第7話 判を押す順番
最初に訪ねたのは、東門のヴェッセルという灯り師だった。
父より十ほど年下で、若いころ父の工房で三年働いている。父の葬儀にも来た。焼香のあとで「困ったことがあれば」と言った。あれは社交辞令ではなかったと思う。
「後見ですか」
ヴェッセルさんは工房の戸口でそう言って、それきり言葉が続かなかった。中には入れてもらえなかった。
「一月後の審査です」
「ええ。存じております」
「父の代からのご縁で、厚かましいとは存じますが」
「厚かましくはありません」
ヴェッセルさんは自分の手を見ていた。灯り師の手だ。指の腹が平らになっている。
「うちは、オルレンス家に卸したことがあります」
「専属ではありませんね」
「専属ではありません。祝いの折の追加分だけです。年に二度ほど」
二度でも、取引は取引だ。
「わたしが後見に立てば、あの家に知れます」
「知れれば、二度がゼロになりますか」
「なるでしょうな」
それだけの話だった。恨む理由がない。
「申し訳ない」
「いいえ。伺えてよかったです」
「本当に申し訳ない」
ヴェッセルさんはもう一度言った。二度言う人は、たぶん本当に悪いと思っている。
二人目は、西の市場の裏にいた。
こちらは会うこともできなかった。使いの子が出てきて「留守です」と言った。奥で人の声がしていた。
三人目からは、訪ねる前に断りの手紙が来るようになった。王都は狭い。灯り師は四十人しかいない。誰がどこを訪ねたかは、その日のうちに回る。
五日目の夜、ハンナが数を数えた。
「四十人のうち、南半分の卸を使ってるのが二十六」
「シュタイン様の倉ですね」
「残り十四のうち、オルレンス家に何かしら納めたことがあるのが九」
「では五人」
「その五人のうち三人は、あんたの親父さんと揉めて出ていった連中だ」
残りは二人。その二人の名を、ハンナは言わなかった。言うまでもなかったからだ。訪ねる前に断りの手紙が来た二人が、それだった。
誰も悪くない。悪い人が一人もいないまま、道だけが塞がっていく。
六日目に、わたくしは組合会館へ行った。
会館は王都の中央にある。石造りで、天井が高い。玄関の吹き抜けに大きな燭台が下がっていて、そこに立っているのが全部、等級の焼き印つきだ。ここに入る者に、まず等級を見せるための燭台だった。
組合長のフーゴ・シュタイン様は、二階の一室でわたくしに会った。
五十をいくつか越えた方で、髪が薄く、指が太い。机の上に帳面が三冊あって、そのうちの一冊を開いたまま話をした。
「ヴァイラントの娘さんか」
「はい」
「親父さんは惜しかった。腕は王都で三本の指に入った」
「ありがとうございます」
「で。後見が集まらんそうだね」
わたくしは黙っていた。答えを求められていない質問だった。
「うちの決まりは知っているか。誰が誰の後見に立ったか、この帳面に日付順で残る」シュタイン様は開いた頁を軽く叩いた。「押した順番も、断った事実も、全部だ」
「断ったことも残るのですか」
「残らんよ。断りは記録せん。押した者だけが残る」
つまり、押さなければ何も残らない。
「そうすると、誰かが最初に押すのは怖いでしょうな」シュタイン様は言った。「二人目が付かなければ、その一人だけが名を残す。落ちた工房の後見に立った男として」
「ですから、順番なのですね」
「そうだ。順番だ」
この方は、隠さなかった。隠す必要がないからだ。
「シュタイン様は、卸をなさっておいでですね」
「うちは代々、卸だ。息子が継いでいる」
「王都の南半分と伺いました」
「そうだ」
わたくしは一度だけ、息を吸った。
「ヴァイラントの蔵には、三年前の秋の蜜蝋が九段ございます」
「知っている。届出があるからな」
「あれが動けば、南半分の卸に響きますか」
「響くね」
シュタイン様は、少しも動じなかった。むしろ、そこを突かれたことに満足したように見えた。
「私怨は無い。娘さん、これは商売だ。あんたの蔵が生き返れば、うちの倉が減る。それだけだ。恨むなら不作の年に北の谷まで人をやった親父さんを恨みなさい」
「恨みません」
「賢いね」
シュタイン様は帳面を閉じた。話は終わり、という合図だった。わたくしは立ち上がらなかった。
「一つ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「後見を集められなかった者が、審査を受ける道はございますか」
シュタイン様は、初めてわたくしの顔をまともに見た。
「あるよ」
「ございますか」
「決まりの端に書いてある。誰も使わんから、皆忘れているがね」
シュタイン様は三冊目の帳面を引き寄せて、後ろのほうの頁を開いた。細かい字で、追記のように書かれた一行があった。
「後見が二名揃わぬ場合、組合長が代わって保証を出せる。ただし、その場で腕を確かめた上で」
「その場で」
「そうだ。私が課題を出して、私が見る」
わたくしは頁の文字を目で追った。書いてある。たしかに書いてある。
「では、お願いいたします」
「即答だな」
「他に道がございませんので」
シュタイン様は笑った。愉快そうな笑い方ではなかった。
「一つ言っておく。この道を使った者は、二十年で三人いる。三人とも落ちた」
「課題が難しいのですか」
「課題は私が決める」
それが答えだった。
「日取りは審査と同じ十四日。場所はこの会館の中庭だ。課題は前日に伝える」
「前日でございますか」
「前日だ。仕込む暇を与えたら、腕を見たことにならんだろう」
仕込む暇。
蝋燭というのは、仕込みが全部の仕事だ。前日に言われて用意できるものなど、たかが知れている。この方はそれを承知で言っている。
「承知いたしました」
わたくしは頭を下げて、部屋を出た。
階段を下りる途中で、吹き抜けの燭台を見上げた。等級つきが十二本。全部、南半分の卸のものだろう。よく燃えている。悪い品ではない。
途中の踊り場で、若い書記とすれ違った。先日うちへ来た人だ。書記は目を伏せて、通り過ぎてから小さな声で言った。
「中庭の東側は、午後から風が回ります」
わたくしは振り返らなかった。書記も振り返らなかった。教えてはいけないことを教えたのだ。名を出さずに済むように、こちらも礼を言わなかった。
工房に戻って、ハンナに話した。
「中庭で、前日通告だって」
「はい」
「落ちた三人ってのは、どんな課題を出されたんだろうね」
わたくしは知らなかった。訊いても教えないだろう。
「一人は知ってるよ」ハンナが言った。「十二年前だ。北門のクレッチマーってのが、この道を使った」
「どうなりましたか」
「風の強い日に、屋根の無いところで、燃やし比べをやらされた」
「燃やし比べ」
「二本立てて、長いほうが勝ちだ。あの男の蝋は良かった。ただ、風の日の芯じゃなかった」
わたくしは手を止めた。
中庭というのは、屋根が無いということだ。屋根が無いということは、その日の風を、こちらが選べないということだ。
組合の帳面に残るのは「押した人」だけで、「断った人」は残りません。だから断ることには何の傷もつかず、押すことにだけ危険があります。こういう決まりは、たいてい誰かを止めるためではなく、誰も動かないようにするために作られています。
次回、課題が伝えられます。前日に、二つ。




