第6話 看板を、洗いました
看板は、蔵の梁に立てかけてあった。
三年ぶんの埃をかぶって、文字が読めなくなっている。ヴァイラント灯明工房。父が彫って、父が塗り直して、最後に下ろしたのも父だ。
わたくしは水と刷毛でそれを洗った。半刻かかった。塗りは剥げていたが、彫りは残っていた。彫りは深く入れておけば残る。塗りは表面だから落ちる。父はいつもそう言っていた。
「新しく彫らないのかい」ハンナが訊いた。「あんたの名前で」
「工房の名は変わりません」
「そうかい」
「それに、彫るには時間がかかります」
わたくしは看板を戸口の上に掛けた。トビアスが下から釘を渡してくれた。
掛けてから、道に出て見上げた。文字は読める。塗りが剥げているぶん、彫りの影が濃く出て、かえって遠くからでも分かる。
「曲がってるよ」ハンナが言った。
「どちらへ」
「右へ半寸」
直した。もう一度見上げた。今度は何も言われなかった。三年ぶりに、この道から工房の名が見える。
値をどうするかで、半日揉めた。
「等級つきの半分でいいだろ」ハンナが言った。
「高すぎます」
「安すぎるほうが怖いんだよ。安いのは悪いからだと思われる」
「等級が無いから安いのです。悪いから安いのではありません」
「その違いを、客が分かると思うかい」
思わなかった。
結局、等級つきの三分の一に決めた。獣脂の三倍だ。高いと言われるだろうと思った。
トビアスが値札を書いた。字は書けないので、数だけ書く。線と点で数を表す、この子だけの書き方だ。それでも数は合っていた。合っていれば構わない。
最初の客は、その日の夕方に来た。坂下の宿屋の主人で、ザイデルという。太った男で、片方の靴だけ新しかった。
「三倍だってな」
「三倍です」
「獣脂の」
「はい」
「じゃあ、五本」
わたくしは手を止めた。値切られると思っていた。
「お確かめになりませんか」
「確かめる。だから五本だ。一本じゃ分からんだろう」
ザイデルは金を置いて、それから言った。
「うちは階段が危ないんだ。夜中に客が上がる。獣脂だと、三段目のところで必ず暗くなる」
「三段目」
「曲がってるんだよ、階段が。曲がったところで灯りが届かなくなる」
わたくしは五本を包む手を止めた。
「見に行ってもよろしいですか」
「今からか」
「今からです」
宿の階段は、思った通りだった。
途中で右へ折れていて、下の燭台からは折れた先へ光が回らない。宿の主人は燭台を増やしたことがあるが、増やすと今度は下が暑くなって、客が文句を言ったそうだ。
「一本で足ります」わたくしは言った。「置く場所を変えれば」
「変える場所なんか無いぞ」
「壁ではなく、曲がり角の内側の柱に。高さは客の腰の位置に」
「腰。目の高さじゃなくてか」
「階段で見たいのは段です。顔ではありません」
ザイデルは黙って、それから柱を叩いた。
「釘を打つぞ」
「どうぞ」
燭台を移して、火を入れた。
曲がり角の先の三段に、灯りが届いた。四段目までは届かない。だがそこは真っ直ぐな段だ。段が真っ直ぐなら、人は足元を見ない。
「……見えるな」
「見えます」
「三十年ここにいて、初めてだ」
二階の廊下からも、宿の客が二人ほど顔を出していた。何が始まったのかという顔で、階段の下を覗いている。
「見えるようになったんだよ」ザイデルが上へ怒鳴った。「足元が」
「ずっと見えなかったのか」客の一人が言った。
「見えなかったな」
「言ってくれれば、こっちも気をつけたのに」
「言うことじゃないと思ってた」
わたくしは燭台の位置をもう一寸だけ下げた。それで四段目にも、うっすらと届くようになった。
ザイデルは五本の包みを抱え直して、それからもう一度、こちらを見た。
「あんた、公爵家の奥方だったろ」
「一昨日までは」
「じゃあ坂の上の連中は、あんたに階段を見せたことがあるのか」
「ございません」
「そうだろうな。あそこは全部真っ直ぐだ」
工房に戻ると、日が落ちていた。
その日の売り上げは、五本ぶん。等級つきの一本にも届かない。ハンナは帳面にそれを書いて、しばらく見ていた。
「三年ぶりだね」
「はい」
「親方の名前じゃない」
帳面の頁の上には、工房の名だけが書いてある。売った者の名は、まだどこにもない。等級が無いからだ。
それでも、六年ぶりに、わたくしの手から出たものに値段がついた。
組合の書記が二度目に来たのは、その三日後だった。持ってきたのは告知の写しで、審査の日取りが入っていた。一月後の十四日。場所は組合会館。
「必要なものは、こちらに」
書記が指した行には、こう書いてあった。
——登録灯り師二名の後見書。
「二名です」
「二名でございます」
「心当たりを伺ってもよろしいですか」
「わたくしは書記でございますので」書記は帽子を取った。「ただ、一つだけ。組合長のシュタイン様は、後見書に判を押す順番を管理しておられます」
「順番」
「どなたが誰の後見に立つか。会館の帳面に残ります」
書記は帰った。残ったのは、日取りと、二名という数字だ。
ハンナが告知の写しを裏返して、灯りにかざした。透かしが入っている。組合の正式なものだ。
「順番を管理する、ってのは」
「押させない、という意味でしょうね」
「回りくどいね」
「断ったことにはなりませんから」
誰も「駄目だ」とは言わない。ただ、判が押されないだけだ。押されなければ書類は揃わない。揃わなければ審査には出られない。出られなければ、落ちたことにもならない。
記録には何も残らない。
◇
コンラート・ドゥ・オルレンスは、その夜、書斎の蝋燭を自分で取り替えた。
燭台の受け皿に残った蝋を、指で押し出す。うまく取れなかった。爪の先が黒くなった。これまで一度も、この作業を見たことがなかったことに、彼は気づいた。取り替えられているところを見たことがない。朝には新しくなっていた。
新しい蝋燭は、屋敷の備えの箱から出したものだ。等級の焼き印がある。父の代からの取引先の名だ。悪い品ではない。
火を移す。書き物机に向かう。手紙を三通書いた。二通目の途中で、目が痛くなった。
顔を上げると、炎の上に細い煙が立っていた。真っ直ぐではない。捻れて、天井のほうへ消えていく。焦げた甘い匂いがした。
「……こんなものだったか」
彼は独りごちた。声に出したのは、答える者がいないからだ。
書斎の蝋燭が煙を出したことは、たしか、一度も無かった。無かったはずだ。だが記憶にないというのは、覚えていないだけかもしれない。灯りのことなど、覚えている理由がない。
彼は羽根ペンを置いて、指の爪を見た。黒い。
それから、机の抽斗を開けて、家の帳簿を出した。頁を繰る。厨房、馬房、薪炭、洗い場。飼葉の値も屋根の修繕費も、全部そこにある。
灯りの項目を探した。
無かった。
二十二年ぶんの帳簿のどこにも、灯りに使った金は書かれていなかった。
彼は少しのあいだ、その頁を見ていた。それから帳簿を閉じ、こう思った——これは、当家がそのぶん得をしていたということだ。
煙は、まだ細く上がっていた。
階段の灯りは、顔ではなく段を照らすものです。だから燭台は目の高さではなく腰の高さに置きます。宿屋や旅籠でいちばん多い事故は、曲がり角の三段目で起こります。
次回、後見人を探しに組合会館へ参ります。判を押す順番を管理している方に、会わなければなりません。
ブックマークをいただけますと、看板の塗り直しがもう一度ぶん進みます。




