第三十話 第三試験、魔法の常識が崩れる
静かだった。
先ほどまで、受験者たちの声や魔法陣を描く音が響いていた試験会場は、今では奇妙なほどの静寂に包まれている。
誰も、言葉を発することができなかった。
その中心にあるのは、真逆誠が構築した巨大な魔法陣。
試験用に用意された魔法陣を少し改良しただけ。
誠自身は、そう思っている。
しかし、現実はまるで違った。
床一面に広がる魔法陣は、通常の術式とは明らかに異なっていた。
炎、水、風、土、光、闇。
本来ならば、それぞれ独立しているはずの属性術式が、一本の線によって繋がっている。
さらに、その中心には七つの属性のどれにも当てはまらない、透明な光が存在していた。
「……なんだ、これ」
誰かが呟いた。
返事はない。
周囲にいる魔導士たちでさえ、目の前の光景を理解できていなかった。
魔法には、決められた法則がある。
魔力を流す。
術式を構築する。
属性を与える。
そして、現象へ変換する。
それが、この世界で何百年、何千年と積み重ねられてきた魔法の常識だった。
だからこそ、魔導士たちはその常識の中で魔法を研究してきた。
だが――。
今、目の前にある魔法陣は、その常識から外れていた。
「ガルド」
フェルナンドが低い声で呼んだ。
「はい」
「魔力計測器は?」
「……すでに限界値を振り切っています」
「魔法陣の規模は?」
「測定不能です」
「術式構成は?」
「…………」
ガルドは答えられなかった。
それが答えだった。
フェルナンドも、それ以上は聞かなかった。
聞いたところで、今の自分たちには理解できない。
その事実を、彼自身が認めざるを得なかったからだ。
そのときだった。
魔法陣が――動いた。
淡い光が、ゆっくりと脈打つ。
まるで生き物のように。
「……え?」
誠が首を傾げた。
「なんか……勝手に大きくなってない?」
「勝手じゃない!」
ルミナが即座に叫んだ。
「どう見ても誠が原因でしょ!」
「えっ?」
本気で驚く誠。
「僕、ちょっと魔法陣を直しただけなんだけど……」
「ちょっとの規模じゃないから!」
ルミナの叫びが試験会場に響く。
しかし――。
次の瞬間。
その声すら掻き消された。
――ゴォン。
地面の奥から、巨大な音が響いた。
魔法陣の光が一瞬だけ消える。
そして。
――ゴォォォォォン!!
会場全体が震えた。
「なっ……!」
誰かが声を漏らす。
周囲に設置されていた魔力補助装置が、一斉に震え始めた。
結界を維持していた魔力。
魔法陣の周囲に漂っていた魔力。
さらには空気中に存在していた微量な魔力までもが、細い光となって中心へ吸い込まれていく。
「結界を強化しろ!」
ガルドが叫んだ。
「魔力供給を止めろ! 受験者を下がらせろ!」
試験官たちが一斉に動き出す。
しかし。
フェルナンドだけは動かなかった。
彼の視線は、魔法陣の中心に釘付けになっている。
「……違う」
「え?」
ガルドが振り返る。
フェルナンドは、ゆっくりと目を細めた。
「吸収しているんじゃない」
「では……何を?」
「あの魔法陣は……」
フェルナンドは言葉を選んだ。
「周囲の魔力そのものを、自分の術式として組み込んでいる」
「…………」
ガルドの顔から血の気が引いた。
「そんなこと……可能なんですか?」
「普通なら、できない」
「普通なら?」
「魔法陣とは、完成した術式だ。最初に構築された形から、大きく変化することはない」
フェルナンドは魔法陣を見つめる。
「だが、あれは違う」
巨大な魔法陣の線が、また一本増えた。
まるで何かを計算するように。
周囲の魔力を読み取り、それに合わせて術式そのものを書き換えている。
「魔法陣が……自分で形を変えている」
「……!」
ガルドは絶句した。
それは、魔法を使っているという話ではない。
魔法そのものの仕組みを変えている。
そんなことが可能なら――。
これまで魔導士たちが積み上げてきた研究は、いったい何だったのか。
「フェルナンド様」
別の魔導士が震える声で言った。
「このままでは、魔法陣が試験会場の魔力をすべて持っていかれます!」
「分かっている」
「ならば、術式を破壊しますか?」
フェルナンドは答えなかった。
視線の先には、魔法陣の中心に立つ誠がいる。
本人はというと――。
「……すごいな」
目を輝かせていた。
「こんなに魔力が集まるんだ」
「感心してる場合じゃない!」
ルミナが叫ぶ。
「これ、止められるの!?」
「え?」
誠は魔法陣を見た。
「……止める?」
「そう!」
「できると思うけど」
「じゃあ止めて!」
「でも、まだ発動してないよ?」
「そこなの!?」
ルミナが頭を抱えた。
その会話を聞いていたフェルナンドは、思わず眉を寄せた。
誠には、本当に悪意がない。
自分が何をしているのか。
何を引き起こしているのか。
理解していない。
それが何より恐ろしかった。
「誠!」
フェルナンドが声を張った。
「はい!」
「その魔法陣は、何をするためのものだ?」
誠は少し考えた。
「えっと……」
視線を魔法陣へ戻す。
「魔法を使うための魔法陣です」
「…………」
フェルナンドは黙った。
ガルドも黙った。
周囲の魔導士たちも黙った。
「……そうか」
それ以上、何も言えなかった。
やがて。
魔法陣の中心で、透明な光が集まり始める。
光は少しずつ形を持っていく。
腕。
肩。
頭。
そして、人の姿へ。
「……人?」
誰かが呟いた。
透明な光でできた人影が、魔法陣の中心に立っていた。
顔はない。
表情もない。
ただ、そこに立っている。
それだけなのに。
フェルナンドの背筋に、言葉にできない寒気が走った。
――知っている。
そう思った。
見たことがあるわけではない。
記録で読んだことがあるわけでもない。
それでも。
あの姿を見た瞬間、フェルナンドの中にある何かが警告していた。
これは、今の魔法体系に存在するものではない。
もっと古い。
もっと深い場所にある何かだ。
「……誠」
フェルナンドが呟いた。
その瞬間。
透明な人影が、誠の方を向いた。
誠の目が大きくなる。
「……え?」
声が聞こえた。
耳からではない。
頭の中へ直接響くような、不思議な声だった。
『継承を確認』
誠は動けなかった。
『……我が血を継ぐ者よ』
透明な人影が、ゆっくりと手を伸ばす。
『ようやく――目覚めたか』
「…………誰?」
誠が呟いた。
次の瞬間。
人影は光となって消えた。
そして、その光は誠の身体へ吸い込まれていった。
「誠!」
ルミナが叫ぶ。
「大丈夫!?」
「う、うん……」
誠は自分の身体を確認する。
「……何も変わってないよ?」
「いや、そういう問題じゃ……」
ルミナが言いかけた、そのときだった。
巨大な魔法陣の中心に、一文字ずつ文字が浮かび上がった。
古代文字。
誰も読めないはずの文字。
しかし、フェルナンドだけは、その意味を理解した。
そこに刻まれていた言葉は――。
『始原王』
「…………」
フェルナンドの瞳が揺れた。
始原王。
七つの属性が生まれるより遥か昔。
現在の魔法体系が確立される以前に存在したとされる、伝説上の存在。
その記録はほとんど残っていない。
王国魔導史からも、意図的に削られたとしか思えないほど情報が消えている。
そして、つい先ほど見つかった禁忌指定資料。
そこに記されていた、透明属性。
――属性を持たず、属性そのものに干渉する異端の魔力。
フェルナンドは、誠を見る。
十歳の少年。
魔術師になりたい。
ただそれだけを願っている少年。
本人は、自分が特別だなんて微塵も思っていない。
「……まさか」
フェルナンドの脳裏に、あの予言が蘇る。
――世界が再び混沌に包まれるとき、一人の魔導士がこの国に現れる。
そして。
『七つの理から外れた者』
「…………」
フェルナンドは拳を握った。
まだ断定できない。
始原王との関係も。
予言との関係も。
誠の本当の正体も。
すべては、まだ仮説だ。
だが。
ひとつだけ、確かなことがある。
今まで信じられてきた魔法の常識が――。
この少年によって、音を立てて崩れ始めている。
「フェルナンドさん」
誠が声をかける。
「これ……合格ですか?」
「…………」
フェルナンドは、しばらく答えられなかった。
そして、ようやく口を開く。
「……誠」
「はい」
「君は……」
言葉が続かない。
目の前の少年に、何と説明すればいいのか。
君の魔法は異常だ。
君の力は、この世界の常識から外れている。
君の血には、遥か昔に消えた何かが眠っているかもしれない。
そんなことを――十歳の少年に伝えられるはずがなかった。
「……いや」
フェルナンドは首を横に振った。
「今は、試験を続けよう」
「本当ですか?」
誠の顔がぱっと明るくなる。
「よかった……! 途中で失格になったらどうしようかと思ってました」
「…………」
フェルナンドは何も言わなかった。
その少年の背中を見つめながら、ただ一つのことを考えていた。
――この少年はいったい、何者なのか。
その答えを知るには、まだ時間が必要だった。
しかし。
その頃。
王国から遠く離れた場所では、一人の人物が静かに立ち上がっていた。
赤と紫の仮面。
その奥から覗く瞳が、愉快そうに細められる。
「……見つけた」
誰もいない部屋に、声が響いた。
「ようやく……見つけたよ」
七原色の道化師。
世界を混沌へ導くために集まった者たち。
彼らが長い間探し続けていたもの。
その存在が、今ようやく目を覚ました。
「始原の血が……動き始めた」
仮面の人物は、静かに笑った。
「ならば――こちらも、予定を変えよう」
同じ頃。
魔術儀の会場では、何も知らない誠が魔法陣を見つめていた。
「次の試験も頑張らないとな」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
けれど。
その瞬間から、世界は少しずつ動き始めていた。
魔術儀という一つの試験をきっかけに。
王国。
古代魔法。
七原色の道化師。
そして、誠自身も知らない――自らの血に眠る謎。
すべてが、一本の線で繋がろうとしていた。
そして誰もまだ知らない。
この日、魔法の歴史が変わる瞬間を目撃していたことを。




