第三十一話 それは、合格という意味ではなかった
静寂が、会場全体を覆っていた。
先ほどまで轟音を響かせながら膨張していた巨大な魔法陣は、まるで最初から何も起こっていなかったかのように、その輝きを失っている。空間を満たしていた濃密な魔力も、魔法陣へ吸い込まれていた無数の光も、すべてが一瞬のうちに消え去り、そこに残されたのは、広大な試験会場と、その中央に立つ一人の少年だけだった。
誰も声を出さない。
誰も動かない。
ただ、魔法陣の中心に浮かび上がった二つの古代文字だけが、静まり返った空間の中で異様な存在感を放っていた。
――始原王。
その文字を見た瞬間、フェルナンド・アルディスは、無意識のうちに息を止めていた。
知っている。
いや、正確には「知っている」という表現では足りない。
魔導士として王国の歴史を学び、宮廷魔導士として数多くの禁忌指定資料に触れてきた彼にとって、その名は知識として覚えているだけのものではなかった。王国の歴史から意図的に切り離され、記録の大部分が失われ、それでもなお禁忌として残り続けている存在――それが始原王だった。
現在の王国魔法は、白、緑、青、黄、赤、紫、そしてその他の系統によって体系化されている。
それが、この世界における魔法の常識だった。
魔力には属性があり、属性には性質があり、術式はその性質を利用して構築される。
少なくとも、現在を生きる魔導士たちはそう信じている。
だが。
今、目の前にあるものは、その常識から明らかに外れていた。
「……フェルナンド様」
隣に立つガルドが、掠れた声で名前を呼んだ。
「なんだ」
「……あれは、本当に……」
「見れば分かる」
フェルナンドの返答は短かった。
けれど、その声には普段のような余裕がなかった。
ガルドもそれ以上は何も言わなかった。
二人とも分かっている。
ここで「あれは何なのか」と口にしてしまえば、認めることになる。
この少年が作り出した魔法陣の中で、王国が歴史から消し去ったはずの名前が現れたという事実を。
そして、その直前に現れた透明な人影が、誠に向かって何と言ったのかも、二人の記憶にははっきりと残っている。
『継承を確認』
『我が血を継ぐ者よ』
『ようやく――目覚めたか』
フェルナンドは、ゆっくりと拳を握り込んだ。
あれが何者なのかは分からない。
始原王本人なのか、始原王の記憶なのか、それとも古代魔法によって残された何らかの意思なのか、それすらも判断できない。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの存在は、誠を知っていた。
そして――誠のことを「我が血を継ぐ者」と呼んだ。
「…………」
フェルナンドは少年へ視線を向ける。
そこにいたのは、世界の歴史を揺るがしかねない何かを目覚めさせた本人とは思えないほど、いつも通りの少年だった。
誠は魔法陣を見つめながら、少し困ったように眉を下げている。
「……あの」
ようやく口を開いた誠の声が、静まり返った会場に響いた。
「これ……合格ですか?」
「…………」
誰も答えなかった。
誠は不思議そうに周囲を見回したあと、もう一度魔法陣を見る。
「それとも、やっぱり何か間違えました?」
「いやいやいやいや!」
叫び声を上げたのは、当然のようにルミナだった。
「なんでそうなるの!?」
「え?」
「え、じゃないよ! 今の見たでしょ!?」
ルミナは勢いよく誠の方を指差したが、その指先は微かに震えていた。
「魔法陣が勝手に変形して、周りの魔力を全部吸い込んで、知らない人まで出てきて、その人が『我が血を継ぐ者』とか言って、最後には始原王って文字まで出てきたんだよ!? それでなんで『合格ですか?』なの!?」
「だって、第三試験って魔法陣を完成させる試験だったんだよね?」
「そうだけど!」
「じゃあ、完成したのかなって」
「完成したとか、そういう問題じゃないから!」
ルミナの叫び声が響き渡り、何人かの受験生がようやく我に返ったように顔を見合わせた。
それまで呆然と立ち尽くしていた者たちの間から、次第に小さなざわめきが広がっていく。
「……あれが、十歳?」
「俺たちと同じ試験を受けているんだよな……?」
「魔法陣って、自分で形を変えるものなのか?」
「そんな話、聞いたことがないぞ」
「それより、始原王って……本当にあの始原王なのか?」
誰かが口にしたその名前に、周囲の空気が再び張り詰める。
始原王。
誰も詳しいことを知らない。
それなのに、誰もがその名前に不吉な何かを感じていた。
歴史の教科書にはほとんど記されていない。
王国の正式な歴史書を調べても、その存在について詳しく触れられている資料はない。
それでも、禁忌指定された古文書の中には、その名前が確かに残っている。
そして。
その存在と同じ時代に生まれたとされる、もう一つの異端。
――透明属性。
フェルナンドは、そこで思考を止めた。
これ以上考えてはいけない。
今ここで全てを繋げてしまえば、まだ何も確定していないものを、自分自身の推測だけで一つの答えにしてしまう。
誠が透明属性を持っている。
誠が古代魔法に反応した。
魔法陣から現れた存在が誠を「我が血を継ぐ者」と呼んだ。
そして、そこに始原王という名前が現れた。
偶然にしては、あまりにも重なりすぎている。
だからこそ、慎重にならなければならない。
「……まだだ」
フェルナンドは、小さく呟いた。
「まだ、決めつけるには早い」
「フェルナンド様?」
「何でもない」
そのときだった。
魔法陣の中央に浮かんでいた「始原王」の文字が、ほんの僅かに揺らいだ。
フェルナンドが目を細める。
文字が、消えていく。
まるで役目を終えたかのように、一画、また一画と淡い光へ変わり、空気の中へ溶けていく。
「……消える?」
ガルドが呟いた。
フェルナンドは答えない。
最後の一画が消えた瞬間。
――パキン。
小さな音がした。
誠が振り返る。
「……あ」
そこにあったのは、魔力測定用に用意されていた小さなクリスタルだった。
透明な結晶の中央から、細い亀裂が一本走っている。
「フェルナンド様、これは……」
ガルドが近づこうとした瞬間、クリスタルから淡い光が漏れた。
白でもない。
青でもない。
赤でもない。
既存のどの属性にも分類できない、透明な光。
それを見たフェルナンドの表情が変わった。
「触るな」
低い声だった。
ガルドの足が止まる。
次の瞬間、クリスタルが小さく震えた。
――パリン。
砕けた。
だが、破片は床へ落ちなかった。
無数の透明な欠片が空中で静止し、ゆっくりと回転し始める。
そして、その一枚一枚に、見たことのない文字が浮かび上がった。
「……古代文字、ですか?」
ガルドの問いに、フェルナンドは首を横に振った。
「違う」
「では……何なんです?」
「俺にも分からない」
フェルナンドは、空中に浮かぶ文字を見つめた。
理解できない。
読めない。
それなのに――意味だけが分かる。
それが、何よりも不気味だった。
一枚目の破片に浮かんだ文字。
――七つの理。
フェルナンドの呼吸が止まる。
二枚目。
――その外側。
そして三枚目。
――鍵は、まだ眠っている。
「…………」
フェルナンドは言葉を失った。
七つの理。
それは現在の魔法体系そのものを指しているのか。
それとも、もっと古い何かを指しているのか。
そして、その外側とは何なのか。
何より。
鍵とは。
「フェルナンド様?」
誠の声がした。
「どうしたんですか?」
フェルナンドは答えられなかった。
この少年は何も知らない。
自分が今、何を目覚めさせたのかも。
なぜ透明属性を持つのかも。
なぜ古代魔法が誠に反応したのかも。
そして、自分自身が何者なのかも。
だからこそ。
今ここで伝えるべきではない。
「……何でもない」
ようやくフェルナンドは答えた。
「え?」
「試験は続く。君は次の準備をしていればいい」
「分かりました」
誠は素直に頷いた。
そのあまりにも普通の反応に、フェルナンドは思わず苦笑しそうになった。
世界の歴史を揺るがすかもしれない現象を目の前にして、この少年は「次の試験」を気にしている。
「……誠」
「はい?」
「君は……自分が特別だと思ったことはないのか?」
フェルナンドが尋ねると、誠はしばらく考えた。
「特別……ですか?」
「ああ」
「うーん……」
誠は困ったように頭を掻く。
「ないですね」
その答えは、驚くほど自然だった。
「僕、魔法が好きなだけですから」
「…………」
「それに、さっきの魔法陣も、用意されていたものを少し直しただけですし」
「少し……」
ルミナが呟く。
「直しただけ……」
そして、額を押さえた。
「……もういい」
「ルミナ?」
「もう何も言わない」
諦めたような声だった。
そんな二人のやり取りを見ながら、フェルナンドは静かに誠を見つめていた。
――この少年は、本当に何も知らない。
ならば、自分が守らなければならない。
誠が何者であろうと。
始原王とどんな関係があろうと。
少なくとも、今の誠はただ魔法を学びたいだけの十歳の少年なのだから。
しかし。
フェルナンドがそう決意した、その瞬間だった。
王都から遠く離れた場所。
人の気配すらない古い建物の中で、蝋燭の炎が一本、音もなく揺れた。
薄暗い部屋の中央には、七色の線が絡み合った奇妙な紋章が描かれている。
その前に立つ黒衣の男が、ゆっくりと顔を上げた。
「……目覚めた」
その声に、部屋の奥から別の人物が応じる。
「確かなのですか?」
「ああ」
「始原の血が?」
「間違いない」
男は笑った。
その笑みには喜びも興奮もない。
ただ、長い間待ち続けていたものが、ようやく動き始めたことへの確信だけがあった。
「王都の魔力網に、一瞬だけ異常が走った。だが、それだけではない」
「では……」
「古い術式が反応した」
男は、机の上に置かれた古びた紙片へ視線を落とす。
そこには、現在の魔法体系では使われていない文字が一つだけ記されていた。
――始原。
「ようやく見つけた」
男が呟く。
「七つの理から外れた者を」
そして。
その声に応えるように、部屋の壁へ描かれた七色の紋章が、ゆっくりと輝き始めた。
「だが、まだ迎えには行かない」
「なぜです?」
「まだ早い」
男は窓の外へ視線を向ける。
遥か彼方にある王都。
そこには、何も知らずに笑っている一人の少年がいる。
「自分が何者なのかも知らないのだろう?」
「……はい」
「ならば、知らないままでいい」
男は静かに笑った。
「その方が、目覚めたときの世界は――もっと面白くなる」
一方その頃。
当の本人である誠は、試験会場の片隅で次の試験について説明を受けていた。
「次は何をするんですか?」
「第四試験だ」
試験官が答える。
「実戦形式による魔法運用試験になる」
「実戦……」
誠は少しだけ目を輝かせた。
「魔法、使っていいんですか?」
「ああ。ただし、規定された範囲内で――」
「分かりました!」
誠は嬉しそうに頷いた。
その様子を見たルミナは、嫌な予感しかしなかった。
「……誠」
「なに?」
「絶対に、普通にやってね」
「もちろん」
「本当に?」
「うん」
誠は笑って答える。
「今度こそ、普通の魔法にするから」
その言葉を聞いた瞬間。
なぜかフェルナンドは、背筋に嫌な予感を覚えた。
――今度こそ。
その言葉が、どういう意味なのか。
このときのフェルナンドには、まだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
第三試験で起きたことは、魔術儀の中で起きた単なる異常現象ではない。
それは、千年以上前に途絶えたはずの何かが、再び動き始めた証だった。
そして、その中心にいる少年は――。
自分が世界を変え始めていることすら、まだ知らない。




