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第九話 消えた報酬

 トラックが走り去った後、六人は誰ともなく歩き始めた。


 別れの挨拶もなければ、連絡先を交換しようという者もいない。それぞれが別の方向へ歩き出し、やがて夜の街に散っていった。


 七生も自分のアパートへ向かって歩き始めた。


 パーカーのポケットには、十五万円の入った茶封筒が突っ込んである。歩くたびに感じるその厚みが、何とも言えず心地よかった。


 これだけの現金を一度に手にしたのは、いつ以来だろう。


 ふと、自分の腹に目を落とした。パーカーには、刺されたときの血が赤黒いシミになって残っている。傷そのものは塞がっているが、服はひどい有様だった。


 ……これ、職質でもされたら面倒なことになるよな。


 警察に呼び止められて、腹の血について説明を求められたら何と答えればいいのか。異世界で盗賊のアジトを襲ってきました、なんて言えるわけがない。


 七生はなるべく大通りを避け、住宅街の細い道を選んで歩くことにした。


 十五万円。


 改めて考えてみると、すごい金額だった。


 まずは美味いものを食べたい。異世界でも弁当は食べたが、せっかく金があるのだから、少しくらい贅沢してもいいだろう。


 滞納しかけている携帯電話の料金も払える。家賃だって一か月分は余裕だ。しばらくは食費の心配もしなくて済む。


 そうだ。美容院に行ってみるのもいいかもしれない。


 いつも通っていた年寄りの床屋ではなく、ちゃんとした美容院だ。伸び放題の髪を切って、少しはまともな格好をしてみたい。


 十五万円もあれば、そんなことだってできる。


 七生はポケットの上から封筒を軽く押さえた。


 命がけの仕事だったが、こうして金を手にしてみると、少しだけ報われたような気がした。


 ポン。


 不意に、左肩を後ろから叩かれた。


「……え?」


 振り返ろうとした、その瞬間。


 意識が途切れた。


 次に気がついたとき、七生は地面に倒れていた。


「……あれ?」


 頬に冷たいアスファルトの感触がある。慌てて身体を起こそうとしたが、うまく力が入らない。しばらくして、ようやくよろよろと立ち上がった。


「……何だ?」


 辺りを見回した。静まり返った住宅街だった。街灯がぽつぽつと道路を照らしているが、人の姿はない。


 ただ、少し離れた路地の方から、誰かが走っていくような足音が聞こえた。七生がそちらを向いたときには、もう何も見えなかった。


 ……何だったんだ、今の。


 左肩を叩かれたところまでは覚えている。だが、その後の記憶がまるでない。


 そこで、ふと嫌な予感がした。


「……あっ!」


 七生は慌ててパーカーのポケットに手を突っ込んだ。


 何もない。


 反対側のポケットも探った。ズボンのポケットまで確かめたが、どこにもない。


 さっきまで、あんなにはっきりと感じていた厚みが消えていた。


 十五万円の入った茶封筒が、なくなっていた。


 ……やられた。


 左肩を叩かれた瞬間に意識を失い、気づいたら地面に倒れていた。こんなことができる人間を、七生は一人しか知らない。


 寝不足。いや、堀内の野郎だ。


「……あのクソ野郎!」


 思わず声が出たが、今さらどうしようもなかった。


 あいつの連絡先も、住んでいる場所も知らない。高校を卒業してから一度も会っていなかったのだから、探しようがないのだ。


 七生はふと、山小屋での出来事を思い出した。


 給料を受け取るとき、堀内は班長から何か耳打ちされていた。その直後、こちらを睨んできたのだ。


 あれと何か関係があるのだろうか。


 確か、堀内はボーナスをもらっていなかったはずだ。自分は何もしていないのに五万円も上乗せされていた。それが気に入らなかったのかもしれない。


 ……逆恨みかよ。


 だが、班長が何を言ったのかもわからない以上、確かめようがなかった。


 警察に駆け込むわけにもいかない。


 金の出どころを聞かれたらどう答える? おまけに、この血まみれのパーカーだ。余計なことまで調べられかねない。


 異世界で闇バイトをして稼いだ十五万円を、高校時代の同級生に盗まれました。ちなみに犯人は、触った相手を十秒以内だけ眠らせる超能力を持っています。


 ……誰が信じるんだよ、そんな話。


 そもそも、雇用契約書もなければ給料明細もない。犯人だって堀内だと確信しているだけで、実際に顔を見たわけではないのだ。


 七生はもう一度、空っぽのポケットに手を突っ込んだ。


 ……十五万円が、一瞬で消えた。


 命がけで異世界まで行き、腹を刺されて死にかけ、ようやく手にした金だったのに。


 残ったのは、血まみれのパーカーと全財産九円。


 ……詰んだ。


 しばらくその場にしゃがみ込んでいたが、いつまでもこうしているわけにはいかない。


 とりあえず、どう行動するのがベストなんだ?


 何をするにも、まず金が必要だ。食費も家賃もそうだが、何より問題なのはスマホの料金だった。このまま支払いができずに回線を止められたら、それこそ再起不能になってしまう。


 ということは、やっぱり次の仕事を紹介してもらうしかないのか。


 七生はスマホを取り出した。


 LINEには、あの『高収入案件紹介センター』とのやり取りが残っている。ここに連絡すれば、次の仕事を早めてもらえるかもしれない。


 あわよくば、給料を盗まれたことも報告してみるか。相手は同じ仕事に参加していた人間だし、班長なら何か対処してくれる可能性もある。


 そこまで考えて、七生の指が止まった。


 ……待てよ。


 班長が山小屋で言っていたことを思い出した。


『日本に戻ってからスキルの存在が世間にバレるようなことはするんじゃないぞ』


 そして、あの感情のこもらない声。


『そんなことになったら、死ぬよりまずい事になるからな』


 堀内にスキルで眠らされて金を盗まれたと報告するのは、どうなんだろう。


 高収入案件紹介センターなら事情を知っているはずだが、そもそもLINEでスキルの話をしても大丈夫なのか?


 いや、世間にバラすなと言っていただけで、身内への報告まで禁止されているわけじゃない……よな?


 考えれば考えるほど、何をしていいのかわからなくなってきた。


 そのときだった。


 ポンッ。


 スマホからLINEの通知音が鳴った。


「……ん?」


 画面を見ると、友だち追加の通知が届いていた。


 表示された名前を見て、七生は思わず目を見開いた。


『班長』


「……え?」


 あのおっさんからだった。


 七生は藁にもすがる思いで、友だち申請を許可した。


 すると、ほとんど間を置かずにメッセージが届いた。


『友だち追加ありがとう☺ 今日はお疲れ様でした♪ 次の仕事にも参加してね♡』


「…………」


 なんだ、この軽さは。


 ついさっきまで人間の頭を吹き飛ばしていた男と、同一人物とは思えない。いや、あのおっさんなら普通に送りそうな文章ではある。


 ちょうどいい。向こうから連絡してきたのなら、給料を盗まれたことも相談できるかもしれない。


 七生は少し考えてから、慎重に文章を打ち始めた。


『お疲れ様でした。多めに給料まで頂いて感謝しきりです。ただ、帰り道にお金を全て奪われてしまいました。一瞬で眠らされて、起きたらお金がありませんでした。証拠は何もないのですが、堀内だと思います。』


 そこまで入力して、指が止まった。


 ……これで大丈夫だろうか。


 スキルという言葉は使っていない。だが、一瞬で眠らされたと書けば、班長には何が起きたのかわかるはずだ。


 七生は少し迷った末、送信ボタンを押した。


 すぐに「既読」がついた。


 ……早っ。


 ほどなくして、班長から返信が届いた。


『やはりやりましたか(# ゜Д゜) 彼がバナナ君を見る目つきにピンときて、釘を刺したつもりだったんですけどねぇ(T_T) 知り合いのようにお見受けしましたが、彼とはどんな関係なんですか?』


 ……やはりって。


 七生は思わず画面を二度見した。


 あのとき班長が堀内に耳打ちしていたのは、そういうことだったのか。どうやら班長は、堀内が何かしでかすと予想していたらしい。


 だったらもっと強く止めといてくれよ。


 そう思ったが、今さら文句を言っても仕方がない。七生はしばらく迷った末、正直に事情を打ち込んだ。


『同級生ですが、恥ずかしながら高校の時にだいぶイジられていたというか、マウントを取ってくるようなやつでした。今日の仕事でも俺のことが気に入らないような感じでした。


 班長は堀内の住んでるとことか連絡先わかりませんか?』


 班長なら堀内の連絡先くらい知っているかもしれない。何しろ、あの六人を集めた側の人間なのだ。


 もっとも、連絡先がわかったところで、あいつが素直に金を返すとも思えない。


 それでも今は、班長からの返事に頼るしかなかった。


『知ってますが、どうするつもりですか? 一人でお金を取り戻そうとしているのですか?』


 ……知ってるのか。


 少なくとも、堀内を探す手がかりはありそうだ。


 しかし、何と返事をするべきか考えているうちに、もう一通メッセージが届いた。


『そんなことで許すことができるのですか?ヽ(`Д´)ノプンプン』


「……え?」


 七生は画面を見つめた。


 そんなことって、金を取り返すだけじゃ足りないという意味だろうか。


 確かに堀内のことは許せない。高校時代から散々馬鹿にされ、今度は命がけで稼いだ金まで奪われたのだ。


 だが、七生が望んでいるのは十五万円を取り返すことだった。別に復讐したいわけではない。


 ……いや、ちょっとくらい痛い目には遭ってほしいけど。


 そこで、七生は洞窟で見た班長の姿を思い出した。


 あのおっさんの言う「許さない」は、自分の考えているものとはだいぶ違う気がする。


 七生は恐る恐るメッセージを送った。


『会社的には、日本国内でスキルを使って強盗するとか大丈夫なんでしょうか?』


 返信はすぐに届いた。


『会社的にはギリギリコンプライアンスに抵触しちゃいますね』


 ……ギリギリなのかよ。


 スキルを使って強盗するのがギリギリなら、いったい何をしたら完全にアウトになるんだ。


 七生が呆れていると、さらにメッセージが届いた。


『私的にはちょっと許せない行為ですので、お灸を据えてから話し合いの場を設けさせたいと思います(# ゜Д゜)』


「……お灸?」


 普通なら、ちょっと叱って反省させるくらいの意味だろう。しかし、相手はあの班長だ。


 石ころ一つで人間の頭を吹き飛ばし、素手で人を撲殺するような男である。


 あのおっさんの言う「お灸」が、世間一般のお灸と同じ意味だとは到底思えなかった。


 堀内に腹が立っているのは確かだが、別に殺してほしいわけじゃない。


 ……ちゃんと生きた状態で話し合いの場に連れてきてくれるんだよな?


 しばらくすると、班長から新しいメッセージが届いた。


『3日ほど時間をもらえますか? 何とかしましょう』


 三日。


 七生はその数字を見つめた。


 堀内から金を取り戻せるかもしれない。それはありがたい。ありがたいのだが、問題はその三日間をどうやって過ごすかだった。


 全財産九円。食べ物もない。スマホの料金だって、いつ止められるかわからない。


 いっそ班長に、少しだけ金を貸してもらえないか頼んでみようか。


 そう考えて入力欄を開いたものの、指が動かなかった。十五万円ももらったその日のうちに、金がなくなったから貸してくれとは、さすがに言い出しにくい。


 結局、七生が送ったのは短い返事だけだった。


『わかりました。』


 七生はスマホをポケットにしまい、アパートへ向かって歩き出した。


 ……さて。


 三日間、どうやって生き延びよう。


 アパートに戻ると、いよいよその問題を真剣に考えなければならなくなった。


 親に金を借りるのは無理だ。今さらどの面を下げて頼めというのか。消費者金融だって、定職もなく返済能力も怪しい自分には貸してくれないだろう。


 金を貸してくれるような友達も知り合いもいない。


 七生は冷蔵庫を開けてみた。当然ながら何もない。棚にも食べ物らしいものは残っていなかった。


 ……腹減ったな。


 異世界で食べた唐揚げ弁当もカツカレーも美味かった。久しぶりに温かい食事を腹いっぱい食べて、あのときは本当に幸せだった。


 だが、どうやらそれがいけなかったらしい。


 食べ物がない生活を続けているうちに、空腹にもそれなりに慣れたつもりでいた。それなのに、あんな美味いものを食べてしまったせいで、また腹いっぱい食べたいという欲求が戻ってきてしまったのだ。


 三日間くらい食わなくても、たぶん死にはしない。


 でも、あと三日もこの腹の減った状態を我慢するのかと思うと、たまらなく憂鬱だった。


「……何か食い物、落ちてねえかな」


 もう一度棚を覗いてみたが、やはり何もない。


 バナナの一本もない。


 ……バナナ。


 七生はステータス画面を開き、スキル欄に表示された【バナナをいつでもおいしく食べられる】をタップした。


「……あれ?」


 表示された説明文が、以前とは違っていた。


『バナナなどの熟成速度を加速させたり鈍化させたりしていつでも美味しく食べられるよ。やったね!』


「……変わってる?」


 以前はバナナを美味しく食べられるとしか書かれていなかった。ところが、今は『加速』と『鈍化』という言葉がある。


 加速……。


 腹を刺されたときには、血小板の働きや傷の修復を加速させて助かった。だったら、逆に身体の活動を鈍化させることもできるんじゃないだろうか。


 七生はしばらく考え込んだ。


 人間は何もしなくてもエネルギーを消費する。心臓を動かし、呼吸をして、体温を維持する。ならば、その消費速度を遅くしてしまえばいい。


 ……そうだ、冬眠だ。


 熊なんかは冬の間、ほとんど食べずに過ごすと聞いたことがある。人間だって、身体の代謝を落とせれば似たようなことができるかもしれない。


 三日間だけでいい。その間、ほとんどエネルギーを消費せずに眠っていられれば、班長からの連絡を待つことができる。


「……これ、いけるんじゃね?」


 七生は自分の思いつきに少し興奮した。


 何しろ、腹に刺さったナイフの傷を治せたのだ。それに比べれば、身体の活動を遅くするくらい簡単そうに思える。


 もっとも、代謝を落とすといっても、具体的にどうすればいいのかはわからない。


 心臓まで止まったらまずいし、呼吸も必要だ。とりあえず、身体の活動を少しだけ遅くしてみよう。


 ……少しだけなら、大丈夫だよな?


 七生は布団に潜り込み、仰向けになった。


 腹の傷に使ったときは必死だったからうまくいったのかもしれない。今回は落ち着いて、自分の身体全体を意識してみる。


 細胞の活動を遅くする。エネルギーの消費を抑える。身体を省エネ状態にする。


 ……減速。


 すると、身体が急に重くなった。


 手足から力が抜け、猛烈な眠気が襲ってくる。頭の中までゆっくりになっていくような、不思議な感覚だった。


 ……おお、効いてる。


 どうやら成功したらしい。


 ただ、思っていたよりも眠い。少しずつ調整してみようと思ったのに、もう目を開けているのも面倒になってきた。


 ……あれ?


 これ、どうやって解除するんだっけ……。


 そう考えたところで、七生の意識は途切れた。

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