第9話 見立てのできないひと
馬車が工房の前に停まったのは、日が昇って二刻ほど経ったころだった。
寝ていない目で見ても、良い馬車だと分かった。轅の塗りが新しい。ケラー伯爵家の紋が入っている。降りてきたのは、若い令嬢だった。
「ヴァイラント灯明工房は、こちらでよろしいでしょうか」
声が硬かった。緊張しているのだ。わたくしは前掛けのまま戸口に出た。
「こちらでございます」
「わたくし、アンネリーゼ・フォン・ケラーと申します」
名前は知っていた。六年連れ添った人が、離縁を言い渡す前の晩に口にした名前だ。
「存じ上げております」
「……はい」
令嬢は俯いた。それから、思い切ったように顔を上げた。
「不躾に伺いました。どうか、お帰りくださいと仰らないでください」
「申しません。中へどうぞ」
ハンナが奥で鍋を落とした音がした。わざとだと思う。
アンネリーゼ様は、工房の椅子に浅く腰かけた。膝の上に小さな包みを置いている。手土産だ。断ると角が立つので、受け取った。
「先日の夜会のことは、伺いました」令嬢は言った。「わたくしも、おりました」
「さようでございますか」
「衣装が、灰色になりました」
それは、白かったということだ。
「オルレンス公爵から、次の夜会の灯りの見立てを任されました」
「見立て、と仰いますと」
「どの蝋燭を、どこに何本置くか、決めるようにと」
わたくしは黙って続きを待った。
「わたくし、できません」
令嬢は膝の上で指を組み直した。
「できないと申し上げたのですが、『誰でもできることだ』と仰って。それで昨日、備えの箱を開けて、焼き印を見たのです。数字が打ってあって、その横に字があって」
「等級の印でございますね」
「読み方が、分かりませんでした」
わたくしは椅子を引いて、令嬢の向かいに座った。
「上の数字が等級です。一から五まで。数が小さいほど上でございます」
「一が、いちばん良いのですか」
「はい。ただし『良い』は『明るい』ではございません。一等は、煤を出さずに長く保つという意味です。大広間で使うと、届かなくて暗く感じます」
「では、大広間には」
「二等の平打ちを混ぜます。一等ばかり並べると、卓の端が見えません」
令嬢は身を乗り出した。目が動いていた。
「混ぜてよいのですか」
「混ぜます。というより、混ぜないと成り立ちません」
「存じませんでした。わたくし、良いものを全部並べればよいのだと」
それは、多くの方がそう思っておいでだ。
わたくしは紙を出して簡単な図を描いた。長い卓。窓。扉。窓際は風がある。だから芯を短くする。短い芯は炎が小さい。小さい炎は風に倒れない。
扉の近くは人が通る。人が通ると空気が動く。動いた空気は炎を揺らす。揺れた炎は蝋を偏って溶かす。だからここは芯を長めにして、炎そのものを太くしておく。
中央は届かせなければならない。だから平打ちを立てる。平打ちは煤が出やすい。出させないために、その二本だけは等級の高いものを使う。
これで一等が四本。二等が八本。数だけ見れば二等のほうが多い。良いものを多く並べた卓は、暗い。
令嬢はそれを写した。自分の手帳に鉛筆で。
「なぜ、教えてくださるのですか」
途中で、令嬢が顔を上げて訊いた。
わたくしも、少し考えた。教えない理由なら、いくつもあった。この方が困っても、わたくしの損にはならない。むしろ困ってくれたほうが、坂の上は静かでなくなる。
「灯りが煤を出すと、困るのは召使いだからです」
わたくしは言った。
「拭くのは侍女です。鍋を捨てるのは厨房です。衣装を洗うのは洗い場です。夜会でお困りになる方より、翌朝に困る方のほうが多うございます」
「……はい」
「それに、教えても、どうにもなりません」
令嬢は手帳から顔を上げた。
「置き方が分かっても、置く蝋燭がございません。オルレンス家には今、等級つきの蝋燭を納められる者が一人もおりませんので」
「買えばよいのでは」
「買えません。組合の決まりで、専属の先約がある家には、他の灯り師が卸せないのです」
「では、その専属の方に」
「わたくしでございます」
令嬢は、鉛筆を落とした。
しばらく誰も何も言わなかった。ハンナが奥で鍋を洗う音だけがしていた。鉛筆は床を転がって、作業台の脚に当たって止まった。トビアスが陰から出てきて、それを拾った。令嬢の足元に置いて、また陰へ戻る。
令嬢は「ありがとう」と言った。少年は答えなかった。令嬢はそれを気にしなかった。気にしないというのは、たぶん気づかなかったのではない。答えないことを、そのままにしておいてくれたのだ。
「……存じませんでした」
「ご存じないのが当然でございます。書いてあるのは組合の帳面で、屋敷の帳簿ではございませんから」
「コンラート様は、ご存じなのでしょうか」
「三度、申し上げた方がおられます」
令嬢は、両手を膝の上で握った。
「あの方は、『そのようなものは無効だ』と仰いました。わたくしの前でも」
「そうでしょうね」
「あれは、無効ではないのですね」
「無効ではございません」
令嬢は、しばらく手帳を見ていた。それから、小さな声で言った。
「わたくし、あの家に入って、何ができるのでしょう」
答えなかった。答えるべきことではない。この方に悪意は無い。それは、話していれば分かる。ただ、悪意が無いことと、務まることは別だ。そして、それを教える立場にわたくしは無い。
令嬢は立ち上がって、深く頭を下げた。
「本日は、ありがとうございました」
「お役に立てず」
「立ちました。読み方を教わりました」
戸口で、令嬢は振り返った。
「一つ、伺ってもよろしいですか。今夜、組合の中庭で審査がおありだと聞きました」
「ございます」
「拝見してもよろしいでしょうか」
わたくしは、少し驚いた。
「公開でございますので、どなたでも」
「では、参ります」
馬車が出ていったあと、ハンナが奥から出てきた。
「教えたのかい」
「教えました」
「お人好しだね」
「そうかもしれません」
わたくしは令嬢の残していった手土産を開けた。菓子だった。銀紙に包んである。高いものだ。手土産を持ってくる客は、ふつう用件を通したい客だ。あの方は用件を通さなかった。読み方だけ聞いて帰った。
紙には、写しきれなかった図の一部が残っていた。線は歪んでいる。それでも窓と扉の位置は合っていた。あの方は書き写した。
坂の上で、それをした人は一人もいない。六年のあいだ一人も。誰も訊かなかったし、誰も書かなかった。分からないと言った人すら、いなかった。
「気に入ったのかい」ハンナが訊いた。
「いいえ」
「そうかい」
「ただ、あの方はご自分で『できません』と仰いました」
できないと言えるのは、できる人の傍にいたことがない人だ。あの家では、それは珍しい。
等級の一等は「明るい」ではなく「煤を出さずに長く保つ」という意味です。だから一等ばかりを並べた大広間は、格は高いのに卓の端が見えません。良いものを全部並べると失敗するのは、灯りに限らないのかもしれません。
次回、中庭に二本を立てます。屋根はありません。組合長が見ています。




