第十二話 美味しいバナナ
アパートに戻って布団に潜り込み、そのまま朝寝を決め込んだ七生が目を覚ましたのは、夕方になってからだった。
「んんっ……あー、よく寝た!」
大きく伸びをしてみると、身体が驚くほど軽かった。朝まであれほどひどかっただるさは、すっかり消えている。
体調は絶好調。気になることといえば、腹が減っていることくらいだ。まあ、昼飯も食わずに寝ていたのだから仕方がない。
何か食べようかとちゃぶ台に目を向けると、コンビニで買ってきたバナナが置いてあった。
七生はバナナを手に取り、何気なく皮を剥こうとして思い出した。
……そうだ。起きたらスキルで美味しいバナナとやらを食ってみようと思っていたんだった。
「ステータスオープン」
目の前にステータス画面が現れる。もう、この言葉を口にすることに照れはなかった。最初はゲームの主人公になったようで気恥ずかしかったが、今ではすっかり慣れてしまっている。
MP 15/15
「おっ、全快してる」
班長の言っていた、よく食べてよく寝るというのは本当らしい。それなら早速、試してみよう。
七生はバナナをちゃぶ台に置き、じっと見つめた。
バナナは皮にシュガースポットと呼ばれる茶色や黒の斑点が出てくる頃が美味しいらしい。買ってきたバナナはまだ鮮やかな黄色で、斑点もほとんどない。
つまり、これをちょうど食べ頃まで熟成させればいいわけだ。
「おいしくなーれ……」
別に呪文を唱える必要はないのだが、何となく口に出してしまった。
七生は眉間にしわを寄せ、バナナの皮に茶色い斑点が浮かび、実が甘く熟していく様子を思い浮かべた。
……熟成、加速。
「おおっ!」
鮮やかだった黄色が少しずつ濃くなり、茶色い斑点がぽつぽつと浮かび上がってくる。ものの数秒で、見慣れた食べ頃のバナナになった。
「すげえ。本当にできた」
七生は早速皮を剥き、一口かじった。
「……うん、普通に美味い」
甘くて柔らかい、ちゃんと熟したバナナだった。飛び上がるほど美味いわけでも、今まで食べたことのないような味がするわけでもない。
七生はもう一口かじった。
……うん、やっぱり普通だ。
どうやら、スキルを使ったからといって特別なバナナになるわけではないらしい。
これがスキルの本来の使い方なのだろう。だが、腹の傷を治したり、三日間も冬眠したりできる能力なのに、どうしてスキル名がバナナなのか。いまいち納得がいかない。
七生はもう一度ステータス画面を確認した。
MP 14/15
「……一減ってるな」
一回の使用につき一なのか、熟成させた量や時間によって変わるのかはわからないが、少なくともバナナ一本を食べ頃にする程度なら、大した消費ではないようだ。
七生は残りのバナナを食べながら考えた。
……これ、商売に使えないかな?
バナナの熟成速度を自由に変えられるなら、青いバナナを必要なときに食べ頃にしたり、逆に熟成を遅らせて長持ちさせたりできる。
食品流通業界のバナナ部門で、大活躍できるんじゃないだろうか。
……バナナ部門って何だよ。
自分で考えておいて何だが、妙な響きだった。
もっとも、本当にそんな商売を始めたら、いずれ能力の存在が知られてしまうだろう。そして、あの班長にバレたら……。
七生の脳裏に、ニコニコ笑いながら手首より先の話をするおっさんの顔が浮かんだ。
「……やめとこ」
金を稼ぐどころか、悲惨な未来しか想像できなかった。
結局、日本ではまともな使い道がないのかもしれない。
七生は最後の一口を頬張り、空になったバナナの皮を眺めた。
……まあ、美味かったからいいか。
とはいえ、バナナ一本で腹の虫を黙らせるには心もとない。
七生は皮をゴミ箱に放り込み、腹をさすった。
体調は万全。手元にはまだ二十万円近い金がある。ここ数日ずっとまとわりついていた陰鬱な気分も、すっかり消えていた。
……よし、自炊でもしてみるか。
どうせ時間はある。外食ばかりしていたら、せっかく取り戻した金もあっという間になくなってしまう。
思い立った七生は、近所のスーパーへ向かった。
まずは米だ。せっかく買うなら割安な十キロ袋にしよう。あとは卵、納豆、もやし、豚肉の小間切れ。インスタント味噌汁もあれば十分だろう。
調味料の棚では、塩コショウと醤油もカゴに入れた。
……よし、これだけあればしばらく食っていけるな。
久しぶりのまともな買い物に満足し、レジで会計を済ませた。
問題に気づいたのは、その直後だった。
「……重っ!」
米十キロに加え、食材や調味料が詰まった買い物袋。両手に荷物を持って歩き始めたものの、早くも腕が悲鳴を上げていた。
そういえば、自分の最大HPはたったの七。STRに至っては六しかない。成人男性の平均より確実に低いだろう。
……何で十キロも買っちゃったんだよ、俺。
安さに釣られた数十分前の自分を殴ってやりたい。
何度も荷物を下ろして休憩し、そのたびに持ち直しては少しずつ歩く。普段なら大したことのない距離が、やけに遠く感じられた。
ようやくアパートにたどり着いた頃には、全身汗だくになっていた。
「はぁ……はぁ……やっと着いた……」
玄関に荷物を下ろすと、その場にへたり込んだ。
異世界で盗賊に刺されても生き延びた男が、日本ではスーパーの買い物で力尽きかけている。
……俺、弱すぎねえか?
米十キロと大量の食材を無事に持ち帰れたのは、七生にとってちょっとした奇跡だった。
しばらく休んでから、七生は久しく使っていなかった炊飯器を引っ張り出した。
……最後に使ったの、いつだっけ?
内釜を洗って米を二合入れ、何度か研いでから水を注ぐ。目盛りを確認して炊飯ボタンを押した。
これでよし。
やっぱり米はいい。カロリーを摂取するにはコスパがいいし、最悪おかずがなくても塩や醤油だけで食べられる。卵や納豆があれば、それだけで立派な一食だ。
今日はせっかくだから、もやしと豚肉を炒めておかずにしよう。
七生は買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら、炊飯器に目を向けた。
……早く炊けねえかな。
そこで、ふと思いついた。
……あれ? もしかしてスキルで早く炊けるんじゃね?
バナナの熟成を加速できるなら、炊飯だって加速できるかもしれない。MPは十分に残っているし、試してみる価値はある。
七生は炊飯器の前に立ち、蓋に手を当てた。
「……炊飯加速!」
それらしく宣言してみたが、何も起こらなかった。炊飯器はいつもどおり、静かに米を炊いている。
……あれ?
そういえば、スキルを使うときには具体的なイメージが必要だった気がする。
七生はもう一度、炊飯器に手を当てた。
米に熱が伝わり、水を吸った米粒が柔らかくなっていく。普通なら何十分もかかる工程が、あっという間に進んで炊きあがる。
そんな様子を頭に思い浮かべた。
……加速!
「…………」
やっぱり何も起こらない。
念のためステータス画面を開いてみたが、MPも減っていなかった。
「……使えてない?」
もしかして、何にでも使えるスキルってわけじゃないのか?
だが、それなら腹の傷を治せたのはどういうことだ。自分の代謝を遅くして、三日間も冬眠できたではないか。
バナナと人間。
……何が共通してるんだ?
七生はしばらく炊飯器を見つめていたが、考えても答えは出なかった。
「……便利そうで微妙に使えねえな、このスキル」
そうぼやきながら、冷蔵庫から豚肉ともやしを取り出した。
仕方ない。ご飯が炊けるまで、普通に待つか。
炊きあがりまでもう少しというところで、七生はフライパンを取り出し、コンロに火をつけた。
もっとも、七生にできる料理などたかが知れている。凝ったものを作る技術もなければ、そもそもレシピを調べる気もない。
とりあえず、肉ともやしを炒めれば、それなりのおかずになるだろう。
熱したフライパンに豚肉の小間切れを入れると、ジュウッと小気味よい音がした。菜箸で肉をほぐしながら炒め、赤い部分がなくなってもしっかり火を通す。そこへもやしを袋の半分ほど投入した。
あとは適当にかき混ぜて、塩コショウを振る。
「……よし、完成」
料理と呼ぶにはあまりにも簡単だが、肉も野菜も入っているのだから文句はない。
七生はちゃぶ台の上に古い雑誌を敷き、その上にフライパンを置いた。皿に移すのも面倒だし、洗い物は少ない方がいい。
ちょうどそのとき、炊飯器から炊きあがりを知らせる電子音が鳴った。
「おっ、ナイスタイミング」
蓋を開けると、白い湯気が立ち上った。
炊きたてのご飯をしゃもじで軽くほぐし、茶碗にたっぷりよそう。さらにマグカップにインスタント味噌汁を作り、ちゃぶ台へ運んだ。
大盛りの白飯。豚肉ともやしの塩コショウ炒め。それに味噌汁。
見た目は地味だし、フライパンをそのまま食卓に出しているあたり、いかにも独り暮らしの男の飯という感じだ。
それでも、温かいご飯とおかずが好きなだけ食べられる。
七生は手を合わせた。
「いただきます」
まずは炊きたてのご飯を一口頬張る。
「……うん、ちゃんとご飯だ。美味い!」
続いてフライパンから豚肉ともやしをつまみ、口に放り込んだ。
塩コショウだけのシンプルな味付けだが、これもちゃんと美味い。少し濃いめの塩加減が白いご飯によく合う。
七生は夢中で箸を動かした。
考えてみれば、こんな普通の食事をするのも久しぶりだった。金さえあれば米も肉も買えるし、こうして温かい飯を腹いっぱい食べられる。
当たり前のことなのに、今はそれがありがたくて仕方がなかった。
……よし、ここから俺の人生、巻き返しだ!
いつまでも貧乏暮らしを続けているわけにはいかない。できれば、まっとうな仕事をして、まともな生活を送りたい。毎日の食事にも困らず、家賃の心配もせず、たまには外食だってできるような生活だ。
七生は心からそう思った。
もっとも、今の自分は異世界の闇バイトに終身雇用されている身なのだが。
……それはまあ、おいおい考えよう。
夕食を食べ終えた七生は、フライパンと食器を流しへ運んだ。
久しぶりの自炊は大成功だった。米はまだたっぷりあるし、肉ももやしも残っている。明日の食事にも困らない。
鼻歌交じりに洗い物をしていると、ふとゴミ箱の中に捨てたバナナの皮が目に入った。
……そういえば、バナナには使えたんだよなぁ。
七生は洗い物を終えると、ゴミ箱からバナナの皮を拾い上げた。
熟成速度を加速させられるということは、もっと加速させたらどうなるんだろう。
手のひらにバナナの皮を載せ、意識を集中する。
……加速。
「おっ?」
皮に浮かんでいた茶色い斑点が、見る間に増えていった。黄色い部分がどんどん黒ずみ、やがて皮全体が真っ黒になる。それでも変化は止まらず、今度は水分が抜けるように縮み始めた。
数秒後、手のひらには黒く干からびた、バナナの皮だったらしいものが残っていた。
「……すげえな」
七生はそれを指でつまんで眺めた。
やっぱり、ちゃんと使えるんだ。
しかも、今のはバナナを美味しく食べるための使い方ではない。完全に食べ終わった皮を、さらに変化させたのだ。
ということは、美味しく食べることが発動条件というわけでもないらしい。
……でも、何で炊飯には使えなかったんだ?
バナナには使える。自分の身体にも使える。なのに、米を炊く速度は変えられなかった。
バナナと人間に共通していて、炊飯にはないもの。
……何だ?
生き物だからか?
いや、バナナの皮だって、もう実から剥がされている。生きているかどうかなんて関係あるのだろうか。
七生は手のひらの黒い物体を見つめながら考え込んだ。
バナナと俺。
バナナと……。
「……あっ!」
ある考えが浮かんだ。
「ステータスオープン!」
目の前にステータス画面が現れる。
MPは先ほどより一減っていた。バナナの皮にも、ちゃんとスキルが発動していたらしい。
その上にはHPの数値。
HP 7/7
そして、さらにその上に表示されている文字。
バナナ
「…………」
七生は目を見開いた。
……これか!
スキル名は【バナナをいつでもおいしく食べられる】。
そして、自分のステータスに表示されている名前は、バナナ。
「名前がバナナだってことか!!!」
思わず声を上げた。
「いやいや、そんなバナナ……」
自分で言っておいて何だが、ひどい駄洒落だった。
だが、もし今の考えが正しいのなら、スキルの使い道は想像以上に広いことになる。
……つまり、こういうこともできちゃうのか?
七生は手の中の干からびたバナナの皮を、ゴミ箱に向かって軽く放り投げた。
そして、自分がアメコミのヒーローのように素早く動く姿を思い浮かべる。周囲の動きがスローモーションに見えるほど、自分だけが高速で動くイメージだ。
「……加速!」
その瞬間、目の前の光景が一変した。
ついさっき放り投げたバナナの皮が、空中で止まっていた。
いや、違う。よく見ると、ほんのわずかずつ動いている。ほとんど静止しているように見えるが、ゆっくりと放物線を描きながらゴミ箱へ向かっているようだ。
……マジかよ。これ、すごくね?
七生は思わず笑みを浮かべ、試しに空中のバナナの皮を掴んでみようとした。
「……ん?」
身体が重い。
腕を伸ばそうとしても、思うように動かせない。足を踏み出そうにも、まるで全身に重りをつけられたようだった。
……何だこれ。俺だけ速くなったんじゃないのか?
七生は無理やり足を踏み出そうとした。最初はほとんど動かなかったが、何度も力を込めているうちに、少しずつ身体を動かせるようになってきた。
一歩、二歩と進む。
……重っ。
動き始めてしまえば何とかなるものの、身体を動かすたびに妙な抵抗がある。周囲の空気そのものが重く、まるで水の中を歩いているようだった。
七生は何とかバナナの皮に近づき、腕を伸ばした。
指先が触れる。そのまま握り込むと、空中に浮かんでいた皮を掴むことができた。
「……取れた!」
自分が投げたものを、落ちる前に自分で拾う。普通の人間にはまず不可能な芸当だろう。
ただ、いつまでもこの状態でいるのはしんどい。身体を動かすだけでも、かなりの力が必要だった。
七生はスキルの効果が消えるところをイメージした。
「……加速解除!」
その瞬間だった。
「がはっ……!」
猛烈な息苦しさが襲ってきた。七生は胸を押さえ、何度も大きく息を吸った。
「ハァッ……ハァッ……!」
同時に、止まっていたように見えた周囲の時間が、一気に元の速さへ戻っていく。
部屋の中は、何事もなかったかのように静かだった。
七生はその場にしゃがみ込み、呼吸が落ち着くのを待った。
……ちょっと待てよ。
手の中には、黒く干からびたバナナの皮がある。こいつはスキルで変化を加速させた結果、あっという間にこんな姿になってしまったのだ。
ということは、自分の身体も同じなのではないだろうか。
さっきはアメコミのヒーローみたいに動けると思ったが、実際には空気の抵抗だけでも相当なものだった。解除した途端に息苦しくなったのも、無理やり身体を速く動かした反動かもしれない。
……これ、下手したら死ぬんじゃね?
もっと極端に加速させたらどうなるのだろう。筋肉や心臓にかかる負担だって、とんでもないことになるはずだ。
何しろ、自分のSTRはたったの六である。
米十キロを運ぶだけで死にかけるような身体で、超高速移動なんてしていいわけがない。
「……使い方、ちゃんと考えないとヤバいな」
スキルが強力なのは間違いなさそうだが、調子に乗って使えば自分の命まで危ない。
七生は干からびたバナナの皮を、今度こそゴミ箱に放り込んだ。
そのときだった。
ポンッ。
スマホからLINEの通知音が鳴った。
「……ん?」
ちゃぶ台に置いていたスマホを手に取り、画面を確認する。
送信者は『高収入案件紹介センター』。
「…………」
せっかく、まっとうな仕事をして人生をやり直そうと思っていたところなのに。
七生は何とも言えない気分で、届いた通知を見つめた。
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