ? ちゃんと守るつもりだってあった。でも、好意は持てないかもしれないなって」
「……お前のライバルだもんな」
姫さんから生まれたかったという、気色悪いセリフは未だに忘れられない。
呆れと軽蔑が混ざった声で吐き捨てるが、ラーテは全く堪えた様子もなく、「そうそう」なんて軽く頷いた。
「お嬢さんから切り離された瞬間、オレはその子をどう思うんだろうって……実はちょっと怖かった」
「…………」
冷めた目で、ラーテを見下ろす。
もしこの男が、姫さんの息子の敵になるのだとしたら。今は大人しくても、将来的にいつか牙を剥く可能性があるのだとしたら。
オレが引導を渡してやろう。
他の密偵や騎士では、この男を止められない。人並みな弱みと真っ当な精神を持つ人間では駄目だ。陰湿で残忍なこの男の手の内を知るオレでなくては。
殺気立つオレに気付いているのか、いないのか。
のんびりと体を伸ばしたラーテは、へにゃりと笑み崩れる。
「でもねぇ、可愛いの」
「……は?」
「いやぁ、本当、びっくりよ。まさかオレが、子供を可愛いって思える日が来るなんてさ。たぶん誰よりも、オレが一番驚いている」
へらへらと笑いながら、ベラベラと絶え間なく喋っている男を、オレは唖然としながら見つめた。
「一瞬しか見えなかったけど、しわくちゃで真っ赤でさ。お猿みたいなのに、何でか輝いて見えるんだよねぇ。天使かと思った」
「……気色悪いことを言うな」
懐の暗器に掛けていた手をそっと外す。
コイツは有害な変態ではあるが、同時に有能な戦力でもある。プレリエ公爵領の治安維持の為にも、残しておいた方が良いだろう。
安堵の息を零すのとほぼ同時に、頭上で羽音が響く。
木漏れ日が上空で旋回する影を落としたかと思えば、スイと優雅に一羽の烏が手元に滑り込んできた。
「お、相棒のお帰りか」
ラーテの声に不快感を示すように、烏はバサリと羽根を広げる。
オレの相棒はオレに似て、ラーテが嫌いだ。頭の良い鳥なので騒いだりはしないが、たまに威嚇している。
宥めるように、烏の首回りを撫でた。
「すまないが、もう一働きしてもらうぞ」
餌の木の実を食べさせてから、また足に文を括りつける。
姫さんが産気づいたという知らせを送って、まだ四時間も経っていない。まさか、こんなにも早く第二便を送る羽目になるとは思わなかった。
超過労働が不服なのか、ややウンザリした様子で片足を上げる相棒に、乾燥させた果実の欠片を与えると、嬉々として食べ始める。
賄賂のお陰か、どうにか機嫌は上向き、烏は颯爽と飛び立っていった。
さて。王都で待つ上司は、どんな顔で文を開くのやら。
「……アイツにも教えてやるか」
ふと、別の任務に当たっている同僚の顔が思い浮かぶ。
密偵としては、まだまだ新人。しかし、元来の性格か、人の懐に入り込むのが上手い。その上、貴族出身で語学も堪能である為、国外の任務を命じられる事が多い。
おそらく今も、遠い異国の地にいるはず。
最愛の妻を亡くし、自らの行いで名前と共に親族や友も失った男にとって、親友夫婦の存在は生き甲斐に等しい。
「ヒグマくん、喜ぶだろうねぇ」
「ああ」
「でも、オレ達三人に誕生を喜ばれるってどうなんだろうね。縁起良くなさそう」
「……」
確かに、と胸中で呟く。
元暗殺者が一人、元裏切り者が一人、元暗殺者且つ元裏切り者が一人。祝いの席に相応しくない三人だ。
だが、諦めてもらう他ない。
オレ達のように表の世界で生きられない人間すら魅了した、姫さんの責任だ。
甘んじて、祝いの言葉も受け取ってもらおう。




