31、幼き日の悲しみ……1
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幼き日のネルがいた。普段なら絶対に使わない森へと続く一本道を一心不乱に走っていく。
“霧の森”と呼ばれている広大な森は多くの実りを季節ごとに与え、ネルの育った村では大人達のみが入ることを許されている森であった。
だが、恵みと実りをもたらすと同時に、多くの魔物が生息する場所であり、大人達も軽はずみに足を踏み入れたりはしない。
遊び半分に悪ガキが自身の勇敢さを見せる為に足を踏み入れた結果、二度と家に戻らなかったなど、周囲の村では、悪さをした際に子供達に聞かせるような場所でもあった。
そんな“霧の森”にはしっかりとしたルールが存在している。
それはただ一つ、魔物が森の外に出ることはないという事実だった。
そんな森の傍に存在する小さな村にネルは生まれた。
亜人(鬼人族)で、しっかり者の母親。
人族で、お酒が大好きな父親。
ごく普通の小さな家でネルは毎日を過ごしていた。
しかし、ネルの小さな日常は、瞬く間に奪われていくことになる。
ネルの村は、その年、大豊作になり、村全体が収穫祭を祝う為の準備に大忙しだった。
大人も子供も皆が役割を持ち、料理や広場の飾り付けをしていく。
その年、ネルは6歳になり、お姉さんとして、少し背伸びをしながら、自分より幼い子達の面倒を見つつ、収穫祭に飾るための花を集めていた。
頼まれれば、母親の料理を手伝うような素直な少女に育っていた。
しかし、収穫祭の当日に悲劇が村を襲う。
賑やかに開かれた収穫祭は、朝から酒に料理と村人達が陽気に笑い、歌っては皆が合唱していく。
楽しい時間は瞬く間に過ぎていき、大人達は酒に酔って日々の疲れを忘れていた。
そうして、夜が更けていく。月明かりが雲に隠れた瞬間、普段聞きなれない複数匹の馬を走らせる音が地鳴りのように聞こえ出す。
村人の1人が不思議そうに口を開く。
「ん? なんの音だ?」
そんな言葉と同時に村の入口に村人が確認に向かう。
“ヒュンッ!”という風切り音が村に響いた。
入口へ向かった村人が突然倒れ、他の村人が慌てて駆け寄ろうとした時、雲が風に流されていく。
大地を照らすように、無数の輝きが月明かりを反射させる光景に、村人達は固まった。
20人近い山賊が馬に乗り、弓を構えており、下卑た笑みを村人達へと向ける。
山賊の1人が分かりやすく号令を掛けると、それは始まった。
「1人も逃がすなよ! やれっ!」
その声を合図に一斉に矢が撃ち放たれていく。
数名の男衆が矢により地面に倒れると山賊達は馬を一気に走らせ、村になだれ込む。
馬の蹄が倒れて動けない村人達を蹂躙する。
村長が慌てて、交渉を口にするが、笑った山賊達は村長の頭を剣で斬りつけた。
それは、交渉する気など無いという意思表示であり、逃げる村人達が次々に斬り殺されていく。
騒ぎに気づいたネルの父親は慌てて、ネルを床下に押し込む。
「ヤダよ、父さん……逃げようよ」
怯えたネルに父親は優しく微笑み、頭を撫でながら、いつもと変わらない声で喋っていく。
「朝には迎えにくる……約束だ。父さんと母さんも別々に隠れるから、絶対に泣くなよ。約束できるな?」
「……うぅぅ、うん」
「いい子だな。俺の娘としては立派すぎるくらいだ。愛してるぞ……ネル。夜の間は絶対に隠れてろよ。約束だ」
扉が閉ざされると光が小さくなり僅かな隙間だけが床下に光を与えていた。
ネルは小さく丸まると耳を塞いだ。
僅かな隙間からは、両親の声が聞こえている。
「くっ、頼む……妻だけは助けてくれ」
「アナタ……」
そんな両親に山賊は落ち着いた口振りで語り掛ける。
「安心しな、2人仲良く広場にすぐに来い。ゲスクの親分も、皆殺しなんて真似はしねぇからなぁ」
隙間から、両親が家の外に連れ出されて行く姿を見たネルは必死に声を押し殺した。
ネル:いかないで、置いてかないで……父さん……母さん……ヤダよ……
そうして、長い夜が始まる。ネルは身を震わせながら両親が扉を開いて迎えに来る瞬間を待ち続けた。
何時間も必死に耳に手を当て、意識を失って目覚めても約束を守り、自分から扉を押し上げないように必死に我慢していく。
ネル:なんで……来ないの……ネル、いい子にしてるよ……父さんの約束守ってるよ……早く来てよ……
時間を忘れ、尿意が限界を迎え異臭が広がる床下の僅かな空間、それでもネルは両親を待ち続けた。
床下に置かれていた木の実や干した野菜を僅かに齧りながらの時間が過ぎていく。
そうして、床下に繋がる扉が微かに“コンコン”と叩かれる。
ネル:父さんと母さんが迎えに来てくれたんだ! 約束を守ったから、助かったんだ。山賊も皆殺しにしないって言ってたし……早く出ないと!
床下から、ネルは扉を押し上げると、眩しい光が扉から床下に差し込んでいく。
「父さん! 母さん……」
カァ! カァ!
扉を開いた先には、割られた窓と、開きっぱなしになった入口の扉、室内に入り込んだ数羽のカラスのみだった。
ネルは、我慢の限界だった。
ネル:約束を破っちゃった……でも、我慢したから、大丈夫だよね。父さんに謝ったら許してくれるよね……
そんなネルは、外に繋がる扉へと歩き出していた。父親に怒られるのを怖がるように、ゆっくりと歩いて外に出る。
静まり返った村を照らす朝日、本来ならば、朝食の煙が漂う時間に全ての家が沈黙していた。
ネルは、小さく震えてから、広場へと駆け出した。
両親が連れていかれた広場をただ目指して走っていく。
ネルは絶句した。
異常なほどに静かな広場には、村人達が間違いなく集められていた。
ネル:なんで……
それは単なる吊るされた肉の塊だった。
村人達が必死に飾り付けた複数本の柱に村人達が苦痛に顔を歪めたまま、吊るされている。
無数のカラスがそれを弄ぶように止まり、嘴を向けている。
「……え、あれ……なんで……」
その場に広がる最悪を震える目が再度焼き付けるように向けられ、ネルは嗚咽を吐いた。
地面に両手をついたまま、吐き出される胃液と僅かな吐瀉物がぶちまけられて、地面を汚し、そこに無数の水滴が目から流れ落ちていく。
ネルは必死に両親を下ろそうと柱に登ろうとするが、6歳という身体には、大人が登る為に建てられた柱はあまりに高すぎた。
何度も柱の途中から落下する中、次第に日が傾き、夜が顔を出す。
それはネルの恐怖と父親との約束を呼び起こしていく。
ネル:夜になったら……隠れなきゃ……父さんと母さんが約束だって……戻らないと、もしかしたら、神様が約束を守ったら父さんと母さんを……村のみんなを返してくれるかも……そうだよね。
既に果たされない約束を守る為にネルは走り出していた。
そうして、夜が終わり、朝が来る。
だが、広場には、無惨に食い荒らされた残骸のみが残され、人の形を残した存在は皆無であった。
ネルが床下に戻った後、死臭と血肉に引き寄せられた魔物達が闇夜に紛れて村人だったそれを食い散らかし、ネルの両親も同様に餌として扱われ、僅かにわかる母親だった首を、ネルは優しく抱きしめる。
「母さん……いい子にしてたら、迎えに来てくれるんだよね……ネル、いい子だよ? お話聞かせてよ……母さん……」
小さな呟きと同時に、広場周辺の民家から、微かに物音がする。
振り向いたネルは絶句した。開け放たれた民家の扉から、ウルフが姿を現し、ゆっくりとネルへと視線を合わせたからだ。
ネルは恐怖から足が竦み、動けなくなっていた。
手に握りしめた母親だったそれが、ゆっくりと転がり、地面に落下する。
それを合図にウルフ達が駆け出してくると、動かないネルを嘲るように母親だったそれを咥えていく。
ネルは手を伸ばそうとしたが、咥えられた母親だったそれが微かに喋ったように見えた。
ネル:わかった。走るね……母さん……父さん……村から逃げるね……ごめんなさい。
震える手をゆっくりと口元に運び、ネルは、力いっぱい親指の付け根に噛み付く。
痛みと共にネルは足が動く事実を確かめるとゆっくり後ずさる。
砂埃を纏った強風が吹き荒れた瞬間、ネルは立ち上がり、一心不乱に駆け出していた。
向かった先は村の側を流れる川であり、必死に泣きながら、ネルは川を目指した。
ウルフ達が背後から迫るが、振り向くことはない。振り向けば、間違いなく捕まることは、幼いネルの頭にも理解できたからだろう。
川が見えてきた瞬間には、ネルの背後からウルフの息遣いが近づき、地面を踏みつけたウルフの爪が背中を掠める。
「うわぁぁぁぁ!」
川に飛び込むと同時にウルフ達の足音が止まる。それはネルがウルフ達から逃げることができた事実を教えていた。
それと同時にネルは意識が薄れていく。
ネル:ごめん……逃げたけど、ネル……死んじゃうみたい。
流されたネルが次に目覚めたのは、ベッドの上だった。
蝋燭の灯りが照らす部屋、窓から映る外は暗く、月明かりも星空も見えなかった。
ネルは小さく「どこ……」と呟く。
「起きたかい? 川で死にかけてたから、拾ってあげたんだ。感謝しな」
嗄れた女性の声が聞こえ、ネルは声のする方へと振り向く。
ネルの視界に1人の老婆が立っていた。
「アナタは?」
「まずは礼から言うもんさ。それが淑女の嗜みってもんだよ。仕方ないねぇ。アタシは、アゥトゥ・ローズ。人の世から離れた煙の魔女さ」
アゥトゥ・ローズと名乗った老婆はネルを見つめながら、反応を待つように微動だにしない。
そんな老婆を前に、ネルは次第に表情を歪ませると、泣き出していた。
「な、なんだい! なんで泣くんだい、アタシは魔女ったって、アンタを食べたりしないよ……」
「うぅぅ、ごべんなざい、ごべんなざい……ネルは、泣いただら、だべなにぃ……ごべんなざい」
「ネルっていうんだね……今はゆっくり休みな。話はそれからだ。スープとパンを置いてくから、絶対に食べな。約束だよ」
そうして、煙の魔女アゥトゥとネルは出会った。
2人の出会いは決して偶然などではない。その事実はアゥトゥのみが、知っていた。




