第5話 王城の燭台方
「どちら様でしょうか」
わたくしは戸を半分だけ開けたまま訊いた。夜に蔵の話をしにくる客に、いい客はいない。
「失礼いたしました。ユリアン・レーゲンと申します」男は帽子を胸に当てた。「王城の燭台方です」
燭台方は、王城の灯りを管理する役だ。名前は聞いたことがある。会ったことはない。公爵夫人だった六年のあいだ、わたくしは王城の夜会に八度出たが、そのどれでも灯りは点いていた。誰が点けたかを考えたことは、一度もなかった。
「三年前の秋の蜜蝋を、なぜご存じなのですか」
「組合の帳面です。搾った年と季節は、届出が要ります。作った蝋燭の数は届けなくてよいのですが、寝かせている蝋は届けなければならない」
知らなかった。父が届けていたのだ。畳むと言いながら。
わたくしは戸を開けた。ハンナが鍋の前から動かずにこちらを見ている。トビアスは作業台の陰から半分だけ顔を出していた。
「蔵を見せていただけますか」
「等級は打てません。ここには登録の灯り師がおりませんので」
「存じております。見せていただくだけで結構です」
蔵に下りると、レーゲン様は札を読まずに息を吸った。
「秋ですね」
「札を見ておられませんが」
「見なくても分かります。秋の蝋は匂いが浅い。夏のは重い」
それから手前の段に近づいて、もう一度吸った。
「これは、北の谷の巣ですね。蕎麦の花が混じっている」
「……北の谷です」
「三年、置いてありますね。二年半だと、まだ角が残ります」
わたくしは階段の途中で足を止めていた。
この方は、王城の官職の口ぶりで話さない。町の職人の口ぶりだ。匂いで産地を言い当てるのは、帳面を読む人の芸ではない。
「失礼ですが、どちらで覚えられたのですか」
「南門です。十二まで、蝋屋の裏で育ちました」
レーゲン様は段の高さを目で数えていた。九つ。それから、蔵を出た。
「王城には、冬至の夜会があります」
「存じております」
「大広間は天井が高い。届く灯りが要ります。届く灯りには、寝かせた秋の蝋しか使えません。夏の蝋は明るいのですが、上がる前に燃え尽きる」
それはそうだ。夏の蝋は柔らかい。柔らかい蝋は速く減る。
「王室の御用達は、今それが足りておりません」レーゲン様は言った。「三年前の秋に、王都で搾りが不作でした。そのぶんが今年、効いてきます」
三年前の秋。父が臥せった月だ。父はその不作の年に、わざわざ北の谷まで人をやって蝋を買っていたことになる。
不作の年の蝋は高い。買う理由が無い。三年後に使う当てが無ければ、ただ寝かせるだけの荷物だ。工房を畳むと言っていた人が、いちばん高い年に、いちばん多く買った。
「不作の年に買われた蝋は、たいてい残っていません」レーゲン様が言った。「高くて手が出ないか、出た人はすぐ使ってしまう。三年寝かせたまま残っているのは、よほど使い道を決めていた方だけです」
「父は、畳むと申しておりました」
「口では、そう仰る方もおられます」
「こちらの蔵は、王都で唯一の当たりです」
わたくしは礼を言わなかった。言えなかった。
「一本、灯してみてもよろしいですか」
レーゲン様が言ったので、わたくしは昨日流した中から一本を選んだ。三年前の秋の蝋で、芯は父の残した束から取ったものだ。まだ誰にも売っていない。
作業台に立てて、火を移した。
炎が上がる。上がりきって、そこで止まる。揺れない。
レーゲン様は身を屈めて、炎の高さに目を合わせた。それから、しばらく何も言わなかった。
「揺れませんね」
「風がありませんので」
「風があっても揺れないでしょう、これは」
トビアスが、いつのまにか横に来ていた。作業台の陰から出て、レーゲン様の隣に膝をついて、炎に耳を寄せている。知らない大人がいるのに、逃げなかった。
少年は炎の音を聞いて、それから鋏を二回鳴らした。
「今のは」レーゲン様が訊いた。
「良い、という意味です」
「なるほど。……わたしもそう思います」
二人は同じ高さで炎を見ていた。片方は王城の官職で、片方は口をきかない見習いだ。同じ姿勢だった。
「ですが、お売りできません」
「等級ですね」
「はい」
「取る気はおありですか」
レーゲン様は、そこで初めてわたくしの顔を見た。
この方は、ここへ来てから一度も、わたくしの離縁のことを訊いていない。
王都の噂は速い。公爵夫人が離縁して坂を下りた話は、三日で回っている。それでもこの人は、蝋の話しかしなかった。訊かれないというのは、思っていたよりずっと楽なことだった。
「取れるのですか」
「年に一度、審査があります。次は一月後です」
「わたくしには登録がありません」
「登録は、審査に通れば付いてきます」レーゲン様は帽子をかぶった。「ただし、後見が要ります。組合の登録灯り師が二名、あなたの名で保証を出す必要がある」
二名。
「王城の燭台方は、後見に立てますか」
「立てません」レーゲン様は即答した。「立てれば、王城が特定の工房を引き上げたことになります。それは組合の決まりより重い」
「では、なぜ来られたのですか」
「蔵を見に来ました。それだけです」
戸口で、レーゲン様は一度だけ振り返った。
「余計なことを一つだけ申します。あなたが等級をお取りになったら、王城はあなたから買います。安くも高くも買いません。ただ、買います」
「買っていただけるのですか」
「王城には、蝋が要るからです。誰の蝋かは、二の次です」
戸が閉まった。わたくしはしばらくその場に立っていた。二の次だと言われて、腹が立たなかった。むしろ、六年ぶりに息がしやすかった。
「取るのかい」
ハンナが鍋の向こうから言った。
「取ります」
「二名だよ」
「存じております」
「あんたを保証してくれる灯り師が、この王都に二人いると思うかい」
わたくしは思わなかった。
組合の灯り師は四十人ほどいる。そのうちの何人が、公爵家と揉めたばかりの工房に名前を貸すだろう。
「後見に立つってのはね」ハンナが火を落としながら言った。「もし審査に落ちたら、立てた側にも傷がつくんだ。腕を見抜けなかったってことになる」
「では、確実に通る相手にしか立ちませんね」
「それか、断れない義理のある相手にね」
父には義理があったはずだ。二十二年やっていたのだから。ただ、父はもういない。義理は人に付くもので、工房に残るものではない。
「一月だよ」ハンナは言った。「一月で二人だ」
それでも、蔵には九つの段がある。父は三年先の誰かのために、あれを積んだ。積んだ本人は、その三年先にいない。
「取ります」わたくしはもう一度言った。「一月後です」
トビアスが作業台の陰から出てきて、鋏を二回鳴らした。
それから、まだ作業台に立ったままだった一本の前へ行って、指で高さを測った。夜のあいだに減った分を数えている。
「一晩で、どれだけ減ったの」
少年は指を三本立てた。
「三分。よく保っています」
トビアスは頷いて、また陰へ戻った。
わたくしはその一本を消して、他の蝋燭と一緒にしなかった。作業台の端に、立てたままにした。
蔵を見に来ただけだと、あの方は仰った。見に来ただけの人は、段の数を覚えて帰らない。
蜜蝋の匂いは、蜂が集めた花で変わります。蕎麦の花が混じると重く、菩提樹だと澄みます。だから匂いを覚えている人は、蝋を見ただけでどの谷のものか分かります。帳面より鼻のほうが早い場面は、意外とあります。
次回、看板を上げます。三年ぶりに、この工房が客を取ります。




