第3話:剣魔の視線 前編:『老紳士と不協和音』
夜、学院の裏庭ーー。
静寂を支配するのは、微かに揺れる木々のざわめきと、遠くで響く時計塔の鐘の音は低く、重厚なハ短調の調べだった。
訓練を終えたハーベルは、月明かりの下で森の動物たちに餌をやっていた。
動物好きで優しいハーベルの周りには、シンフォニアの力を持たない、純粋な生命のリズムを持った小動物たちが集まっている。
「みんな、今日の授業はハチャメチャだったけど、僕は負けないよ。僕の法則が『無定形』なら、逆に何にでもなれるかもしれないし……。」
ハーベルは相変わらず前向きに捉えていた。
かつて東雲八雲として、数式と周期表の檻に閉じ込めていた「安定」への渇望。
それを、この未知なる「混沌」を使って、より高次元の旋律へと昇華させたいという、飽くなき研究者精神が彼の胸を叩いていた。
その時、音楽が急変した…。
軽快なスタッカートを刻んでいた空気の振動が、一瞬にして凍りつくような、極低温のボウイング、沈黙を切り裂くヴィオラの旋律へと変わる。
背後の木立の陰から、エレガントな白髪の老紳士が現れた。
ゼノビア・シュバリエラだ。
「そうだな、少年。無定形は、無限の可能性と同義なのだ。」
ハーベルは驚いて振り返った。
動物たちは、本能的な恐怖に喉を鳴らし、クモの子を散らすように闇へと消えていった。
「あ、あなたは……入学式で見た、王城の指南役の方……?」
ゼノビアは優しい笑顔を浮かべたが、その瞳の奥には、頂の剣士「剣魔残響」の、全てを崩壊へと導く冷酷な光があった。
「私はゼノビア。お前さんの剣の師範として、学院にいる。
……しかし、お前さんの『第零のアモルファス』は、剣とは関係のない、もっと厄介な法則なのだよ。」
彼はハーベルに近づき、あえて冷たい言葉を投げかけた。
その一歩ごとに、周囲の植物が微かに震え、色を失っていく。
「お前さんの法則は、世界法則の穴なのだ。その穴が広がる時、お前自身が崩壊するか、世界が崩壊するか、どちらかだろう。だが、お前さんの目には『剣魔』を思わせる、『不確実な世界』への探求心があるようだ……。」
ゼノビアは、ハーベルの母方の祖父として、その事実を打ち明けたい衝動に駆られた。だが、絶縁した娘の意向と、王家の「黄金法則」という名の巨大な陰謀から孫を守るため、その想いを「不変の沈黙」へと封じ込めた。
(ハーベル……私の愛する孫よ。お前の『第零のアモルファス』は、誰も到達し得なかった、『法則の始まり』なのかもしれん。お前が覚醒しなければ……この世界は、あの国王の『永遠王冠』で、永遠に固着されてしまう……。)
ゼノビアはハーベルの肩にそっと手を置き、力を込めた。
その手から伝わるのは、老紳士の温もりではなく、鋼のような「拒絶」の振動だった。
「お前は、ゼノの荒療治に耐える必要がある。そして、己の心に問い続けよ。お前が求める『安定』とは、何なのかを……。」
彼の言葉は、現代日本の天才研究者だった東雲八雲の魂に、不響和音のように強く響いた。
(安定……そうだ、俺が追い求めた定常の法則だ。この世界で、この無秩序な法則を使って、俺はもう一度、完全な平衡を追求する!)
「はい、僕、頑張ります! ……あの、あなたは本当に、僕のおじいちゃんに似て……。」
ハーベルの言葉に、ゼノビアは一瞬目を閉じた。
その脳裏に、今は亡き娘の笑顔が、消えゆく残響のように過った。
「……さあな。だが、お前が剣を握るなら、私はいつでも指南しよう。私の『魔剣残響』は、お前さんを死の淵まで追いやるがな……!」
ゼノビアが不敵に笑った瞬間、空気が物理的な「質量」を持って軋み始めた。
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