第十話 冬眠明け
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
七生は必死に肺へ空気を送り込んでいた。
まるで標高の高い山にでも放り出されたかのように、息を吸っても吸っても酸素が足りない。胸が激しく上下し、心臓が早鐘のように打っている。
……なんだ、これ。
目を開けると、見慣れた自分の部屋の天井があった。しかし、身体がまったく動かない。腕を持ち上げるどころか、指一本動かせなかった。
……金縛り?
いや、違う。全身の感覚が鈍く、まるで自分の身体ではないようだった。
何とか呼吸を続けながら、七生は意識を失う前のことを思い出した。
……そうだ、冬眠。
三日間の空腹をやり過ごすために、スキルで身体の代謝を遅くしたのだ。
ということは、スキルの効果が切れたのか?
しばらくして呼吸が落ち着くと、七生は右手の人差し指を動かしてみた。
ぴくり。
……おお、動いた。
どうやら死んではいないらしい。
そこで七生は、ふと疑問に思った。
……俺、どれくらい寝てたんだ?
部屋を見回したが、時計はない。スマホを探すと、幸い手の届くところに転がっていた。
まだうまく動かない腕を伸ばし、どうにか拾い上げる。寝たまま電源ボタンを押してみたが、画面は真っ暗だった。
「……充電切れかよ」
何度押しても反応がない。
……これ、何日寝てたんだ?
急に不安になってきた。
やがて身体もだいぶ動くようになり、七生は何とか上半身を起こした。全身がひどくだるいが、先ほどのように指一本動かせない状態ではない。
充電ケーブルを引っ張り出し、スマホにつなぐ。
画面がつくのを待っている間、ふと思い立った。
「ステータスオープン」
目の前に見慣れたステータス画面が現れる。
MP 0/15
「……ゼロか」
やっぱり冬眠にもMPを使うらしい。
そのとき、スマホの画面が明るくなった。
「おっ、ついた」
表示された日付を見て、七生は固まった。
「……三日?」
何度見直しても、寝る前から丸々三日が経過している。
「マジかよ……」
本当に三日間も眠っていたらしい。
七生はもう一度ステータス画面に目を向けた。
……あれ? ちょっと待てよ。
確か、冬眠する前のMPって、ほんの少ししか残ってなかったよな?
それで三日?
「……俺のスキル、燃費良すぎだろ」
思わず呟いてから、ぞっとした。
もしMPが満タンだったら、いったい何日眠っていたんだ? 一週間? 一か月? 下手をしたら、もっと……。
「……危ねえ。もう二度とやらねえぞ、これ」
食費を浮かせるつもりが、危うく永眠するところだった。
……ん? 三日?
何だっけ。何かあったような……。
「あっ、班長か!」
そうだ。堀内に奪われた十五万円の件で、三日ほど時間が欲しいと言われていたのだ。
七生は慌ててステータス画面を閉じ、スマホでLINEを開いた。
班長とのトーク画面には、昨日の夜中に届いたメッセージが残っていた。
『元気ですか? 寝不足君に話を聞きましたよ(^o^) 最初は否定していましたが、こちらが親身になって話を聞いてあげたところ、バナナ君の15万円を拾ったのは自分かもしれないと白状しました(´ε` )』
「…………」
……いや、いろいろおかしい。
まず、拾ったって何だよ。俺は落としてねえぞ。
それに『自分かもしれない』って何だ。十五万円もの大金を拾ったかどうか、本人がわからないわけないだろう。
そして何より気になるのが、『親身になって話を聞いてあげた』という部分だった。
……何したんだよ、あのおっさん。
嫌な予感を覚えながら画面をスクロールすると、さらにメッセージが続いていた。
『あれ?既読になりませんね。何かありましたか?』
『未読無視ですか?』
『何かありましたか?』
「……怖っ」
まるでメンヘラ女からのLINEだった。
しかも、相手はあの班長である。
昨日の夜中に届いたLINEを読んでいなかっただけなのに、何でこんなことになっているんだ。
……いや、待てよ。
あのおっさん、俺の住所も知ってるんじゃないか?
堀内の居場所を突き止められるくらいなのだから、自分の住所だって調べようと思えば調べられるはずだ。
まさか、返事がないからって家まで来たりしないよな?
七生は慌てて返信欄を開いた。
『すみません。ちょっと立て込んでいてスマホ見られませんでした。』
とりあえず、それだけ送信した。
すると、ほとんど同時に玄関の方から音がした。
ポンッ。
「……ん?」
LINEの通知音だった。
七生は自分のスマホを確認した。今送ったメッセージには、すでに既読がついている。
……今の音、外から聞こえなかったか?
耳を澄ませていると、今度は手元のスマホが鳴った。
『ああ、よかった!』
「…………」
七生はゆっくりと玄関に目を向けた。
……いるのか?
まさかとは思いつつ、七生は玄関へ向かった。
ドアスコープを覗こうかとも思ったが、何となく怖い。結局、ドアノブを握り、音を立てないように扉をほんの少しだけ開けた。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
「…………」
目が合った。
ドアの隙間から、班長がこちらを覗いていた。
「おはようございます、バナナ君!」
「うわああああっ!」
七生は悲鳴を上げて飛び退いた。
心臓が止まるかと思った。
「ど、どうしたんですか! どうしてここを……いや、何がどうなってどういうわけですか!」
自分で言っていても何を言っているのかわからない。だが、目の前にいる班長があまりにも予想外すぎて、まともな言葉が出てこなかった。
「いやあ、昨日の夜にLINEを送ったんですが、いつまで経っても既読にならないもので。何かあったんじゃないかと心配になりましてね」
班長は困ったように笑った。
「それで、直接様子を見に来たんですよ。いやあ、無事でよかったよかった」
……いや、よくねえよ。
昨日の夜中に送ったLINEが、翌日になっても既読にならない。それだけで家まで来るか、普通?
しかも、いったいいつから玄関の前にいたんだ?
聞きたいことは山ほどあったが、頭の中が混乱していて、どれから聞けばいいのかわからない。
「ところでバナナ君、ちょっと上がらせてもらってもいいですか?」
班長はにっこり笑った。
……断れるわけねえだろ。
そもそも、このおっさんにとってドアなんて、あってないようなものだ。鍵をかけたところで何の意味もないに違いない。
「ど、どうぞ。散らかってますが……」
「おじゃまします」
班長は軽く頭を下げて玄関に入ると、靴を脱ぎ、つま先を外へ向けてきちんと揃えた。
……行儀いいな、このおっさん。
盗賊の頭を石で吹き飛ばすような男が、他人の家では靴を揃えている。その妙な礼儀正しさが、かえって不気味だった。
「いやあ、突然お邪魔してすみませんねえ」
そう言いながら、班長は狭いワンルームを見回した。
七生はとりあえず床に転がっていた服を端に寄せ、班長が座れるだけの場所を空けた。
向かい合って座ってみると、班長が今日は作業着ではないことに気づいた。私服姿だと、どこにでもいそうな普通のおじさんに見える。
……まあ、中身は全然普通じゃないんだけど。
七生がそんなことを考えていると、班長がおもむろに口を開いた。
「うーん、何から話せばいいかな……。うん、まず寝不足君はもうスキルを使えなくなっちゃいました」
「え……殺したんですか?」
思わずストレートに聞いてしまった。
「いやいや、さすがに殺してませんよ。日本じゃ犯罪でしょう」
班長は何を馬鹿なことを、とでも言いたげに笑った。
……いや、あんたがそれ言うのかよ。
「だって、スキルを使えないって……」
「寝不足君のスキル、マイクロスリープは手で触った相手を眠らせるスキルですからねぇ。正確には、手首より先で触れた相手が対象になるんですよ」
「……はい」
「だから、もう使えなくなっただけですねぇ」
「…………」
七生はその言葉を頭の中で反芻した。
手首より先で触れた相手を眠らせる。
もう使えない。
……つまり、手首より先が……。
七生は目の前の班長を見つめた。
班長はいつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。
……いやいやいや。
殺してないからセーフ、みたいな言い方してるけど、それも普通に犯罪だろ!
七生はようやく理解した気がした。
班長が以前言っていた、死ぬよりまずいこと。
きっと、こういうことなのだ。
……絶対に逆らっちゃいけない。
七生が心の中で固く誓っていると、班長は何事もなかったように話を続けた。
「いやー、彼のアパートに行ってもいなかったんですよねぇ。しょうがないので会社の人に居場所を調べてもらったら、どこにいたと思います?」
「……さあ」
「贅沢にもアパホテルですよ、アパホテル! 次の日、朝食ビュッフェを食べて部屋に向かっているところを見つけましてね。一緒に部屋に入ったら、テーブルの上に茶封筒があったんですよ」
班長はそこで、何か思い出したように付け加えた。
「あ、もちろん同意の上で部屋に入ってますよ?」
「……はあ」
なぜそこだけ念を押すんだ。
それよりも、堀内の野郎。
人から盗んだ金でホテルに泊まって、朝食ビュッフェまで食っていたのか。
こっちは全財産九円で、危うく永眠するところだったというのに。
……いや、それは自分で勝手にやったんだけど。
「それにしても彼、あの笑い方、鼻につきますねぇ」
班長は思い出したように顔をしかめた。
「ちょっと質問したら、『ハハハッ! 証拠でもあるんですか? ハハハハッ!』とか言い出しましてね。何か勘違いしていたみたいなので、二度と笑えなくしちゃったんですけど。ハハハッ!」
「…………」
堀内の笑い方なら、よく知っている。高校時代からそうだった。相手を馬鹿にするときや、自分が優位に立ったと思ったとき、わざと大きな声で笑うのだ。
あの場面でも、きっといつもの調子で班長を煽ったのだろう。
……よりによって、あのおっさんを。
しかし、二度と笑えなくしたって何だ?
七生は聞きかけて、やめた。
知らない方がいいこともある。
……それにしても、あんたは笑うんかい。
「あ、あの、結局堀内が犯人ってことですよね? 俺のお金を持ってたってことですよね?」
七生はこれ以上余計なことを聞くまいと、強引に話題を変えた。
「ああ、そうそう! 忘れるところだった」
班長は思い出したように手を叩くと、ズボンのポケットをごそごそと探り始めた。
そして取り出したのは、クシャクシャになった茶封筒だった。
ところどころに赤黒い汚れがついている。
それを、班長は無造作にちゃぶ台の上へ置いた。
「ヒィッ……」
思わず変な声が漏れた。
……何だよ、その汚れ。
いや、わかる。何となくわかるけど、わかりたくない。
「中身、確かめてくださいね。バナナ君が働いた対価なんですから」
「は、はい……」
七生は恐る恐る茶封筒に手を伸ばした。なるべく赤黒い部分には触れないようにして、中の紙幣を取り出す。
一万円札が何枚も重なっていた。
慎重に数えていく。
……十三枚、十四枚、十五枚。
そこで手が止まった。
まだある。
もう一度最初から数え直してみたが、どう数えても二十枚だった。
「……え?」
驚いて顔を上げると、班長がニコニコしながらこちらを見ていた。
「ああ、それですね。寝不足君からバナナ君へ、お詫びの印にって五万円の慰謝料も預かってきましてね」
「…………」
慰謝料。
果たして堀内は、どんな状態でその五万円を差し出したのだろうか。
いや、そもそも自分の意思で差し出したのか?
聞きたくない。絶対に聞きたくない。
「よかったですねぇ、バナナ君。無事にお金が戻ってきて!」
班長は心底嬉しそうに笑っていた。
十五万円は戻ってきた。おまけに五万円も増えた。これで食事もできるし、携帯代も払える。家賃だって何とかなる。
間違いなく、喜ぶべき状況なのだ。
なのに、ちっとも嬉しくない。
七生は目の前の二十万円を見つめた。
俺はもう限界だと思った。
このおっさん、怖すぎる。
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