第9話 進化した猿たち
題名は星新一先生のエッセイです。
「まったく君には驚かされるね」
とあるビルの一階にある喫茶店で3人の男女が窓際の席に座っていた。窓側に金髪で日焼けした20代の男が座り、反対側に18歳ほどの地味で黒縁眼鏡をかけた女性が座っていた。二人の前に品の良い背広を着た男性が一人コーヒーを飲んでいる。女性はコーヒーだが、男性はフルーツパフェを食べていた。
男の名前は西山康。女性は烏丸りかで、男性は齋藤紫陽だ。康はりかのお腹の子の父親である。もっとも戸籍上では紫陽がりかの夫だ。お腹の子も彼の子供ということになっていた。産婦人科に付き添ったことがあったが、女性看護師は十代で仕込むなんて何考えているのかしらと陰口を叩いていた。男と縁のない顔なので、嫉妬しているのだろう。患者を敵視する病院など行きたくないから、世の中妊娠を厭う空気が蔓延するんだろうなとパフェを食べながら思った。彼は甘いものが大好きなのだ。
「……別に。人に言われたから従っているだけです。私は面倒が嫌いなんですよ」
りかはコーヒーを飲んだ。薫り高い煙が鼻孔をくすぐる。妊婦でも一日一杯程度なら問題はない。
「今の方が面倒だと思うがね。りかの面倒は常人には理解できないよ。まあ、女をやり逃げしたあんたに文句を言われる筋合いはないな」
「それを言われるとつらいな。僕としてはりかさんと結婚するべきだが、彼女に断られてしまったんだ」
「それで美咲さんを捨ててもいいってか? 大した信念だよ全く」
康に対していちいち棘のある言い方をする紫陽。彼はりかを疵物にした康を嫌っていた。
美咲は元演歌歌手の秋本美咲だ。康と結婚して芸能界を引退したのだ。
「私は一人でもいいのに。お兄ちゃんは私とセックスがしたいの?」
「そういうわけじゃない!! お前は顔出ししてないからまだいいが、世間じゃ妊婦の風当たりが強いんだよ!! SNSでも妊娠発覚した報告をしたら、子供が産めない人の配慮が足りないと噛みつく奴がいるんだよ!!」
「お兄ちゃんはその人たちに嫌われるのが怖いわけ?」
「そんなわけあるか」
りかはマイペースなままで、紫陽だけが熱くなっていた。店内は三人しかおらず、店主はテレビでワイドショーを見てぼんやり過ごしていた。ビルのオーナーが暇つぶしに始めた店であり、税金対策でもあった。メインになる商品はないが、のんびりできる店として逆に有名になっていた。
「君がシャイニングプロに移籍したのは驚いたけど、まさか烏丸りあに裏があったとはね。まったく気づかなかった」
康はコーヒーを飲みながら言った。今は亡き、芸能事務所キツネ御殿でりかの姉、りあのマネージャーを務めていたのだ。過去の彼女はわがまま放題で美咲のために取ってきた仕事を横取りした挙句、ドタキャンを繰り返してきた。おかげでりあはおろか、キツネ御殿は信頼を無くし、社長は発狂した挙句、死亡したのである。
「康さんて鈍いですよね。美咲さんも姉さんのことを知っていたのに、最後まで騙されてましたよね」
「それを言われるとつらいね。当時は美咲のことが気になってて、細かいところに気づかなかったんだ。美咲のためなら計算でなんとか予測できたんだけどね」
「計算、ですか?」
初めて聞いた康の言葉に、りかが食いついた。どこか気になったのだ。
「うーん、僕はこれでも国立大学を卒業してね。数学だけはトップだったんだよ。よく美咲やセイレーンのみんなのデータをもとに、演算してたんだ。もっとも外れることが多かったね」
「じゃあたいしたことはないな。そんなんで自慢するなよ」
「自慢じゃないよ。それに外れたのは悪い予測だったからね。むしろ外れてもよかったのさ」
パフェを平らげた紫陽は嫌味を言うが、康はコーヒーを飲み干して答えた。紫陽は店主に紅茶を注文する。コーヒーはあまり好きではないのだ。
「ここだけの話だけどね。僕の姪の花菱奏ちゃん。あの子はいじめを苦に自殺するはずだったんだ」
花菱奏とは康の姉、彩花の娘だ。10歳だがネットで演歌のカバーを配信していたが、セイレーンに所属している。
「クラスメイトには演歌は年寄り臭いと馬鹿にされて、教師たちは奏ちゃんの祖父にこびへつらっている。PTAも彼女を厄介者扱いされて、あの子は追い詰められてしまうはずだったんだ。僕が姉さんに提案してセイレーンに入れさせたんだよ。ついでに佐鰭田町の小学校に転校するようにしたんだ。あそこは克己さんが自分の子供たちが快適に暮らせるよう、学校側と教育委員会を説得していたからね」
康は氷の入った水を飲んだ。紫陽は注文した紅茶に口をつける。彼は奏と面識があったが、自殺するような子に思えなかった。
「よく母親が認めましたね。子供を転校させるなんて面倒じゃないですか? それに転校したからと言って現状が変わる保証はなかったはずですよね?」
りかはコーヒーをちびちび飲んでいる。すでにぬるくなっているが、りかには関係ない。
「実を言うと姉さんは事前に小鳥遊りなの予言をもらったんだ。奏はいじめを苦に自殺する。いじめを止めさせても、逃げても無駄だとね」
「それで回避する方法は金を出せば教えるってか? 卑劣な奴だぜ」
「いいや、金は要求しなかったよ。ただ弟に相談した方がいいと言われただけらしい。で姉さんに助言をしたのさ」
その結果、奏は自殺することなく、新しい学校ですくすくと育っていた。後日彩花の元にりなが訪れたが、悪い予知が外れてよかったです。やはりあなたの弟さんこそ、数字に束縛された世界を救う救世主ですねと言われたそうだ。りかも紫陽もさっぱり意味が分からなかった。
「……父さんはかつて雀野親土と大学時代は同級生だって言ってた。数学が大得意でかけ事で負けたことがないって話だったよ」
「すごいですね」
「でも本人は当たりすぎる計算に悩んでいたそうだ。競馬ではわざと負けようとしても負けるはずの馬が奮闘して結果的に黒字になるんだよ。過程は無視され結果だけが残る。計算しなければいいけど、計算しないと気が済まない数学者の悲しい性だそうだ」
康は椅子にもたれかかった。雀野の気持ちが理解できるのだ。なんでも計算で解決し、計算通りに動けば危険なことや嫌なことに出会わない。気まぐれで反対の行動を起こしても結果が変わることはなかった。雀野にとっては計算は人生を彩る才能ではなく、自分を縛り上げる鎖でしかないのだ。
そんな雀野だが、康の父親である清志とは仲が良かったらしい。康が赤ん坊の頃病気で亡くなるはずだったが、雀野の特殊体質により、悪い血を抜き出すことに成功したそうだ。そして清志に予言を残した後、事件が起きて死亡したという。
「それにしても不愉快だな。小鳥遊りなは奏ちゃんだけでなく、歩が殺されるとまで予言したらしいんだ」
康は不機嫌になった。彼にしては珍しいのでりかが訊ねた。
「歩ちゃんが殺されるって? いつ?」
「この間の誘拐事件にだよ。歩が主犯に殺されるって、姉さんに伝えたらしいんだ。そんなの僕が許せるわけないだろう」
歩とはセイレーンに所属しているタレントだ。康の義理の弟だが、男の娘でもある。誘拐事件に巻き込まれたが、康が助けたので事なきを得たのだ。
「姉さんに方程式を書いた紙をよこしたんだよ。確かに完璧な数式だったけど、僕が少し書き換えたのさ」
「書き換えるってどうやって?」
「うん、説明するね」
そう言って康はメモ帳を取り出した。そして複雑な数式を書き始めたのである。
りかと紫陽は黙ってみていたが、やがて理解ができず頭がくらくらしてきた。
「いや、俺には理解できないな。それであんたが手を加えることでどう変わるんだ?」
「ごめんね。ちょっと難しかったね。元の数式は結論を先に出しているんだよ。だから途中で変えてもゴールは変わらないんだ。だけど僕が手を付ければ結論を変えることができるんだよ。奏ちゃんや歩の件も少し変更すれば変えられるんだ。と言っても犠牲者は出ている。奏ちゃんをいじめた主犯の子は、逆にいじめの対象になった挙句、奏ちゃんの転向した後に自殺したんだ。さらに歩を殺そうとした奴も刑務所で自殺しているんだ。つまり人が死ぬ結果は変えられないんだよ。本来なら誰も犠牲にならないのが正しいのにね」
康は顔を曇らせながら言ったが、紫陽はよくわからなかった。学者にでもなればいいのではと思ったくらいだ。だが今は政治家である清志の秘書として腕を振るっているらしい。学歴があり家柄もいい男がりかに手を出したことは許していない。かといってお腹の子に罪はないので、生まれたら自分の子として可愛がるつもりだ。
「……柘植忠信さんから聞いたけど、雀野と言う人は怪物ですね。自分の命も踏み台にしたのだから。計算と言いますけど、予知能力に近いですね」
「僕も方程式を見たけど、知らない人が見ればまさにそれだね。しかも数式を崩さない限り結末は変わらないんだ。父さんにも話したら驚いていたよ。雀野は自分の計算が外れてほしいと願っていた。お前を救った時、お前こそが自分の数式を破る救世主になると言っていたそうだよ」
「話がオカルトですね」
りかが呆れていた。秘密裏に柘植忠信との密談をしたことを康にも伝えている。今のところ死んだはずの雀野親土の力は今も生きていた。それを打ち破ったのは康の頭である。
そういえば康は若い頃の祖父に似ていると思った。小学校に上がる前に亡くなったが、康のように優しく祖母の優佳を愛していたことを思い出した。康に抱かれたのも亡き祖父に似ていることが影響していたのかもしれない。
石を使って獲物を狩っていた猿の時代に比べれば、現在は進化した猿たちがはびこっている。世界にとって幸福と言えないが、生活は豊かになった。
「ところで美咲さんは元気ですか?」
「元気だよ。というか妊娠したんだ」
「それはおめでとうございます」
康の顔は晴れやかであった。康だけでなく美咲も喜んでいるだろう。進化した猿たちは未だに自分たちの生活を向上させることに余念がない。
りかは表には出さないが、康よりも紫陽を頼りにしている。紫陽がいなければ子供を産むつもりはない。りかはお腹をさすっていた。
「りなさんとコラボがあるんですよね。どうしたらいいのかしら?」
「たぶん大丈夫だよ。テレビでは彼女や君を擁護しているからね。なんとかなるよ」
「なんか適当に言ってませんか? 美咲さんの事で頭が一杯でしょう」
りかはジト目で康を見た。康は慌てて言い訳をする。
「何かあっても齋藤さんがいるから平気だよ。君はりかちゃんを守る騎士だからね」
「当然だぜ!!」
康に振られて、紫陽は立ち上がって大声を上げた。マスターはテレビを見て無関心だった。
だが康の計算は外れていた。りかの言う通り美咲の妊娠に浮かれすぎて、肝心の計算は雑になっていたからだ。




